「ところで……」 マティロウサはサフィラの方に目を向けた。
「妙に静かだと思ったら、魔白はまだそれを読んでるのかい?」
見ればサフィラは古ぼけた椅子に座り込んで蝋燭の明りを前に、茶色く変色した紙を広げてそこに書き連ねてある文字を覆いかぶさるように読んでいる。一筋縄ではいかないのか、両脇に分厚い魔道書を置いて、羊紙皮と本と代わる代わる目をやっては考え込んでいた。
まるで側で話していたサリナスとマティロウサの言葉が耳に入っていないかのように見えたが、魔女に話しかけられてサフィラは意外にすんなり答えた。
「まだも何も、妙に長くてすぐには読めないよ。これは詩だな」
「古のね。英雄たちを歌った頌歌だよ。伝説の詩であると同時に予言詩でもある、と言われている」
「伝説と予言詩? 質が全然違うじゃないか。伝説は過去に属する物、そして予言は未来を先んじる物だ。そうだろ、氷魔?」
「確かにそうだが」 考え考えサリナスが口を開く。
「伝説が遠い未来に具現するとして、それを予言したもの、と取ることもできないか?」
「だが頌歌だぞ。英雄たちを称えた詩だ。今の世の中、英雄たちが活躍する場などどこにもありはしないと思うがな」
「今ではない、ずっと先のことかも知れんしな」
「では、いずれにしても我々に関係する予言ではなさそうだ。だが、見てみろ、氷魔。文字の一つ一つに魔の技が息づいている。読み取るごとに気力を吸い取られるような気分になる。これは完全に解読するまでには結構手間がかかりそうだな」
サリナスはサフィラの肩越しに紙を覗きこんで、サフィラの言葉が正しいのを見て取った。
「確かに。不思議な詩だな。羊紙皮がこんなに古いのに、書かれている文字からは魔法の匂いが少しも褪せていない。マティロウサ、これは一体どういう詩なんだ」
老いた魔女は羊皮紙にちらりと目をやったが、すぐに視線をはずし、大きく鼻を鳴らした。
「ふん、お前さん方で読解すりゃいいだろう。『優・秀』 な魔道騎士が二人もそろっているんだから簡単に出来るだろうに」
「棘のある言い方だ。『優・秀』 と区切って言うところが妙に引っ掛かる」
「まあまあ、魔白。今日はこれで引けよう。これ以上ここにいたら何を言われるか。なあ、マティロウサ。この詩をしばらく借りていてもいいかな?」
サリナスの問いに、マティロウサはほんの一瞬だけためらいを見せたが、やがて鷹揚にうなずく。
「好きにおし。詩が解けるまでしばらく来なくてもいからね。ゆっくり解読おし。どうせ、読めなくてすぐに返してもらうことになると思うけどね」
お前たちに解読できるわけがない、という響きを含んだ魔女のつれない言葉に二人の魔道騎士は顔を見合わせ肩をすくめた。
結局、羊皮紙はサリナスが持ち帰ることになった。
そのような魔道の物をサフィラが城に持ち込めば、王の機嫌を損ねることになりかねない。
サフィラとサリナスが帰る素振りを見せると、ウィルヴァンナは顔を上げて別れの挨拶を交わしながら二人に、とりわけサリナスに微笑みかけた。
二人がそれに気付いたかどうかはともかく、老魔女はその瞳の輝きを見逃さなかった。
マティロウサの家を出たサフィラは城門の側でサリナスと別れ、いつものように出来るだけ馬の足音を立てないようにして裏の馬舎へと急いだ。
しかし、王へのご注進を生き甲斐としている老廷臣が、城の窓からサフィラの帰還を今や遅しと待ち構えている図は容易に想像できたし、どんなにこっそりと帰ってきても、自分の部屋に戻らぬうちに、もっと早い場合には馬舎の入り口に行きつく先に、
「サフィラ様、王がお呼びです。お帰り次第、御前に御目見得なさいますようとのことでございます」
と、見るからに忠義第一、命令絶対といういかめしい顔の年老いた侍従が有無を言わせぬ態度でサフィラを待ち構えているのが常だった。そして王の眼前に連れていかれ、延々と続く愚痴めいた説教に見舞われるのである。
サフィラが無断で城を抜け出した時は必ずこういう事態が待っている。
更に言えば、サフィラは毎日のように城下に下りるので、王はほとんど毎日小言を繰り返している始末だった。
后が堪りかねて
「効果がありませんわ。あの子、全然応えていませんもの」
と言ってみても (本当は 『全然聞いていませんもの』 と言いたかったのだが)、王は聞き入れようともしなかった。后は王よりもずっと人が良く鷹揚な女性だったので、ことさらマティロウサやサリナスのことを悪し様に言うことはなかった。娘に関しても 『明るく素直で優しい子に育ってくれた』 と信じているので、これ以上望むのは贅沢だとでも考えているのか、王のように大仰に嘆くことは滅多になく、
「今にそれ相応の年になれば、ちゃんと娘らしくなりますわ」
と幾度も優しく王を説得するのだった。
最後にはいつもこの王后の執り成しによって王の小言はどうにか収まるのだ。
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「せめて『王女』でさえなかったらねぇ……」
結局のところ、マティロウサの結論はいつもそこに行きつくのだ。
サフィラが世継ぎの君などでなかったら、自分だってこの娘の才がどんなに立派に伸びていくか目を細めて見守っていられるだろうに。
「ああ、残念だったらないね」
「だからもう『王女』だとか言うのはやめておくれって、マティロウサ。この家にいる時は 『魔白(マギ・アシェ)』 と呼べって何度も言ってるだろう」
サフィラはじれったそうに言った。
『魔白』 というのは騎士の称号と共にサフィラに授けられた魔道名である。
「最近とみに口うるさくなったな、マティロウサは。こんなに文句を言われたんじゃ、これからはこの家に来にくくなってしまう」
「それこそ願ったりだね。どうせもう教えるようなことはないんだから。こう毎日毎日来られたんじゃかなわない。で、今日はどんな暇つぶしをなさりにおいでたのかね?」
「何という言い草。魔道に勤しむため来たに決まってるじゃないか」
こう言ってサフィラは思い出したようにさきほどの巻き物に目を戻した。
「この古文書、まだ私が読んでないやつだね」
「ああ、ずっとしまっておいたからね。しかし」 マティロウサはため息をついた。
「魔道に勤しむため、とはまた立派なことを言ってくれるじゃないか。魔道騎士の鏡だよ。でもね、いいかい、どんなに嫌がったって、やっぱりお前さまは王女、そしてこのヴェサニールの跡継ぎなんだから、そういう立場にある者としての自覚というものをだね……これ、聞いているのかい、サフィラ」
「無駄だよ、マティロウサ」 サリナスは割り込むように口をはさんだ。
「まったく耳に入ってないようだ」
サリナスの言葉通り、今のサフィラの関心はさきほどから気になっていた枯葉色の巻き物に注がれていた。マティロウサの話に聞き入っているようには見えない。
サフィラを弁護するようにサリナスは言った。
「自分がまだ目を通していない本や古文書があれば、読んでみないことには気が済まない。何とも勉強熱心な魔道騎士だ、と言うべきだろう。確かに王女ではある。だが、同時に若くして称号を受けることができた優秀な魔道騎士でもある。本人がああいうふうなんだから仕方がない。それに、サフィラは不遜になどなっていないさ。15というのは早すぎたかもしれないが、たゆまぬ努力はしているようだ」
「偉そうに。16で資格を取ったお前が言える台詞じゃないよ、氷魔(マギ・フロウ)」
氷魔というのはサリナスの魔道名である。マティロウサは言葉を続けた。
「大体、十代で魔道騎士になれる人間なんて、そうそういるもんじゃないんだよ。分かってんのかい? お前は今21才だけど……」
「22」
「……22才だけど、それでも普通に騎士になるには若すぎる年だ。これは 『幸運』 だけで片付けられる問題じゃないんだからね」
「分ってるよ。絶対に無駄にはしない」
「当り前さね」
「あれからもう六年だ。俺に称号をくれたのもマティロウサだったな」
サリナスが懐かしむように遠い目をした。
「マティロウサには本当にいろいろ教わった。感謝しているよ」
「ふん」
何を今更、という表情をしつつ、まんざらでもない様子のマティロウサである。
いつの間にかウィルヴァンナが部屋の中に静かに入ってきてマティロウサの側に控えていた。
マティロウサはこの 『夢解き』 の娘をちらりと見たが何も言わなかった。
サリナスが言葉を続ける。
「騎士の称号を授ける権利がある魔法使いたちの中で、居場所が確実に知れていたのはマティロウサだけだったからな。あなたの他は行方が知れなかったり、生きているのかどうかさえ分らなかった」
「そのせいでこっちは大忙しさ。なにしろあたしはヴェサニールの国が出来る前からここに住んでいたんだ。ア・アーカウラやカイナックなんて奴らは一つ所に落ち着いたためしがない。名は知られていても放浪の生を送ってるから今どこにいるかも分らない。おかげで魔道騎士になろうって連中は皆あたしのところに来るのさ。まったく面倒だったらないね」
「俺が試問を受けにきた時はさすがに驚いていたな」
「16才の志望者なんて見たことがなかったからね。あっさり合格した時はもっとたまげたさ」
サリナスは小さく笑って、困ったようにウィルヴァンナに視線を向けた。
一瞬、この若き魔女が体を強張らせたことには気づかなかったが。
老魔女が側にいる時、ウィルヴァンナはあまりサリナスと口をきこうとしない。
マティロウサに隠している(つもりの)思いを知られてしまうような気がしたからだ。
だから、こういう時ウィルヴァンナは口を開かずただひたすら皆の話に耳を傾け静かに微笑んでいるだけだった。燃える炎を押えるように時々サリナスの方へ目をやりながら。
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魔女の家は相変らず陰のある佇まいだった。
サフィラとサリナスは馬を家の前の杭につなぐと、勝手知ったるというふうに薄暗い部屋の中を進み、一段と暗い奥の部屋に通じる入口にたどりついた。
木製の扉が金属のように黒く艶光りし、重々しく二人の前に立ちはだかっていた。
「お入り」
サフィラがドアを押し開けようとする前に、中から乾いた声が響いた。
サフィラが取手に手をやると、錆びついた蝶番がきしんで独特の音を立てる。
部屋の中には、色々な魔法薬の匂いが混ざり合って、馴れない者だったら幻覚でも起こしかねないほどに濃い空気が漂っていた。
四方を棚で囲まれた狭い部屋の中心には、古い大きな机がその場のほとんどの空間を独占するかのように据えられている。その上には開きかけの分厚い本、真っ直ぐに伸ばした羊紙皮などがあふれかえり、他に物を置こうにもわずかな隙間さえも空いていなかった。
その机の向こう側に、人影が一つ見えた。
細い蝋燭の明りの中、年降りた魔女の顔が浮び上っている。
「城を抜け出す癖というのも困り物だね。また王の機嫌が悪くなる」
干からびてはいるが静かで威圧的な声が小さな部屋に響く。
二百とも三百とも言われる年月を経てきた魔女は居るだけで相手を圧する。
その前では人は皆赤子も同然だった。
マティロウサは大儀そうに椅子から立ち上がると蝋燭を吹き消した。
あっという間に部屋に闇が訪れ、サフィラとサリナスが立っている入口から外の光が差し込んで二人の長い影を床の上に落とした。
「あの気短かな王が、よくもお前さまの好き勝手にさせているもんだね。え、そうだろ? 日がな一日魔道に明け暮れ、怪しげな魔女の家に入りびたり……」
マティロウサはぶつぶつと文句を言いながら足速に部屋の外へと滑り出て、壁を埋めている大小様々な戸棚の一つの前に立って小さな扉をそっと開けた。その拍子に、薄暗がりの中でもはっきり分るほどに古ぼけた一枚の羊紙皮が、ひらひらと地面に落ちる。
マティロウサは眉をひそめてそれを拾い上げ、言葉を続けた。
「お前さまに魔道を手ほどきしたのも私、魔道騎士の称号を与えたのもこの私。王が私のことをどう思ってるか計らずとも知れるってもんだ。お后が取りなしてくださってるから、まだいいようなものの……でなかったら今頃ヴェサニールには住んでいないだろうさ」
「それ何の巻き物?」
マティロウサがたった今拾い上げた羊紙皮を指差してサフィラが尋ねた。
マティロウサの額に皺が増える。
「お前さま、相変らず人の話をお聞きでないね」
「聞いてるって。で、それ何?」
どうにも聞いているとは思えないサフィラの態度に、わずマティロウサは眉間を押えた。
それを見てサリナスが笑った。
「サフィラの大雑把な性格を一番よく知ってるのはあなただと思っていたが、マティロウサ」
「皮肉かい」
むっつりと魔女が答えた。
「冗談ごとではないんだよ。何といっても今お前と私の目の前にいるのは、この国の世継ぎの君なんだからね、サリナス」
「だから、世継ぎとか王女とか言うのはもうやめてくれ」
うんざりしたようにサフィラは唸った。
一介の魔道騎士として人生を過ごしていく、という王族にとってこれ以上ないほど不可能な願いを持つサフィラにとって、『跡継ぎ』とか『世継ぎ』などという肩書きは邪魔者以外の何者でもなく、できることならそれらすべてを投げ出してしまいたかった。
できるはずもない、と分かってはいたが。
「望んでそう生まれてきたわけではない、と開き直るつもりはないよ。生まれに負わされた責任から逃れるつもりもない。しかし、この身がまだ自由であるうちは、いかなる物事に自分の心が従事しようと誰に非難できようか……と、後の世の語り部たちは私のことを語るだろう。古の賢人リードの残した辞世の言葉に勝るとも劣らない」
「恐れ多い引き合いを出すんじゃないよ。まったく不遜な」
マティロウサは不機嫌な声で呟いた。
水汲みから帰ってきたウィルヴァンナが、隣の部屋で瓶に水を空けている音が聞こえてくる。
しばらくその音に耳を傾けていた魔女は、サフィラを見て大袈裟にため息をつき、こう言った。
「やっぱり15の子供、しかも 『王女』 なんかに称号を与えちまったのは無茶だったかねぇ……」
サフィラは15回目の誕生日を迎えたその日に魔道騎士の試問を受け、少なくとも一週間はかかると言われる問題をその半分の時間でやり遂げ、15になって四日目にはもう既に騎士の資格を許されていたという、前代未聞の魔道騎士である。
試問を受けることができるのは15の年から、しかも一度で合格するのは至難の技であるのにもかかわらず、である。
魔道騎士の仲間うちで 『あれは人間じゃない。15才で紫貝を手にするなんて』 と呆れ半分で囁かれるのも無理はない話である。
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中はいつも薄暗く、蝋の溶ける匂いが辺りに漂っている。
壁に張り付いた幾つもの戸棚には、さまざまな色の液体が入った大小とりどりの瓶、不思議な文字で何か書き記されているラベルを貼った箱、見たこともない植物を日の光の当たらない所で干したもの、触れると散り散りに消し飛んでしまいそうな変色した古い羊紙皮の束、そして動物の黒い皮を表に貼った厚く重々しい本の数々が所せましと並べられていた。
全て魔の術に関する物である。
マティロウサは魔女である。
それも 『古の諸々の魔法使い、あるいは魔女の名において』 魔道騎士の称号を人に授けることを許された数少ない一人である。
さて、サフィラも資格を有する 『魔道騎士』 とは何か。
古来、人はいわゆる自然や人智を超えた不可思議な現象や力を本能的に忌み嫌いながらも、生命を、あるいは国を守るためにそれらの超自然的な力に頼って武力の支えにしてきたことは事実である。そのような背景の中、魔道、魔法の類は未知かつ絶対の可能性であり、それを自由に使いこなすことができる者はある時は国主よりも重きを置かれた。
そして、この魔道の対極をいくのが剣、いわゆる騎士、戦士たちによって発揮される力である。
おのれの肉体の鍛練によって得られる技を信じ、剣を使って障害を切り捨てる力だ。
魔道と剣術。
本来は相容れない両者の融合をあえて具現したのが、『魔道騎士』 という特異な存在であった。
彼らはどちらにも属さず、どちらにも長けている。
もともと魔道騎士は、騎士や戦士が戦さにおいて、剣と魔道のどちらにも対処できるように簡単な呪文を身につけたのが始まりといわれている (逆に、魔道を使う者は剣を使おうなどとは考えもしないのだ)。しかし、今では騎士にとって魔道騎士の称号を得ることは一種の栄誉であり、本来の目的から離れてはいたが、依然として称号を希望する者が多いのは事実であった。
だが、望む者の数に対して見事にその資格を得る者の数は一割にも満たない。
試問が大層難しい上に、ほぼ九分九厘の正答率を出さないと合格とは認められないのだ。
騎士としての体力的な要素、剣の技術はもちろん、古の国の言葉の読解、薬となる植物の識別、適切で有効な呪文の使用、魔道の禁忌に関する知識などなど、合わせて千以上もの試問のほとんどに正しく答えなくてはならないのだから、この魔道騎士の検定に一度で合格する者はまずいないと言ってよいだろう。
試問に合格したなら、その騎士には魔道騎士の称号と共に、その証しとして紫貝の紋章と魔道名が与えられる。魔道名とは魔道との折り合いを円滑にするために魔法使いから与えられる名前で、その中には必ず 『魔(マギ)』 の一文字が含まれていなくてはならない。
なお、試問を受けることを許されるのは15才からである。
魔道騎士の試問を行い、称号を最終的に授けるのは、指定されている最上級の魔法使い等の役目である。
今ではその魔法使いの数も少なくなり、主だった者には、生ける伝説の主ア・アーカウラ、コレタ島のハスール、魔法使いの谷に住む老シヴィ、夢覚ましウァシネセリ、偉大なる者カイナック、フェレ・ハ・リシなどがいる。
そして、ヴェサニールのマティロウサもその一人だった。
『夢解き』 と呼ばれているウィルヴァンナという娘は、マティロウサの養い子である。
十数年前に拾われて以来、魔女の名を継ぐ者として修行に励んでいた。生来、魔の技を操る才があり、いつの日かきっと自分を越える力を身につけるだろうと、マティロウサの方も自分の知識のすべてをウィルヴァンナに与えるつもりだった。
その愛娘ウィルヴァンナについて、マティロウサが眉をひそめることが一つあった。
以前からもそうであったが、サフィラの友人である (王が認めるところではないが) 魔道騎士サリナスを見る娘の目が最近特に熱を帯びてきたことである。
勿論ウィルヴァンナの口から 「恋」 という言葉を聞いたわけではないが、老魔女にとって隠した心の内を読み取るくらい造作もないことだった。
若き魔道騎士の優美な顔立ちと立居姿は多くの娘たちの心を引いて止まず、ウィルヴァンナもその一人であったわけだが、老魔女はこのことをあまり喜ばなかった。
今はすべての意識を修行に注いでもらわなければならない。
そんなときに、他所事に気を取られるのは魔女にとっては好ましくないことだった。
この日快活な足音が聞こえてきた時、ウィルヴァンナは四つ角の井戸に水を汲みにきたところだった。ウィルヴァンナは馬のいななきを耳にすると、手にした桶を地面に置き、顔を輝かせて街道へと目をやった。
二頭の馬の乗り手を認めて、ウィルヴァンナは急いで側に駆け寄り、軽くお辞儀をした。
「ようこそいらっしゃいました、サフィラ様、サリナス様」
「やあ、『夢解き』 のウィーラ、ずいぶん久し振りのような気がするな」
サフィラは透き通った声で少年のように快活に言った。
ウィルヴァンナを古の賢女ウィーラニアにあやかって 『ウィーラ』 と呼び始めたのはサフィラである。ウィルヴァンナはその呼び名を気に入っていた。
「マティロウサはいる?」
「ええ、いらっしゃいますわ。今、知らせてきますわ」
「いや、いいよ、ウィーラ。いきなり行って脅かしてやろう」
「マティロウサが馬の足音を聞き逃がすとでも思っているのか?」 サリナスが笑いながら言った。
「水に落ちた羽毛の音だって聞こえるんだぞ、あの地獄耳は」
「まあ、サリナス様。でしたら、あなたが今おっしゃったことも、きっと今頃あの方のお耳に入っているかもしれませんわね」
「それは困る。口の悪さで小言を受ける役はサフィラに任せておこう」
サリナスは、晴れやかな瞳をウィルヴァンナに向けて微笑んだ。
ウィルヴァンナは呼吸が止まりそうなほどに自分の心が沸き立つのを感じた。
サリナスの言葉にサフィラがむっとする。
「失礼な奴だな。私は口は悪くない。正直なだけだ」
「正直すぎるのも時と場合によるが、少なくとも王女の使う言葉遣いではないことを自覚しろ」
「王女だと思うからさ。王族である前に魔道騎士。この考え方が正しい」
「王が聞いたら何と言われるか」
「冗談に聞こえないかな」
「聞こえると思うか?」
「賭けるか?」
サリナスが小さなため息をつく。
「父王をネタに賭けをする王女なんて、きっとどんな昔話にだって出てこないだろうな」
「そうか? だったら珍しい王女を持つヴェサニールの民はさぞ幸せ者だな。それよりウィーラ」
サフィラは、ウィルヴァンナに目を向けた。
「水汲み手伝おうか? 大変そうだ」
「いえ、とんでもない。サフィラ様にそんなことしていただいたらマティロウサ様に叱られてしまいます。お気持ちだけで結構ですわ。それより早くマティロウサ様をお伺いしてくださいませ」
「そう? それなら先に行ってるから。また後でね、ウィーラ」
言うが早いかサフィラは馬の頭を町はずれの一軒家へと向け駆け出した。
慌ててサリナスがそれに倣い、ウィルヴァンナにうなずくとサフィラの後を追った。
ウィルヴァンナはしばらくの間二つの後ろ姿を、特に栗毛の方の乗り手をぼんやりと見送っていたが、やがて小さくため息をついて地面の手桶の方へ手を伸ばした。
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気の荒い黒馬を軽々と御し、短い丈の衣を見につけて、水を通さないボーラの厚い皮で作ったブーツを履き、内陸では珍しい紫貝の飾りのついたピンで長いマントを流してヴェサニールの街道を疾走するサフィラの姿に、目を奪われない者はなかった。
健康的ですらりと伸びた体は同じ年頃の若者達よりも背こそ低かったが、華奢で優美であった。
幼さの残る中性的で整った顔立ちは、若い頃は国一番の美しい対として知られた父王とその后の良いところばかりを貰い受けており、黒い髪は父譲り、その不思議な輝きを弾き出す灰色がかった青い瞳は明らかに母方の祖母から受け継いだものだった。
さて。
サフィラが魔道に関心を抱いていることの他に、王はもう一つサフィラに関する悩みを抱えていた。
国を訪れる旅人が偶然にも城下に下りてきたサフィラの姿を目にした時に、必ずと言ってよいほど口に上る誉め言葉が、
「あの方がこの国の王子であられますか。なるほど、利発な相をしておられる。それに、ふふ、若い娘が喜びそうなご器量じゃ」
とか、あるいは、
「あれはどこのご子息ですかな? 見事な馬の御しぶりだ。ほう、この国の世継ぎであらせられる」
とか、あるいは旅回りの怪しげな占い師が言ったと噂される言葉においては、
「うむ、お若いのになかなか覇気がある。将来国を平らかにし、近隣に比類なき大国の宗主として見事な君主ぶりを発揮されることでしょう。ふむ、ふむ、世にも美しい王女と熱烈な恋に落ち、大恋愛のすえ結ばれる、との相も出ておる……」
などと、頼んでもいない予言まで語られている。
ヴェサニールの国の民には勿論あり得ないことだが、それ以外の国の人間は必ずと言っていいほど何の疑問もなくサフィラを 『王子』 と決めつける。
それが、王の二つめの悩みであった。
どんなに少年のように見えようと、どんなに凛々しく利発そうに見えようと、どんなに若い娘たちに騒がれるような面相をしていようと、サフィラは間違いなく 『少女』 であり 『王女』 なのだ。
誰が何と言おうと。
確かに、成長しきっていない体つきはあくまでほっそりとして、まだ男のものとも女のものともつかずに両性の間にとどまっている。数年たてば、それでも女性らしく丸みを帯びてはくるだろうが、今のところそのような予兆はまったく見えない。
その上、幼い頃から娘の服を着ることを嫌がり、少年のような姿をさせておいたのが運の尽きで、今ではすっかり可愛らしくも凛々しい 『王子様』 ができあがってしまった。
この事と言い、魔道の事と言い、自分の娘の姿を見る度に王はつくづく、育て方を間違えた、と思わずにはいられなかった。
そんな父王の悩みなど針ほどにも気にかけていないサフィラは、その日も元気よく馬を駆って街道の外れへと向かった。
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収穫の時節を迎え、ヴェサニールではその時期特有の薄い雲が空を覆って強い日の光を和らげ、この国に住む人々にとってはしのぎやすい毎日が続いていた。
領地の大半がなだらかな丘陵地と森からなる内陸の小国ヴェサニールでは、生活の糧はほとんどが畑で作られる穀物などから得られていた。
人々は穏やかで、よく働き、素朴ではあったが豊かな暮らしを送っていた。
緑の草原が広々と広がる中を、国を二つに分けるかのように一本の大きな街道が抜け、ヴェサニールの裏にある彼方森から隣国に続く山の中までをほぼ一直線に貫いていた。
海側の隣国アクウィラは大国であり、また豊かな商業国でもあったので、山部から街道を通ってアクウィラへと旅をする者も少なくなく、通り道に位置するヴェサニールは、旅人たちの一夜の宿を提供するにはもってこいの土地だった。
街道から伸びている幾筋もの脇道の中に、ヴェサニールの王族が住む城へと続く道があった。
その道は他の道よりも幾分美しい敷石が敷きつめられていたので、国の民はもちろん、旅人でも容易にそれと知ることができた。
道は少し傾斜した丘の面をゆるやかに上り、堂々たる構えの石造りの門へと続いている。
門の向こうには同じく磨き上げられた石を積んで造られた城が、一番高い丘の上からその領地を見下ろしているかのように位置していた。城は華麗ではなかったが、時代の流れをくぐり抜けてきたものだけが持ちうる、重々しく荘厳な風合いを見る者の目に映し出していた。
ひづめの音が響き、今その城から二頭の馬が並足で駆け出してきた。
どちらも見事な馬で一頭は黒く、もう一頭は栗毛で、いずれも人が騎していた。
二頭の馬とその主が駆けていく背後で、城の窓から一人の娘が身を乗り出すようにして何か叫んでいる。栗毛に乗った一人はためらうように振り返ったが、もう一方の黒馬の乗り手はそれさえもせずに街道へと下りていった。止まりかけた方も、やがて首をすくめてその後を追った。
娘はまだ叫んでいた。
「王様にお叱りを受けても知りませんからね、サフィラ様!」
その声を背にした黒馬の乗り手は小さく舌を出した。悪戯っぽい表情がその顔に浮かんでいる。
15、6ほどの年であろうか。
子供とも大人とも、また少女とも少年ともつかない体が馬の上で飛び跳ねる。
風に流れる黒い髪が日の光を吸って揺らめき、一瞬明るい茶色に輝いてみえた。
栗毛の乗り手はその片割れよりもいくらか年上で、これも見事な黒髪を肩へと流した青年だった。
ヴェサニールの民ならば、一点の白斑もない闇夜のような黒馬と、額に星に似た白い徴を帯びている栗毛の馬を見れば、その乗り手がサフィラとサリナスの二人であると気付くのに幾らの時間もかからなかった。
そして、こんな風に二人が出掛ける時、行き場所はたいてい街道の外れにあるマティロウサの家と決まっている、ということも知っていた。
力強いひづめの音と、外で働く娘たちが騒ぎたてる声を耳にするだけで、家の中に居ながらにして二人が城下に降りてきたことを知る者も多かった。
サフィラはヴェサニール国王の第一子にして唯一の後継者であった。
本来ならば、王たる者の責任と義務を教え込まれ、他国との交流、国としての今後の在り方などなど、次期統率者として語り部たちの教える必要な知識に身を傾け、良き長となるべく精進しなくてはならない立場にある。
しかし、いつの頃からか魔道の類に興味を持ち始め、本来の帝王学はそこそこに、暇さえあれば怪しげな古文書やら、詩を書き記した紙片やら、今はもう使われなくなった古い呪文を連ねた茶色い羊紙皮やら、見たこともないような花をつける不思議な香草やらを集めてきては、熱心に何かを書き取ったり暗唱したりしていた。
そして、それはそのまま父親である国王の悩みの種となった。
国王はサフィラとは全く反対の心を持つ人間だった。
彼はおよそ魔道めいた事に関しては信頼というものを預けたことがなかった。
彼は幻や意味不明の呪文よりも自分の目で見聞きし、自分の手で触れ、自分の舌で味わった物のみを圧倒的に信じる種類の人間で、魔道はもとより 『魔法使い』 『魔女』 という者の存在をも容易に認めようとはしなかった。
王にとって自分の跡継ぎが、よりにもよって魔道にうつつを抜かしているという事実は耐え難いものであったが、さらに困ったことには、王はサフィラに大変甘かったのだ。
ほんの子供の興味半分に過ぎないだろうと、幼い我が子可愛さに望むままに与えていくうちに子供はすっかり道にはまりこみ、今となっては王が何を言おうと、どう脅そうと、どんなに叱りつけようと従いもしない。
それどころか両親も知らぬうちに、魔道を極めんとする者なら誰もが目指す 『魔道騎士』 の資格をこっそり取ってしまい、王を天地が逆さ返るくらいに憤慨させたのは、まだほんの二ヵ月前のことである。
あの女がそそのかしたのだ。
王は頭痛の種となっているサフィラのことを考えるたびに、さらにその種となったと信じて疑わない人物のことを思い出す。
きっとそうだ。あの魔女、マティロウサ。それにあの若造もだ。
気安くサフィラに取り入る、あの青二才。
あれらが寄ってたかってサフィラを魔道漬けにしてしまいおった。
魔女の所へ行くのを禁じなくてはならない、と王はことあるごとに思う。
そして、あの若造の城への出入りも。
しかし、何年も前から心に抱いているその決意を、サフィラ可愛さにいまだに実行したことがない王である。
ところが、常日頃そういう不機嫌な心持ちを抱いているはずの王が、この日サフィラがまた城を抜け出してマティロウサの所へ行ったと聞き、サフィラの待女を務める双子の姉妹、トリビアとリヴィールを呼びつけて型通りの説教を一通り並べはしたものの、その様子はいつもとは少し違っていた。
王の表情は二人をなじる言葉ほどには刺々しくはなく、どことなくうわの空のように見えた。
より重大な事が王の頭の中を占めていて、それ以外のことには関わっていられないといった様子ですらあった。
王の御前を下がった後、二人の娘は申し合せたように額を寄せた。
妹のリヴィールがすかさず姉に尋ねる。
「いつもよりお小言が短かったような気がするのはあたしの気のせいかしら」
「いいえ」 姉のトリビアがきっぱりと答えた。
「確かに短かったわね。それに、何となく顔がゆるんでらしたわよ、王様。何か良いことでもおありになったのかしら。サフィラ様が城を抜け出したっていうのに」
「そういえば、サフィラ様が城を出られたちょっと後に、どこかのお使者が馬で乗り入れてこられるのを見たけれど」 と、リヴィール。
さきほど窓から叫んでいたのはリヴィールの方である。
「何か良い知らせでも届いたのかしら」
「サフィラ様へのお怒りも消えちゃうような知らせ? それって、よほどの朗報だわね」
二人の姉妹は自分と似た相手の顔を互いに見合わせ、元来のお喋り好きと推測癖をここぞとばかりに発揮しながら、控えの間へと消えていった。
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