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蝶になった夢を見るのは私か それとも 蝶の夢の中にいるのが私なのか 夢はうつつ うつつは夢


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水晶異聞の更新をしばらくサボっていましたが、今朝ようやくアップしました。
もうすぐ第一部終了です。
思いのほか、終章が長引いてしまって、自分でも困っています。
ホントは、5、6回ぐらいで終わらせるつもりだったんですが、
すでに10回以上続いています。
後数回で終了予定です。
それまで、もう少しお付き合いいただければ幸いです。


ところで、ここ数日の間、本格的に蔵書を片付けようと思って
部屋の中がバッタバタになっています。

本の処分は、今までにも何回かやってるんですが
一向に減らず、困ってました。
「またいつか、読みたくなるかも……」とか思って、捨てられないんですよね、どうしても。

なので今回は、心をオニにして
ここ数年開いてない本を中心に、古本屋に売り払うことにしました。

で、整理してみると、出るわ出るわ……今の段階で、段ボール箱に6箱。
読まずに、ただ取って置く本を『積ん読(つんどく)』とよく言いますが、
まさに『積ん読』の宝庫だったことを、今さらながら思い知った数日間でした。

でも、それだけの本を本棚から取り去っても
まだ減った感がないところが、また……。
だって、今はもう絶版になってる本もたくさんあるし、そういうのはやっぱり売れません。
(だから減らないんですけど)

あまりにも古い本は買い取ってもらえるかどうか分かりませんし、
中には、他の古本屋さんで買って、店名のタグが糊付けしてあるものもあり、
こういうのは売れないだろうなあ……と思いつつ
一緒にまとめて、これも段ボールへ。
そのうち、10箱ぐらいになるかもしれません。

古本屋さんに持ち込みするつもりだったけど
ここまで多いとちょっとツライので(一回で車に入らないし)
取りに来てもらおうかな、と思ってます。

ああ、さらば愛しの本たち……。
古本屋で、いい人に見つけてもらって、また可愛がってもらえるといいんだけどなあ。
ふう。
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「……では、行くとするかの」 と、シヴィの声が響く。

「やれやれ、ようやく出発か」

しんみりした別れの雰囲気に少しばかり手持ち無沙汰だったタウケーン王子は、サフィラが用意したもう一頭の馬に身軽に乗り上げた。サフィラも騎乗の人となり、手綱を持つ両腕の間にシヴィがちょこんと同乗して小柄な身体を収める。

「寂しくなるな」

サリナスがサフィラに手を伸ばした。
サフィラが握り返したその手は、サリナスの誠実さそのものの温かさでサフィラの手を包む。いつまでも触れていたいという思いに駆られながら、私もだ、とだけサフィラは答えた。

「お元気で、サフィラ様」 今度はウィルヴァンナが華奢な手を差し伸べた。

「ウィーラも」 と、その手にサフィラが触れる。

しかし、その瞬間、ウィルヴァンナはびくりと身体を震わせて、サフィラの手を離した。

「どうした、ウィーラ」

怪訝な顔で尋ねるサフィラを前に、ウィルヴァンナは少し動揺したような表情を浮かべた。

「いえ」 ウィルヴァンナはぎこちない笑みを返した。
「……昨日、指に針を刺して……まだ少し痛むので」

「ああ、悪かった。傷に触ってしまったんだな。大丈夫?」

「え、ええ。ご心配なく……」

ウィルヴァンナは、もう一度笑って見せた。その背後でマティロウサが一瞬険しい表情を見せたが、誰もそれには気づかなかった。


「じゃあ、皆……元気で」

サフィラは馬上から立ち並ぶ人々を見回し、それだけ言うと、別れの余韻を振り切るように愛馬の手綱を引いた。カクトゥスが小さく鼻を鳴らしてゆっくりと歩み始め、タウケーンがその後に続く。

規則正しいひづめの音が響くにつれて、見送る人々が背後に遠ざかっていくのを意識しながら、サフィラは振り返りたいのを堪えて、ただ前だけを見つめていた。見送る側の人々は、二頭の馬が夜の帳の中に次第に姿を消していく様子を、言葉なく見つめていた。

そして、三人はヴェサニールを離れて旅する身となったのだ。


       ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


「……何を見たんだい?」

サフィラ達が去った後、サリナスも自分の家に戻り、マティロウサの家はいつも通り魔女と魔女見習いの二人だけになった。疲れた顔をしてどっかりと椅子に座り込んだマティロウサは、そそくさと自分の部屋に戻ろうとするウィルヴァンナに、そう尋ねた。

老いた魔女の質問に、ウィルヴァンナはびくり、と立ち止まる。

「何を、とは……?」

「隠すんじゃないよ。あたしが気づかなかったとでも?」

「……」

「さっき、サフィラと握手したときに、お前、何かを見たんだろう?」

「……」

ウィルヴァンナはマティロウサを振り返った。その相貌は、心なしか青ざめている。

あのとき、サフィラの手に触れて、すぐに離したとき、とっさに思いついた出任せでその場を濁したウィルヴァンナだったが、やはりマティロウサの目は誤魔化せなかったようだ。

確かにウィルヴァンナは見たのだ。頭の中に浮かんだ、ある光景を。

「剣が……」
自分を見つめる魔女の強い視線に促されながら、ウィルヴァンナは口を開いた。
「剣が見えました……刃が赤く染まって、あれは……あれは血……」

ウィルヴァンナが遠い目をし始める。口調は次第に興奮したそれに変わっていく。それは、先読みの訓練をしているときにこの年若い魔女見習いがよく見せる姿だった。
マティロウサは黙っていた。その目は厳しく、険しい。

「剣を持っているのは、黒い影……人のような、そうでないような……その影の側に、あの方が倒れて……サフィラ様が…いえ、サフィラ様だけではなく、何人も……血が、あの方の身体を染めている……辺り一面、地面も、枯れた木の枝も、石塊も赤い……!」

最後は叫びにも似た声を上げ、ウィルヴァンナは目を閉じてその場にしゃがみこんだ。苦しげな荒い呼吸が部屋中に響く。
マティロウサは急いで立ち上がるとウィルヴァンナに歩み寄り、その額に指を押し当てた。

「忘れるんだよ……」 魔女の低い呟きがウィルヴァンナの耳に届く。
「お前が目にした光景を忘れるんだ……」

呪文にも似たマティロウサの言葉に、ウィルヴァンナはゆっくりと目を開けた。気遣わしげな魔女の顔が自分を覗き込んでいることに気づき、ウィルヴァンナは驚いて目を見張り、辺りを見回した。

「あ、あら……」

「大丈夫かい?」

「マティロウサ様、私、一体……?」

「……なに、ちょっとした立ち眩みだよ。ここしばらくバタバタしていたから、疲れが出たんだろう」

「立ち眩み……」

どこか腑に落ちない表情でウィルヴァンナが問い返す。
頭の芯がぼんやりしていて、よく思い出せない。

「もう休んだ方がいいね」 静かな口調でマティロウサが囁いた。

「休む……」

「そう、休むんだよ、部屋に戻って」

「部屋に……」 ウィルヴァンナは魔女に言われた通りの言葉を繰り返した。
「そう……ですわね……。私、もう、休みます……」

何事もなかったかのように、ウィルヴァンナは立ち上がると、眠るような表情でゆっくりと自室へ姿を消した。恐らく、明日の朝目覚めれば、今のことは何も覚えていないだろう。マティロウサの施した魔法によって。

ウィルヴァンナが扉を閉めるのを見届けると、一人になったマティロウサは再び椅子に座り直した。頭の中には、たった今ウィルヴァンナが口にした言葉がこびりついている。

若き魔女見習いの先読み。その能力は、シヴィも認めたほど高い。
だからこそ、ウィルヴァンナが見たという光景は、魔女の心をどんよりと暗く澱ませた。

果たして、その光景は現実となるべきものなのか。
あるいは、何らかを表わす抽象なのだろうか。
いずれにしても、サフィラを待ち受けるのは、安穏とは程遠い運命なのだ。マティロウサは改めてその事実を思い知らされ、思わず両手に顔を埋めた。

「どうか、無事で……」

マティロウサは手のひらの内側で声に出して呟いた。
そして、サフィラと別れたつい先ほど、当の本人にそう言ってやらなかったことをひどく後悔した。

言えなかったのだ。
本心では、決して行かせたくなかったのだから。



          → 終章・旅の始まり 14 へ

旅の目的はともかくとして、唯一無二の親友ともいえる魔道騎士と別れるのは、やはりサフィラにとって辛い想いをもたらした。

出立の夜のこと。

見送る者と見送られる者がマティロウサの家の前に集まった。
サリナスは気遣わしげな瞳をサフィラに向けてきた。

「サフィラ、身体には気をつけるんだぞ」

「分かってる」

「老シヴィが一緒とはいえ、あまり無茶なことはするなよ」

「分かってるって」

「それから、見たことがない植物や木の実を見つけても、すぐに食べようとするなよ」

「……サリナス、それは子供の頃のことだ。今はやらん」

「今もまだ、そういうところがあるから言ってるんだ、俺は。それでよく腹をこわして、マティロウサの世話になってただろう?」

「……」

幼い頃からの付き合いとはいえ、旅の出発際に子供時代のことまで引き合いに出すサリナスの世話焼きには多少閉口するサフィラだったが、それでも、しばらくはこの口やかましい説教を耳にすることができなくなるのだと思うと、心の中を寂しさが支配する。

「お前こそ」 サフィラはサリナスの顔から目をそらして、俯きながら小声で言った。
「人の心配ばかりしてないで、自分のことに気を配れよ。お前、魔道の研究とか始めると、食べるのも寝るのも忘れるほど没頭するからな。そういうところが心配だ」

「お前に心配されるとはな」 サリナスは笑った。「だが、まあ、気をつけよう」

「それから」
サフィラは、少し離れたところでシヴィと言葉を交わしているマティロウサをちらりと見た。
「……マティロウサのことを頼んだぞ。魔女という存在がどこまで頑丈にできているかは知らないが、年寄りであることは違いないからな」

「……分かっているさ」

サリナスは、サフィラの目に浮かぶ沈んだ光を見逃さなかった。
普段は憎まれ口の応酬が耐えないサフィラとマティロウサだが、二人が互いのことをどれ程大切に思っているかサリナスは知っていた。

「未熟ながらも俺にできる限り、気を配るさ。もっとも、そんなことをしても魔女殿には煩わしいと思われるだけかもしれんがな」

サリナスはサフィラを安心させるように笑って見せた。


一方、マティロウサはマティロウサで、同じような事をシヴィに頼み込んでいた。

「……あの子を」 魔女の声は、いつもよりも低く、しわがれていた。「頼んだよ、シヴィ」

うむ、とシヴィが頷く。

「わしの力の及ぶ限り、あの娘を見守ろうぞ」

「魔法使いの長老が言うんだったら、間違いないね」

そう答えながらもマティロウサの表情は暗い。
この先、『あれ』 が、あの 『水晶』 が背負い手であるサフィラにどんな影響をもたらすのか、誰も予見することはできないのだ。その不確かさを思えば、どうしても老魔女の心を不安がよぎる。
『谷』 にさえ行けば何とかなる、というものでは決してない。
むしろ、大きな歯車はそこから回り始めるに違いない。

マティロウサは小さくため息をついて、二、三度頭を振ると、傍らにいるウィルヴァンナを呼び、小さな声で何かを指示した。先ほどからタウケーンに散々話しかけられて多少辟易していたウィルヴァンナは、ほっとした表情で急ぎ家の中へと小走りに駆け込んだ。
残されたタウケーンは、ちぇっ、と舌打ちする。

やがてウィルヴァンナは、手に小さな袋を持って家から出てくると、それをマティロウサに手渡した。
マティロウサは、今度はサフィラの方へ目を向け、魔白、と魔道名でサフィラに声をかけた。

「ちょっとおいで」

呼ばれたサフィラは、複雑な表情を浮かべながらも素直に魔女の元に近づいた。
マティロウサは、ウィルヴァンナに取りに行かせた袋をサフィラに差し出した。

「餞別だよ。持ってお行き」

「何だ?」

「何が起こるかわからないからね。そんなものでも持っていれば、何かの助けにはなるだろうよ」

「……これ、ヴィリの実じゃないか」 袋の中を見たサフィラは、驚いてマティロウサを見た。
「しかも、こんなに」

万病に効果があるヴィリの実は、この辺りでは採ることができない珍しい木の実である。これまでサフィラがどんなに頼んでも『お前には勿体ないよ』と言って決して分けてはくれなかった、マティロウサの秘蔵薬であった。
量からすると、恐らくマティロウサが持っているすべての実を詰め込んだのだろう。
恐らくは危険なことも多くあるに違いない、そんな不安な旅に出ようとしている愛弟子に、自分ができるのは、これくらいしかないのだ。

サフィラはしばらく魔女を見つめ、やがて小声で、ありがとう、とだけ呟いて、その袋をみずからの荷物の中に収めた。

向き合った二人の間に言葉はない。お互い、何と言っていいのか分からなかった。
しばし沈黙が流れた後、ようやくサフィラは

「じゃあ、マティロウサ」 と声をかけた。「……行ってくるから」

「……ああ」 マティロウサも短く返す。「気をつけて」

マティロウサの言葉にサフィラの顔が少しだけ歪んだが、サフィラは他の者達にそれを悟られないよう俯くと、身を翻して愛馬カクトゥスに歩み寄る。



          → 終章・旅の始まり 13 へ

タウケーン王子がサフィラの同行者か否かについては、ヴェサニールの城内でも散々取り沙汰されたことではあるが、この状況から見るとどうやら事実のようである。しかし、どちらかがどちらかを拉致したわけでも、誘ったわけでもなく、ましてや示し合わせたわけでは決してない。


昨晩、サフィラが旅支度を整えて再び城を抜け出し、マティロウサの家をこっそりと訪れたとき。
本来の同行者である老シヴィ、そして見送りに来たサリナスとともに、何故かそこにはタウケーンの姿があった。

「……何故いる」

「俺も付いて行こうと思って」

「は?」 タウケーンの言葉にサフィラは目を剥いた。「何で」

「ヒマだし」

「……大人しく国に戻れ、バカ王子」

「いずれはね。でも、今戻っても良いことないしな。何しろ、花嫁には逃げられるし、未来の王にはなり損ねるし」

「だったら尚更、国に戻ってこれまでの不道徳を反省しながら余生を過ごせばいいだろう」

「それじゃ詰まらん。まあ、この機会に世の中を見て歩くってことで。爺さんには了解もらったぞ」

サフィラは問うような視線をシヴィに向けた。シヴィは罪のない笑顔をサフィラに寄こして、うんうん、と頷き、「その方が楽しいもん」 と子どものように言い足した。
それですべてが決まったのだ。


それに遡ること数日前、サフィラ達がマティロウサの家に押しかけた夜のこと。

サフィラが水晶に関する真実を知る間、老シヴィの術によって眠りに落とされていたサリナスとタウケーンは、術をかけた本人によって何事もなく目を覚ました。
勿論、二人は眠っていたことすら覚えていなかった。

シヴィから、サフィラが魔法使いの集う 『谷』 へ向かうことを告げられたサリナスは、あれだけ強固に反対していたにも拘らず、意外なことにあっさりと承知した。

「羨ましいことだ」 とまで、サリナスは言った。
「俺もできることなら 『谷』 に行ってみたいよ。魔道に関わる者すべての憧れの地だからな」

サリナスの豹変振りにサフィラは驚いたが、何食わぬ顔でアサリィ茶をすすっているシヴィに視線を向けたとき、その表情に空々しい何かを見つけて、ピンときた。
シヴィが、きっとサリナスに魔法をかけたのだ。恐らく 『承服』 か、あるいはそれに似た魔法を。

まったく魔法使いという種族は。
生真面目なサリナスをどう説得するか頭を悩ませていたサフィラは、その必要がなくなったことにほっとする反面、呆れ顔でシヴィを、そしてマティロウサを見た。

人の心を変えるような魔道は使うな、とサフィラに言っておきながら、自分達は都合次第でそれを実行する。何事も方便、というやつか。サフィラは軽く睨むように二人を見た。老いた魔女もシヴィと同様、素知らぬ顔で視線を反らす。

「なあなあ、谷って、どんなとこ?」

タウケーンが尋ね、シヴィが得意げに、それはな、と説明し始めるのを横目に、ばつの悪そうなマティロウサが出した茶碗の縁を軽く弾きながらサフィラはため息をついた。その憂鬱そうな響きを耳にして、サリナスは不審な顔をサフィラに向ける。

「どうした。『谷』 に行けるんだぞ。嬉しくないのか」

「そんなことはないさ」 サフィラは無理に笑って見せた。「嬉しいに決まっている」

だが、決して物見遊山に行くわけではない。
その真の目的を考えると、サフィラの気分も滅入ってくるというものだ。どうやら、それが表情に表れてサリナスを訝しがらせたようだった。

「それにしては元気がないな」

「そうか?」

サフィラはそれだけ答えて、サリナスの真っ直ぐな視線を避けた。

サリナスに本当のことを言ったら、どうするだろう。
ふとサフィラはそんなことを考えてみた。

水晶のこと。
魔の者のこと。
忌まわしき復活のこと。
そして、サフィラが負わされた運命のこと。

驚くだろうか。驚くだろうな。
信じるだろうか。恐らく、信じるだろう。疑いながらも。

自分以外の誰かに本当のことを知ってほしいという気持ちが、サフィラには確かにあった。
しかし、告げられたところで、サリナスにどうすることもできないのも分かっている。
むしろ、知ることによってこの男を苦しめることになるかもしれない。それならまだしも、水晶の忌々しい運命に巻き込むことにでもなったら。

そこまで考えてサフィラは思考を止めた。詮無いことだ。今さら何を。



          → 終章・旅の始まり 12 へ

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

ヴェサニールの都を南下してひたすら進んだところに、一本の川が流れていた。
ハリトム川と呼ばれるその川は、ヴェサニールの国境線と流れをほぼ同じくしており、旅行く者の多くはこの川を越えることでヴェサニールの領域外に歩みを進める目安としていた。
川の両岸には、ところどころに獣が隠れられるほどの茂みが点在する野原が広がり、今の時節ならではの心地よい風が吹いては、背丈の短い草の間を揺らしていく。

ちょうど、ヴェサニールの城で持ち上がった騒動がようやく収まりかけていた、その頃。
ハリトム川のほとりを行く、二頭の馬に騎乗した三人の人影があった。

「今頃、城は大騒ぎだろうな」

一人が、ふと馬の歩みを止めて後ろを振り返り、ため息交じりの呟きにも似た口調で言った。
華奢な体つきと整った容貌は少年のようでもあり、未成熟な少女のようでもある。

「まあ、今さらそれを言うても仕方あるまい」

同じ馬に乗るもう一人の人影が返事を返す。
三人の中でもっとも小柄で、皺だらけの顔と、それに似つかわしくない若々しい輝きを持つ瞳が印象的な老人である。

「なあ、ちょっと休まない? 夜中からずっと馬の上じゃないか。疲れちまった、俺」

残りの一人が、不平というよりも頼み込むような口調でそう言って、もう一頭の馬の上でぐったりと身体を傾けた。背が高く均整の取れた体つきと甘い容姿は、もしこの場に女性がいたら必ず目を留めるだろう、と誰もに思わせるような優男だった。

「軟弱者め」 最初に言葉を放った人影が呆れたように言った。
「まだ、国境近くだぞ。本当はもっと進んでいる筈なのに、お前がそういうことを何度も言ってゴネるから、まだ川も渡ってないんだぞ」

「だって、馬の揺れがひどくてさ、身体中痛いったらないんだよ。俺、あんたみたいに体力ないんだからさ、王女サマ」

「お前の性別と年齢を考えたら、私よりも力強くあって然るべきだ、バカ王子」

「だから、その呼び方やめてって」

「これこれ、喧嘩はいかん、喧嘩は」 小柄な老人が二人の間に割って入る。
「仲間内で諍いがあると、旅が楽しくなくなるぞい」

「だって老シヴィ、このバカ王子、自分から 『付いて行きたい』 って言ったくせに、一番足手まといじゃないか。何が仲間だ」

「俺は王子だから、こんな強行軍の馬旅は馴れてないんだよ」

「馬が嫌なら歩け、軟弱者」

「その呼び方も嫌だなあ」

ヴェサニール国王女サフィラと魔法使いの老シヴィ、そしてフィランデ国王子タウケーンの三人が連れ立ってヴェサニールを離れたのは、今からほぼ半日前の真夜中のことである。

日は既に高い位置にまで上り、草原の上に三人と二頭の影を色濃く落としていた。
もはや都からは遠く離れ、この辺りには集落もないため、当然他に人の姿はない。目に見える景色一帯が緑にそまり、のどかではあったが国を離れる者、すなわちサフィラにとっては若干の物寂しさも感じさせる、そんな風景が広がっている。

「ほれほれ、王子、わしを見ろ。一番年寄りじゃが、わしが一番元気じゃぞ」

励ましているのか、それとも揶揄しているのか分からない口調で老シヴィが言った。

「あんたは王女サマの馬に乗ってるだけだろうが」
タウケーンが恨めしげに馬上で身体を伸ばした。
「馬を操るのは結構大変なんだぞ」

「乗馬は王族のたしなみだ」 素っ気なくサフィラが答える。
「どうせ、くだらない世情の戯れ事に夢中で、まともに馬に乗ったこともないんだろう」

「そりゃね」 タウケーンがにやりと笑う。
「馬なんぞに乗る時間があったら、他の物に乗る方が……」

「老シヴィ!」 タウケーンの下世話な言葉を遮るように、サフィラが声を尖らせる。
「何で、こんな軟弱なヤツと一緒に旅をしなければいけないんだ! あなたと私の二人だけで良かったじゃないか!」

「えー、だって、旅の道連れは多い方が楽しいじゃろ?」

「楽しくない!」

サフィラの怒声が吹き抜ける風に混じって辺りに響き渡る。



          → 終章・旅の始まり 11 へ

「もうよい」 王は捨て鉢な口調で、傍らに立つクェイドに言った。
「式は延期……いや、中止じゃ、中止じゃ。フィランデの国王にも早馬でそれを伝えるがよい。国民にもそのように告知せよ。花嫁は逃げ出し、花婿は家臣の金子をくすねて姿をくらませた、とでも言っておくがよい」

「いや、しかしそれでは」

ヴェサニールとフィランデの両王家にとってあまりに醜聞すぎるのでは、とクェイドが使者の方に目を向けながら遠慮がちに反対したが、王は手で制した。その表情は、怒りと諦めに混じって、ある種の悟りのような感情が浮かび上がっていた。
醜聞だからといって、隠し通すには既に話が大きくなり過ぎているのだ。

「もうよい、と言っておる。他の理由が必要ならば、さっき王妃が言うたように、駆け落ちとでも、夜逃げとでも何とでも言っておけ。我が娘の気性は今さら隠し立てするようなものではない。城下の者なら皆知っておるだろうから、ことさらに驚くこともあるまい」

その点は事実であり、付け加えるならば、サフィラが城を逃げ出したことはこの時点で既に城下に広まっていたのであるが。

「あなた、でも、サフィラはどうするのです」 王妃が途端におろおろとした表情になる。
「まさか、このままにしておかれる訳ではございませんわね? 今頃はあの子、きっとアクウィラ辺りにでもいるのかもしれませんわ。今からすぐにでも衛士を走らせれば見つかるのでは? 」

「無駄じゃ、后よ」 王はきっぱりと答えた。
「言うのは心苦しいが、これまでに何度となく我らを出し抜いてきたあの娘じゃ。王女でありながら剣を学び始めたときも、魔道騎士の資格を勝手に得たときもそうであった。いつも我らが知るのは、後になってからじゃ」

「それはそうですけど」

「恐らく今回のことも、あの馬鹿娘め、急に思い立っての行動ではあるまい。我らが捜索の手を広げたところで、おいそれと捕まるようなことはあるまい。まったく我が娘ながら食えぬ奴じゃ」

側で直立しているクェイドなどは、そのように育ててしまった王と王妃自身にも問題があるのではないだろうか、と心の中で密かに考えたが、勿論それを口に出す愚は犯さなかった。
今さらそれを後悔しても詮無いことである。

しかし我が君、と、忠義心に厚い老侍従長は王妃に同調するようにやんわりと意見してみた。

「サフィラ様はヴェサニール唯一の後継者であらせられますぞ。王妃様が仰る通り、不在のまま放っておかれるというのも、いかがなものかと……」

クェイドの言葉が終わらないうちに、王はサフィラの置手紙をその面前に突きつけた。

「『必ず戻る』 と書いてあるじゃろう」
王はそっぽを向いて、やや消沈した声で付け加えた。
「……食えぬ娘ではあるが、あれは今まで自分から言い出した約束だけは破ったことがない」

それは、王の心に残された、精一杯のサフィラへの信頼の言葉であった。

「それに……まあ、あれは聡い娘じゃ。たとえヴェサニールの外で何らかの困難に出くわしたとしても、これまでそうであったように、己の利発さでみずからを救うじゃろう」

そうであって欲しい、と願うかのように王は付け足し、その言葉に、王妃や老侍従長をはじめ、その場にいた者達は、今さらながら父親としての王の心情を察して俯いた。

だが、すぐに王は沈痛さをかなぐり捨てると、今度は目の前に控えているフィランデの使者へ自棄的な視線を向けた。その口調は、翻って辛辣である。

「しかし、タウケーン王子の遁走については、我らも与り知らぬことじゃ、使者殿よ」

まあ、少しはこちらに、否、サフィラに非があるかもしれないが、と王は考えたが、勿論それは口には出さない。

「申し訳ないが、こちらは王女のことで手一杯じゃ。そちらはそちらで自国へ戻って何らかの対策を練られるがよかろう」

「はあ」 使者は気の抜けた返事で王に答えた。

「我が王女の不始末については、わしが直接フィランデ王に詫び状なり何なり書き記すことにする。それをお渡しいただこう」

その詫び状には謝罪だけでなく、タウケーン王子の好ましからざる性分についての恨み言も多少書き添えられることになるのだが。

使者への言葉を終わらせると、王は玉座を離れて先ほどの執務室へ戻った。後には后と重臣達の幾人かが続く。
王の後ろ姿を見ながら、王妃は、王に諭されはしたものの娘の捜索をやはり諦めてはおらず、後で密かに数人の衛士達を近隣諸国へ向かわせよう、と心に決めていた。
そして、クェイドを始めとする家臣一同は、明日行なわれる筈であった王女の結婚式の中止告知について、王家の恥とならない一番当たり障りのない言い訳を何とするか、胸中を悩ませていた。

後に残された形の使者達は、王達の姿が見えなくなるまで目で追っていたが、取りあえずはヴェサニール王の怒りから解放されたらしい雰囲気を悟り、一瞬だけ心を落ち着けた。

だがすぐに、今度はフィランデの国王へどのように報告すべきかという問題が頭をよぎり、新たな悩ましさが心を占める。それ以前に、王子に有り金を奪われた今、自国へ戻るための旅費をどこから工面するか、当座はそれが一番の問題であったが。

さまざまな思いが錯綜する中、王の間での詮議のひとときは終わりを迎え、サフィラの姿が消えたヴェサニール城は、慌しさよりも奇妙な静けさ、そしてその中に漂う幾許かの物寂しさに満たされようとしていた。



          → 終章・旅の始まり 10 へ

プロフィール
HN:
J. MOON
性別:
女性
自己紹介:
本を読んだり、文を書いたり、写真を撮ったり、絵を描いたり、音楽を聴いたり…。いろいろなことをやってみたい今日この頃。
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