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蝶になった夢を見るのは私か それとも 蝶の夢の中にいるのが私なのか 夢はうつつ うつつは夢


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更なる追っ手を警戒しながら、馬の歩みを時に急がせ、時に緩め、次第に橋が近づいてくるにつれてサフィラの憂鬱は増すばかりで、知らずため息がこぼれ落ちた。

自分の背後から届く物憂い吐息の響きを耳にしたシヴィは、振り返ってサフィラを見上げた。気遣わしげなその視線に気づいたサフィラは、かすかに笑ってみせた。

「駄目だな」 言い訳めいた口調でサフィラは言った。
「旅は始まってしまったというのに、まだ、どこか躊躇している自分がいる」

「それは仕方がないことじゃな……などと、わしが言える立場ではないが」

シヴィが頭を掻きながら申し訳なさそうな表情を浮かべたが、サフィラはそれを手で遮った。

「いや、今の状況についてどうこう言っているのではない。それはもう覚悟を決めた。ただ……」

「ただ?」

「先が見えない、というところが何とも落ち着かない。『あれ』 を例の場所に運んだ後、一体どうなるのか。例えば、魔の者が復活すると同時に、伝説の騎士達も甦るのか。私の役目が背負い手ということであれば、運んだ時点で私は解放されるのか、あるいは更に深く関わらなくてはならないのか……それが気にかかる」

「……」

シヴィは答えない。答えようがないのだ。それはサフィラにも分かっていた。
幾星霜を経た魔法使いにも、予見できないことはあるのだ。

「……まあ、いいさ」
今までに何度も自分に言い聞かせた言葉を、サフィラはもう一度口にした。
「今から考えていても詮ないことだ。何が起こるかで頭を悩ませるのは、その時の楽しみに取っておくことにしよう。まずは、谷に着いてからだ。そうだな、老シヴィ?」

「うむ……」

「そして、すべてが片付いた時に、再びこの麗しきヴェサニールの土を踏むことができるよう、今はそれを祈るのみだ」

「……」

返事は返さず、ただ、かすかに頷いただけのシヴィの姿に、サフィラは漠然とした不安を抱いた。

もしかしたら、無事に戻ってくることすら儘ならない旅なのかもしれない。
その思いはサフィラに更なる欝をもたらしかけたが、サフィラは無理やりそれを追い払った。
先のことを今から考えていても仕方がない。たった今、自分自身がそう言ったところである。

「……まあ、いいさ」

サフィラは先程と同じ言葉を口に出して呟き、胸の内にある懸念を無理やり封じ込めた。


「おい、二人で何こそこそ話してんだ」
サフィラ達からやや遅れて馬を従わせるタウケーンが拗ねた口調で言った。
「三人旅なのに、俺だけ仲間外れにするなよ」

「ああ、そうか。お前がいたんだったな」

「なんじゃ、案外寂しがり屋なんじゃのう」

「疲れたから休ませろだの、仲間外れにするなだの、図体ばかりデカくて、言うことはまるっきり子供だな。情けない」

「いやいや、そういう甘えたがりなところが女心をくすぐるのじゃなかろうか。わし、女じゃないから、よう分からんけど」

「私の心は少しもくすぐったくないぞ」

「……俺、この先あんた達と旅していけるかどうか、自信がなくなってきたな……」

一言えば百返してくるような無敵の二人を前にして、さすがに軽口を得意とするタウケーンも形無しというところである。

「嫌なら、ついてこなくてもいいんだぞ」

「また、そんなことを言う」

「ぐだぐだ言うな。ほら」 サフィラが顎で前を示した。「ようやく橋だ」

 穏やかな川の流れの両岸を結ぶ石造りの橋は、数年前、長雨で川があふれた時に流された木橋に代わって造られたものであり、その時の教訓を経て川面よりかなり高めに架けられていた。
 架け直されたものの、通る者は少ないこの橋は未だに切り出されたばかりの石の色を保ち、風雨にさらされたことを示す不規則な模様がかすかに石の表面に残っていた。
 サフィラは橋の正面に馬を立たせて、さほど遠くない向こう岸を睨んだ。橋から続く道は、向こう岸に立ち並ぶ木立の群れの中に消えている。

ここを渡れば、他国。
実際に橋を目の前にすることでサフィラは改めてそれを思い知らされ、愕然とした。

立ち止まったサフィラを横から馬で追い越しながら、タウケーンが怪訝な声をかける。

「どうしたんだよ。先、進もうぜ」

それでもサフィラは動かない。

サフィラはゆっくりと背後を振り返った。
広々と続く緑の草地の向こうに、既に見えなくなった城の姿を思い浮かべる。

父上。母上。
心の中でサフィラは、慣れ親しんだ人々の顔を思い浮かべた。
トリビア。リヴィール。クェイド。
思いつく限りの名を、声に出さずにサフィラは呼んだ。
サリナス。
マティロウサ。
幾つもの人影が胸中に浮かんでは消える。

「……サフィラや」

シヴィが遠慮がちに声をかけた。それに促されるように、サフィラはゆっくりと馬を進めた。

二度と、この地を踏むことはできないかもしれない。
もし、そうなったら。皆には二度と会えないかもしれない。

突然心を鷲掴みにされたような痛みがサフィラを襲う。サフィラは不吉な予感を振り払うかのように踵を返すと馬の足並みを早めた。

馬を走らせながら、サフィラは心の中で強く念じた。
絶対、戻ってくる。
何が待っているかは知らないが、何があろうと必ず戻って、もう一度皆に会ってみせる。

「な、なんだよ、急に……」

いきなり速度を早めて自分の傍らを駆け抜けるサフィラをすれ違いざまに見たタウケーンは、サフィラの頬に光った何かに気づいて言葉を止めた。そのまま通り過ぎるサフィラの後ろ姿を見送りながら、タウケーンは複雑な表情を浮かべてしばし黙り込んだ。
やがて、憎まれ口を得意とする気の強い王女が流した涙には気づかなかったふりをして、やれやれ、とでも言いたげに頭を振りながらタウケーンも急ぎサフィラの後を追う。

橋を渡った二頭の馬は、そのまま木立の群れの中へ吸い込まれるように姿を消し、後には風のそよぐ静けさだけが残された。

旅は始まったばかりである。



(終章・完)

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       ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

「俺はさ」 馬に揺られながらタウケーンは言った。
「別に、最後まであんた達に付き合うつもりはないから。魔法とか魔道とかに興味もないし、魔法使いの谷とやらに行っても詰まらないだろう。それに爺さんに聞いたところでは、谷には俺好みの若い女なんてほとんどいないって言うしな」

「お前に好みがあるとは思えないがな」 サフィラが疑わしげに、それでも素っ気なく答える。
「年齢なんてお構いなしなんじゃないのか? お前が手を出さないのは60歳以上の婆さんだけ、と噂で聞いたことがあるぞ」

「60歳って、あんたね……。そりゃまあ、年上も悪くはないが、それは上過ぎる」

「ほうほうほう」 シヴィが笑顔で会話に加わった。
「魔法で外見を若く見せかけている者なら、谷に行けば山ほどおるがのう。まあ、実際は皆、百歳を越えておるけど」

「……年上にも程があるだろ、それは。いくら俺でもそこまでは」

「いいんじゃないか? そういう 『年上』 のお姉様とお付き合いすれば、いくらバカ王子のお前でも、人生の深遠さを悟って今より少しはマシな性格になるだろうさ」

「成程、そういうことなら、わし、何人か紹介してやってもよいぞ。あ、そうじゃ。わしと同じ 『授け名の魔法使い』 の中に一人、お前様にぴったりの魔女がおる。美人じゃぞ」

「……美人?」 タウケーンが少し興味を引いたようだ。「どのくらい?」

「相当、と言ってもよいな。じゃが、ちょいと気が多い上に、ちょいと気が強い。聞いた話では、惚れた男が自分になびかぬのを恨んで、相手を獣に変えたとか変えないとか」

「そ、それは、ちょっと危険な性格だな……」

「じゃが、何度も言うが、相当美人じゃ。もっとも、あれも、わしと同じで一つ所に居続けるのが苦手じゃから、谷におるかどうかは分からんが。まあ、そういうのでよければ、他にも選り取り見取りじゃよ」

「ちょっと考えさせてくれ……」

他愛無い言葉を交わしながら、ハリトム川の川岸に沿う形で三人は馬を進めていた。
川を渡る大橋が、さほど遠くない位置にうっすらと見える。橋を渡れば、そこはヴェサニール領外になり、サフィラにとっては未知の土地だった。
軽快に歩む馬の足取りに反して、サフィラの心は少しばかり重い。

城の中にいた頃は、まだ見たことのないさまざまな国々を無邪気に想像するのは楽しかったし、心が躍ったものだった。
だが、実際に国を離れる身となった今は、持ち前の好奇心よりも心細さの方が胸の内の多くを占めている。もし、シヴィが同行を申し出てくれなければ、今以上に滅入った気分での出立となっただろう。
そういう意味では、根っから楽天的なタウケーンが旅に同行していることも、サフィラにとっては多少気晴らしにはなった。もっとも、その軽薄で下世話な話にうんざりすることも多かったが。

しかし、サフィラの心には、離郷の念よりもなお強く圧し掛かる憂鬱があり、その原因は、愛馬カクトゥスの背に括り付けられているサフィラの皮袋の中にあった。

誰にも触れることができないよう分厚い獣の革で包まれた 『それ』 は、革を解いて中身を目にしたものには、一見、何の変哲もない普通の水晶玉のように見える。だが、決してそんな大人しい代物ではないことを知っているのは、シヴィとサフィラだけである。

「できるだけ、触れてはならん」 旅立つ前に、シヴィはそっとサフィラに耳打ちした。
「背負い手とはいえ、お前様にまったく影響がないわけではないからの」

「分かっている」

そう言って、サフィラは荷造りした自分の皮袋の奥底に 『それ』 をしまいこんだのだ。谷に着くまでは、決して中を開かないつもりで。

だが、どんなに視界から遠ざけたところで、一度 『それ』 から見せられた幻視は、サフィラの頭の中から簡単に消え去ってはくれなかった。むしろ、時間が経てば経つほど鮮明にサフィラの脳裏に浮かび上がる。中でも、白く輝く女騎士の美しい幻は、サフィラの夢にまで現われてその存在感を増すばかりである。
それらすべてが、拭うことのできない憂鬱となってサフィラの心の底に忍んでいるのだ。

「それよりもさ、王女サマ」 タウケーンの呼びかけに、サフィラの物思いが途切れる。
「俺の呼び名なんだけど、いい加減にちゃんと名前で呼んでくれないかな」

「なんて名前だったか忘れたな」

「また、そういうことを。タウケーンだよ、タウケーン。何なら 『ケーン』 とだけ呼んでもらってもいいけど。ガキのときは、ずっとそう呼ばれてたから」

「タウケーンか」 サフィラに代わってシヴィが答える。
「それは古い森の神にちなんだ名前じゃな」

「お、分かるかい、爺さん。さすがだね。その通り。フィランデは森の国だ。それもあって、王家の人間には代々、古くから伝わる森の守り神達の名前が付けられるんだ」

「ふーん」

普段ならその手の話には積極的に加わるサフィラだったが、このときは興味がなさそうに鼻を鳴らしただけだった。

「神の名を与えられた赤ん坊が、今となっては神をも恐れぬ不埒な軽薄男に成長してしまった、というわけだな。残念なことだ」

「……もう言い飽きたけど、あんたホントに口が悪いね、王女サマ」

「これでも抑えてる方だ。それから」 サフィラは振り返ってタウケーンを見やった。
「お前の呼び名はともかく、私のこともこの先 『王女』 と呼ぶのはやめろ。それはヴェサニール国内でのみ意味のある名前だ。国を出てしまえば、ただの 『サフィラ』 でしかない」

「じゃあ、ただのサフィラ」

「『ただの』 はいらん!」

「じゃあ、サフィラ」

「……お前に呼び捨てにされると、何となく耳にザラついて不愉快だな」

「そう呼べって言ったくせに」

二人の応酬が続く中、まあまあ、とシヴィがやんわり口を挟んだ。

「気に入る、気に入らんはともかく、王女、王子と呼び合うのは止めた方がよいじゃろうな。恐らく、城を逃げ出した 『不埒』 な王女と王子を捜す者が両国から近隣に手を伸ばしてくるじゃろうし、見つかって連れ戻されるのも面白くなかろう」

シヴィの言う通りだった。

実はつい先刻も、騎馬の二人組が慌しく三人の傍らを駆け抜けていったところだった。顔はよく見えなかったが、身に纏う鎧にはサフィラが見間違えようもないヴェサニール国の紋章が象ってあり、明らかにサフィラの行方を追ってきた城の者に違いなかった。シヴィが変異の魔法を使わなかったら、たちどころに発見されていただろう。



          → 終章・旅の始まり 15 (完)へ

「……では、行くとするかの」 と、シヴィの声が響く。

「やれやれ、ようやく出発か」

しんみりした別れの雰囲気に少しばかり手持ち無沙汰だったタウケーン王子は、サフィラが用意したもう一頭の馬に身軽に乗り上げた。サフィラも騎乗の人となり、手綱を持つ両腕の間にシヴィがちょこんと同乗して小柄な身体を収める。

「寂しくなるな」

サリナスがサフィラに手を伸ばした。
サフィラが握り返したその手は、サリナスの誠実さそのものの温かさでサフィラの手を包む。いつまでも触れていたいという思いに駆られながら、私もだ、とだけサフィラは答えた。

「お元気で、サフィラ様」 今度はウィルヴァンナが華奢な手を差し伸べた。

「ウィーラも」 と、その手にサフィラが触れる。

しかし、その瞬間、ウィルヴァンナはびくりと身体を震わせて、サフィラの手を離した。

「どうした、ウィーラ」

怪訝な顔で尋ねるサフィラを前に、ウィルヴァンナは少し動揺したような表情を浮かべた。

「いえ」 ウィルヴァンナはぎこちない笑みを返した。
「……昨日、指に針を刺して……まだ少し痛むので」

「ああ、悪かった。傷に触ってしまったんだな。大丈夫?」

「え、ええ。ご心配なく……」

ウィルヴァンナは、もう一度笑って見せた。その背後でマティロウサが一瞬険しい表情を見せたが、誰もそれには気づかなかった。


「じゃあ、皆……元気で」

サフィラは馬上から立ち並ぶ人々を見回し、それだけ言うと、別れの余韻を振り切るように愛馬の手綱を引いた。カクトゥスが小さく鼻を鳴らしてゆっくりと歩み始め、タウケーンがその後に続く。

規則正しいひづめの音が響くにつれて、見送る人々が背後に遠ざかっていくのを意識しながら、サフィラは振り返りたいのを堪えて、ただ前だけを見つめていた。見送る側の人々は、二頭の馬が夜の帳の中に次第に姿を消していく様子を、言葉なく見つめていた。

そして、三人はヴェサニールを離れて旅する身となったのだ。


       ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


「……何を見たんだい?」

サフィラ達が去った後、サリナスも自分の家に戻り、マティロウサの家はいつも通り魔女と魔女見習いの二人だけになった。疲れた顔をしてどっかりと椅子に座り込んだマティロウサは、そそくさと自分の部屋に戻ろうとするウィルヴァンナに、そう尋ねた。

老いた魔女の質問に、ウィルヴァンナはびくり、と立ち止まる。

「何を、とは……?」

「隠すんじゃないよ。あたしが気づかなかったとでも?」

「……」

「さっき、サフィラと握手したときに、お前、何かを見たんだろう?」

「……」

ウィルヴァンナはマティロウサを振り返った。その相貌は、心なしか青ざめている。

あのとき、サフィラの手に触れて、すぐに離したとき、とっさに思いついた出任せでその場を濁したウィルヴァンナだったが、やはりマティロウサの目は誤魔化せなかったようだ。

確かにウィルヴァンナは見たのだ。頭の中に浮かんだ、ある光景を。

「剣が……」
自分を見つめる魔女の強い視線に促されながら、ウィルヴァンナは口を開いた。
「剣が見えました……刃が赤く染まって、あれは……あれは血……」

ウィルヴァンナが遠い目をし始める。口調は次第に興奮したそれに変わっていく。それは、先読みの訓練をしているときにこの年若い魔女見習いがよく見せる姿だった。
マティロウサは黙っていた。その目は厳しく、険しい。

「剣を持っているのは、黒い影……人のような、そうでないような……その影の側に、あの方が倒れて……サフィラ様が…いえ、サフィラ様だけではなく、何人も……血が、あの方の身体を染めている……辺り一面、地面も、枯れた木の枝も、石塊も赤い……!」

最後は叫びにも似た声を上げ、ウィルヴァンナは目を閉じてその場にしゃがみこんだ。苦しげな荒い呼吸が部屋中に響く。
マティロウサは急いで立ち上がるとウィルヴァンナに歩み寄り、その額に指を押し当てた。

「忘れるんだよ……」 魔女の低い呟きがウィルヴァンナの耳に届く。
「お前が目にした光景を忘れるんだ……」

呪文にも似たマティロウサの言葉に、ウィルヴァンナはゆっくりと目を開けた。気遣わしげな魔女の顔が自分を覗き込んでいることに気づき、ウィルヴァンナは驚いて目を見張り、辺りを見回した。

「あ、あら……」

「大丈夫かい?」

「マティロウサ様、私、一体……?」

「……なに、ちょっとした立ち眩みだよ。ここしばらくバタバタしていたから、疲れが出たんだろう」

「立ち眩み……」

どこか腑に落ちない表情でウィルヴァンナが問い返す。
頭の芯がぼんやりしていて、よく思い出せない。

「もう休んだ方がいいね」 静かな口調でマティロウサが囁いた。

「休む……」

「そう、休むんだよ、部屋に戻って」

「部屋に……」 ウィルヴァンナは魔女に言われた通りの言葉を繰り返した。
「そう……ですわね……。私、もう、休みます……」

何事もなかったかのように、ウィルヴァンナは立ち上がると、眠るような表情でゆっくりと自室へ姿を消した。恐らく、明日の朝目覚めれば、今のことは何も覚えていないだろう。マティロウサの施した魔法によって。

ウィルヴァンナが扉を閉めるのを見届けると、一人になったマティロウサは再び椅子に座り直した。頭の中には、たった今ウィルヴァンナが口にした言葉がこびりついている。

若き魔女見習いの先読み。その能力は、シヴィも認めたほど高い。
だからこそ、ウィルヴァンナが見たという光景は、魔女の心をどんよりと暗く澱ませた。

果たして、その光景は現実となるべきものなのか。
あるいは、何らかを表わす抽象なのだろうか。
いずれにしても、サフィラを待ち受けるのは、安穏とは程遠い運命なのだ。マティロウサは改めてその事実を思い知らされ、思わず両手に顔を埋めた。

「どうか、無事で……」

マティロウサは手のひらの内側で声に出して呟いた。
そして、サフィラと別れたつい先ほど、当の本人にそう言ってやらなかったことをひどく後悔した。

言えなかったのだ。
本心では、決して行かせたくなかったのだから。



          → 終章・旅の始まり 14 へ

旅の目的はともかくとして、唯一無二の親友ともいえる魔道騎士と別れるのは、やはりサフィラにとって辛い想いをもたらした。

出立の夜のこと。

見送る者と見送られる者がマティロウサの家の前に集まった。
サリナスは気遣わしげな瞳をサフィラに向けてきた。

「サフィラ、身体には気をつけるんだぞ」

「分かってる」

「老シヴィが一緒とはいえ、あまり無茶なことはするなよ」

「分かってるって」

「それから、見たことがない植物や木の実を見つけても、すぐに食べようとするなよ」

「……サリナス、それは子供の頃のことだ。今はやらん」

「今もまだ、そういうところがあるから言ってるんだ、俺は。それでよく腹をこわして、マティロウサの世話になってただろう?」

「……」

幼い頃からの付き合いとはいえ、旅の出発際に子供時代のことまで引き合いに出すサリナスの世話焼きには多少閉口するサフィラだったが、それでも、しばらくはこの口やかましい説教を耳にすることができなくなるのだと思うと、心の中を寂しさが支配する。

「お前こそ」 サフィラはサリナスの顔から目をそらして、俯きながら小声で言った。
「人の心配ばかりしてないで、自分のことに気を配れよ。お前、魔道の研究とか始めると、食べるのも寝るのも忘れるほど没頭するからな。そういうところが心配だ」

「お前に心配されるとはな」 サリナスは笑った。「だが、まあ、気をつけよう」

「それから」
サフィラは、少し離れたところでシヴィと言葉を交わしているマティロウサをちらりと見た。
「……マティロウサのことを頼んだぞ。魔女という存在がどこまで頑丈にできているかは知らないが、年寄りであることは違いないからな」

「……分かっているさ」

サリナスは、サフィラの目に浮かぶ沈んだ光を見逃さなかった。
普段は憎まれ口の応酬が耐えないサフィラとマティロウサだが、二人が互いのことをどれ程大切に思っているかサリナスは知っていた。

「未熟ながらも俺にできる限り、気を配るさ。もっとも、そんなことをしても魔女殿には煩わしいと思われるだけかもしれんがな」

サリナスはサフィラを安心させるように笑って見せた。


一方、マティロウサはマティロウサで、同じような事をシヴィに頼み込んでいた。

「……あの子を」 魔女の声は、いつもよりも低く、しわがれていた。「頼んだよ、シヴィ」

うむ、とシヴィが頷く。

「わしの力の及ぶ限り、あの娘を見守ろうぞ」

「魔法使いの長老が言うんだったら、間違いないね」

そう答えながらもマティロウサの表情は暗い。
この先、『あれ』 が、あの 『水晶』 が背負い手であるサフィラにどんな影響をもたらすのか、誰も予見することはできないのだ。その不確かさを思えば、どうしても老魔女の心を不安がよぎる。
『谷』 にさえ行けば何とかなる、というものでは決してない。
むしろ、大きな歯車はそこから回り始めるに違いない。

マティロウサは小さくため息をついて、二、三度頭を振ると、傍らにいるウィルヴァンナを呼び、小さな声で何かを指示した。先ほどからタウケーンに散々話しかけられて多少辟易していたウィルヴァンナは、ほっとした表情で急ぎ家の中へと小走りに駆け込んだ。
残されたタウケーンは、ちぇっ、と舌打ちする。

やがてウィルヴァンナは、手に小さな袋を持って家から出てくると、それをマティロウサに手渡した。
マティロウサは、今度はサフィラの方へ目を向け、魔白、と魔道名でサフィラに声をかけた。

「ちょっとおいで」

呼ばれたサフィラは、複雑な表情を浮かべながらも素直に魔女の元に近づいた。
マティロウサは、ウィルヴァンナに取りに行かせた袋をサフィラに差し出した。

「餞別だよ。持ってお行き」

「何だ?」

「何が起こるかわからないからね。そんなものでも持っていれば、何かの助けにはなるだろうよ」

「……これ、ヴィリの実じゃないか」 袋の中を見たサフィラは、驚いてマティロウサを見た。
「しかも、こんなに」

万病に効果があるヴィリの実は、この辺りでは採ることができない珍しい木の実である。これまでサフィラがどんなに頼んでも『お前には勿体ないよ』と言って決して分けてはくれなかった、マティロウサの秘蔵薬であった。
量からすると、恐らくマティロウサが持っているすべての実を詰め込んだのだろう。
恐らくは危険なことも多くあるに違いない、そんな不安な旅に出ようとしている愛弟子に、自分ができるのは、これくらいしかないのだ。

サフィラはしばらく魔女を見つめ、やがて小声で、ありがとう、とだけ呟いて、その袋をみずからの荷物の中に収めた。

向き合った二人の間に言葉はない。お互い、何と言っていいのか分からなかった。
しばし沈黙が流れた後、ようやくサフィラは

「じゃあ、マティロウサ」 と声をかけた。「……行ってくるから」

「……ああ」 マティロウサも短く返す。「気をつけて」

マティロウサの言葉にサフィラの顔が少しだけ歪んだが、サフィラは他の者達にそれを悟られないよう俯くと、身を翻して愛馬カクトゥスに歩み寄る。



          → 終章・旅の始まり 13 へ

タウケーン王子がサフィラの同行者か否かについては、ヴェサニールの城内でも散々取り沙汰されたことではあるが、この状況から見るとどうやら事実のようである。しかし、どちらかがどちらかを拉致したわけでも、誘ったわけでもなく、ましてや示し合わせたわけでは決してない。


昨晩、サフィラが旅支度を整えて再び城を抜け出し、マティロウサの家をこっそりと訪れたとき。
本来の同行者である老シヴィ、そして見送りに来たサリナスとともに、何故かそこにはタウケーンの姿があった。

「……何故いる」

「俺も付いて行こうと思って」

「は?」 タウケーンの言葉にサフィラは目を剥いた。「何で」

「ヒマだし」

「……大人しく国に戻れ、バカ王子」

「いずれはね。でも、今戻っても良いことないしな。何しろ、花嫁には逃げられるし、未来の王にはなり損ねるし」

「だったら尚更、国に戻ってこれまでの不道徳を反省しながら余生を過ごせばいいだろう」

「それじゃ詰まらん。まあ、この機会に世の中を見て歩くってことで。爺さんには了解もらったぞ」

サフィラは問うような視線をシヴィに向けた。シヴィは罪のない笑顔をサフィラに寄こして、うんうん、と頷き、「その方が楽しいもん」 と子どものように言い足した。
それですべてが決まったのだ。


それに遡ること数日前、サフィラ達がマティロウサの家に押しかけた夜のこと。

サフィラが水晶に関する真実を知る間、老シヴィの術によって眠りに落とされていたサリナスとタウケーンは、術をかけた本人によって何事もなく目を覚ました。
勿論、二人は眠っていたことすら覚えていなかった。

シヴィから、サフィラが魔法使いの集う 『谷』 へ向かうことを告げられたサリナスは、あれだけ強固に反対していたにも拘らず、意外なことにあっさりと承知した。

「羨ましいことだ」 とまで、サリナスは言った。
「俺もできることなら 『谷』 に行ってみたいよ。魔道に関わる者すべての憧れの地だからな」

サリナスの豹変振りにサフィラは驚いたが、何食わぬ顔でアサリィ茶をすすっているシヴィに視線を向けたとき、その表情に空々しい何かを見つけて、ピンときた。
シヴィが、きっとサリナスに魔法をかけたのだ。恐らく 『承服』 か、あるいはそれに似た魔法を。

まったく魔法使いという種族は。
生真面目なサリナスをどう説得するか頭を悩ませていたサフィラは、その必要がなくなったことにほっとする反面、呆れ顔でシヴィを、そしてマティロウサを見た。

人の心を変えるような魔道は使うな、とサフィラに言っておきながら、自分達は都合次第でそれを実行する。何事も方便、というやつか。サフィラは軽く睨むように二人を見た。老いた魔女もシヴィと同様、素知らぬ顔で視線を反らす。

「なあなあ、谷って、どんなとこ?」

タウケーンが尋ね、シヴィが得意げに、それはな、と説明し始めるのを横目に、ばつの悪そうなマティロウサが出した茶碗の縁を軽く弾きながらサフィラはため息をついた。その憂鬱そうな響きを耳にして、サリナスは不審な顔をサフィラに向ける。

「どうした。『谷』 に行けるんだぞ。嬉しくないのか」

「そんなことはないさ」 サフィラは無理に笑って見せた。「嬉しいに決まっている」

だが、決して物見遊山に行くわけではない。
その真の目的を考えると、サフィラの気分も滅入ってくるというものだ。どうやら、それが表情に表れてサリナスを訝しがらせたようだった。

「それにしては元気がないな」

「そうか?」

サフィラはそれだけ答えて、サリナスの真っ直ぐな視線を避けた。

サリナスに本当のことを言ったら、どうするだろう。
ふとサフィラはそんなことを考えてみた。

水晶のこと。
魔の者のこと。
忌まわしき復活のこと。
そして、サフィラが負わされた運命のこと。

驚くだろうか。驚くだろうな。
信じるだろうか。恐らく、信じるだろう。疑いながらも。

自分以外の誰かに本当のことを知ってほしいという気持ちが、サフィラには確かにあった。
しかし、告げられたところで、サリナスにどうすることもできないのも分かっている。
むしろ、知ることによってこの男を苦しめることになるかもしれない。それならまだしも、水晶の忌々しい運命に巻き込むことにでもなったら。

そこまで考えてサフィラは思考を止めた。詮無いことだ。今さら何を。



          → 終章・旅の始まり 12 へ

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

ヴェサニールの都を南下してひたすら進んだところに、一本の川が流れていた。
ハリトム川と呼ばれるその川は、ヴェサニールの国境線と流れをほぼ同じくしており、旅行く者の多くはこの川を越えることでヴェサニールの領域外に歩みを進める目安としていた。
川の両岸には、ところどころに獣が隠れられるほどの茂みが点在する野原が広がり、今の時節ならではの心地よい風が吹いては、背丈の短い草の間を揺らしていく。

ちょうど、ヴェサニールの城で持ち上がった騒動がようやく収まりかけていた、その頃。
ハリトム川のほとりを行く、二頭の馬に騎乗した三人の人影があった。

「今頃、城は大騒ぎだろうな」

一人が、ふと馬の歩みを止めて後ろを振り返り、ため息交じりの呟きにも似た口調で言った。
華奢な体つきと整った容貌は少年のようでもあり、未成熟な少女のようでもある。

「まあ、今さらそれを言うても仕方あるまい」

同じ馬に乗るもう一人の人影が返事を返す。
三人の中でもっとも小柄で、皺だらけの顔と、それに似つかわしくない若々しい輝きを持つ瞳が印象的な老人である。

「なあ、ちょっと休まない? 夜中からずっと馬の上じゃないか。疲れちまった、俺」

残りの一人が、不平というよりも頼み込むような口調でそう言って、もう一頭の馬の上でぐったりと身体を傾けた。背が高く均整の取れた体つきと甘い容姿は、もしこの場に女性がいたら必ず目を留めるだろう、と誰もに思わせるような優男だった。

「軟弱者め」 最初に言葉を放った人影が呆れたように言った。
「まだ、国境近くだぞ。本当はもっと進んでいる筈なのに、お前がそういうことを何度も言ってゴネるから、まだ川も渡ってないんだぞ」

「だって、馬の揺れがひどくてさ、身体中痛いったらないんだよ。俺、あんたみたいに体力ないんだからさ、王女サマ」

「お前の性別と年齢を考えたら、私よりも力強くあって然るべきだ、バカ王子」

「だから、その呼び方やめてって」

「これこれ、喧嘩はいかん、喧嘩は」 小柄な老人が二人の間に割って入る。
「仲間内で諍いがあると、旅が楽しくなくなるぞい」

「だって老シヴィ、このバカ王子、自分から 『付いて行きたい』 って言ったくせに、一番足手まといじゃないか。何が仲間だ」

「俺は王子だから、こんな強行軍の馬旅は馴れてないんだよ」

「馬が嫌なら歩け、軟弱者」

「その呼び方も嫌だなあ」

ヴェサニール国王女サフィラと魔法使いの老シヴィ、そしてフィランデ国王子タウケーンの三人が連れ立ってヴェサニールを離れたのは、今からほぼ半日前の真夜中のことである。

日は既に高い位置にまで上り、草原の上に三人と二頭の影を色濃く落としていた。
もはや都からは遠く離れ、この辺りには集落もないため、当然他に人の姿はない。目に見える景色一帯が緑にそまり、のどかではあったが国を離れる者、すなわちサフィラにとっては若干の物寂しさも感じさせる、そんな風景が広がっている。

「ほれほれ、王子、わしを見ろ。一番年寄りじゃが、わしが一番元気じゃぞ」

励ましているのか、それとも揶揄しているのか分からない口調で老シヴィが言った。

「あんたは王女サマの馬に乗ってるだけだろうが」
タウケーンが恨めしげに馬上で身体を伸ばした。
「馬を操るのは結構大変なんだぞ」

「乗馬は王族のたしなみだ」 素っ気なくサフィラが答える。
「どうせ、くだらない世情の戯れ事に夢中で、まともに馬に乗ったこともないんだろう」

「そりゃね」 タウケーンがにやりと笑う。
「馬なんぞに乗る時間があったら、他の物に乗る方が……」

「老シヴィ!」 タウケーンの下世話な言葉を遮るように、サフィラが声を尖らせる。
「何で、こんな軟弱なヤツと一緒に旅をしなければいけないんだ! あなたと私の二人だけで良かったじゃないか!」

「えー、だって、旅の道連れは多い方が楽しいじゃろ?」

「楽しくない!」

サフィラの怒声が吹き抜ける風に混じって辺りに響き渡る。



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