サフィラが口を挟もうとするのをシヴィは手で制した。
「まずは聞くがよい。あの古の出来事から千年の時が流れた。信じるか否か……わしはさっきそう言うたな。じゃが、たとえお前様が信じまいと、いずれこの予言は事実となる。現に、目覚めは起こりつつあるのじゃよ、サフィラ王女」
意味ありげな視線がシヴィからサフィラへ向けられたが、サフィラはそれを真っ向から受け止めることができなかった。
シヴィの言葉にサフィラが求める答えはまだ現われない。
だが、それを知りたいと望んでいる一方で、果たして自分は本当にそれを知りたいのか、サフィラ自身も曖昧なみずからの感情に戸惑うばかりであった。
サフィラは憂えた気持ちを隠せないまま、ようやくシヴィに向き直った。そこには、光さえも吸い込む老魔法使いの深遠な瞳があった。
「かの者目覚めれば」 シヴィはサフィラと視線を合わせながら言葉を続けた。
「水晶もまた然り。復活が水晶を呼び寄せる。七と一つの水晶はみずからを生み出した魔の者を求め、善ならぬ力を以ってかの最果ての地へ何としても戻ろうとするじゃろう」
「ダルヴァミルへ……」 サフィラが呟く。その目は遠い。
そうじゃ、とシヴィは、これも低い声で呟くように答えた。
「じゃが、魔の者が目覚め、水晶が目覚めれば、その内に封じられている勇士達も、また然り」
「勇士達……」
「うむ。かの魔の者を完全に消滅することができなかった古の勇士達。その身体は最果ての地で魔の者と同じく朽ちたが、封じられたといえどもその意志は今も水晶の中に残っておる。志の半ばにして斃れたことへの無念、憤り、悔恨……。それ故に彼らはこの復活の時に際して、再びかの最果ての地で魔の者と会いまみえることを強く望んでおるのじゃ」
シヴィは一つため息をついた。
「七と一つの水晶がかの地に辿りついたとき、恐らく水晶に封じられたすべての力が解放される。魔の力は母なる魔の者へ戻り、同時にそれによって囚われていた勇士達の意志も自由になるじゃろう」
捉えた者と捉われた者。
相反する両者の意志は、目的こそ違えどもいずれも最果ての地へ戻ろうとしている。
同じ水晶の中で。
だから?
サフィラは口に出さずに心の中で問うた。
だから、それがどうだというのだ。
信じがたい古の伝説。そこに隠された予言の具現。魔の者。勇士達。その復活。
それを 『真実』 と呼ぶなら、それでもいい。
だが、その 『真実』 とやらと自分を結ぶ糸はどこにある?
サフィラは苛立ちを露わにして軽く頭を振った。
そして、心の内に宿る疑問を老魔法使いにぶつけるために口を開こうとした、そのとき。
一瞬。
瞬きするかしないか、それくらいの、ほんの一瞬。
頭の中を 『何か』 がふっと横切っていったのをサフィラは感じた。
『それ』 は、サフィラを呼んだ。
声が聞こえたわけではなかった。だが、確かにサフィラは、『何か』に呼ばれたような気がした。
サフィラは聞こえぬ声の気配を探るように、ゆっくりと周囲に視線を走らせた。その目が、隣室への扉の辺りでぴたりと止まる。
サフィラはそろりと立ち上がり、扉から目を離さないまま歩を進めた。
サフィラの様子を見ていたマティロウサは思わず立ち上がってサフィラを止めようとしたが、シヴィがそれを制した。魔法使いの目がすっと細くなっていく。そこには何かを見極めようとする真摯な光が浮かんでいる。
やがて扉の前にたどり着いたサフィラは、両手で古ぼけた扉の表面に触れた。
再び、自分を呼ぶ無言の声がサフィラの脳裏を刺激する。
確かにそれは、扉の奥から聞こえてきた。
サフィラの中で、目の前の扉を押し開けたいという強い思いと、同じくらいの強さでそれを拒もうとする思いがしばしせめぎあっていたが、やがて意を決したように思い切り扉を引き開けた。
→ 第四章・伝説 16 へ
「かの魔の者の身体は呪われた地で確かに朽ちた。しかし、意識は水晶とともにまだ生き永らえておる。そして……待っておるのじゃよ」
「……何を」
かすれた声でサフィラが問うた。鼓動はこれ以上ないほどに早まり、その激しさでサフィラは全身が揺れているような錯覚を覚えた。
シヴィはそれには答えずに、目の前の羊皮紙を指でなぞった。
水晶はただ待つ
封印が解け 時が満ちるを 永遠ならぬ平穏の果てを
かの魔の者が目覚める刻印ある日まで
水晶が最果ての地へ赴く時まで
心せよ その日を 心せよ 目覚めを
旧き刻の伝説は歌う
かの妖しき魔の者と水晶の物語
七と一人の勇士の物語
シヴィが語り終えるとともに、沈黙が部屋に訪れる。
同時にサフィラの身体に起こっていた変調も、まるで幻であったかのように消え去った。それでもサフィラの顔からは血の気が失せており、病を患った後のような倦怠感に全身を襲われていた。
「サフィラ」 気遣わしげに声をかけたマティロウサが、二杯目のアサリィ茶を差し出した。
「大丈夫かい、あんた。この前ほどじゃないけど、ひどい顔だよ」
「うん……」 まだ荒い呼吸を少しずつ整えながら、サフィラは茶碗を受け取った。
「……今のが『予言』の部分か、老シヴィ?」
「……そうじゃ」
「古の魔者は消滅したのではなく、今わの際に勇士達を巻き添えにして水晶に力を隠したと?」
「そうじゃ」
「そして時が経てば、その封印が解けて再び魔者が復活すると?」
「そうじゃ」
「その 『時』 とやらが……今、だとでも?」
「……」
サフィラが冗談の積もりで尋ねた最後の問いにシヴィは答えず、ただ黙り込んだ。しかし、サフィラはその沈黙の中に肯定の意を読み取った。
再び静けさが周囲を襲う。
「……子どもを寝かしつけるどころの物語どころではないな」 ようやくサフィラは口を開いた。
「今の話を聞かされでもしたら、逆に悪い夢に襲われて眠ることなどできそうもない……もし、この 『予言』 とやらが現実に起こるのだとしたら、の話だが」
「信じられぬかの?」
シヴィが穏やかに問う。先ほどまでの暗い語調は微塵もない。
サフィラは緩慢に首を振った。
「信じられるとでも? 大昔に世を荒らした悪い魔者は勇士達に倒された。しかし、数百年後、魔者は再び甦り……それで? 一体この先、どう物語は続く?」
サフィラの語気は少しばかり苛立たしげだった。
「そして、それが私に、何の関係がある?」
サフィラが本当に聞きたいのは、そのことだった。
何故、この古の詩にかかわるときだけ、自分はおかしくなるのか。
つい先ほどもそうだった。
何故、幾度も幾度も不可解で不可思議な幻視を見るのか。
その答えは、どこにも見当たらない。
サフィラは頭を抱えた。自分がひどく混乱しているのを感じていた。
その様子を見るシヴィとマティロウサの瞳は蔭りを帯びている。
→ 第四章・伝説 15 へ
「……すごいな、老シヴィ」 サフィラはため息をついた。
「あなたが語ると、一枚の羊皮紙ですら命を吹き込まれて動き回りそうだ」
「ほほう、やはり、お前様は優秀な魔道騎士じゃな。詩文の持つ魔力をみずから体感したと見える」
シヴィは満足げに微笑んだ。
「とは言うても、実はところどころ端折った部分もあるんじゃ。本当はもっと長い詩じゃが、まあ、大体のあらましは今話した通りじゃよ」
机の上には、いつの間にか三人分のアサリィ茶が用意されていた。シヴィが語っていた間に、マティロウサが入れたものだ。
それに手を伸ばしたサフィラは、しばらく考え込んだ後、マティロウサへ目を向けた。
「マティロウサが言った通り、これは英雄達の頌歌だね。明らかに一つの伝説を謳った詩だ。でも、あのときマティロウサは 『予言詩でもある』 と言ったが、この詩の内容に予言すべき要素があるとは私は思えないんだが。それに、老シヴィ」
今度は、アサリィ茶をすする魔法使いに向き直る。
「先ほどのあなたの言い方では、この詩に語られているのは 『かつて実際にこの世界で起こったこと』 である、という印象を受けたが、こうして聞いてみると……魔者だの、勇士だの、どうも今の世では現実味が沸かないことばかりだ」
実のところ、シヴィの深い語りに心を動かされはしたものの、語られる内容自体はありふれた英雄譚であり、幾分サフィラは拍子抜けしていた。つい先刻にシヴィが見せた厳粛さは一体何だったのか、と思わずにはいられない。
「子どもを寝かしつけるために親が使う、もっともらしいおとぎ話、と言われる方がまだ納得できる」
「ほうほう」 シヴィは面白そうに笑った。
「話の最後に 『早く寝ないと魔者がやってきて、お前を食べてしまうぞ』 と付け加えるなら、そういう使い方もあるじゃろな」
「それに……」 サフィラは言いかけて言葉を止めた。シヴィが先を促す。
「それに?」
「……水晶は?」 サフィラは心の中の疑問を口にした。
「これは水晶の物語ではなかったのか? あなたもさっきそう言った。かの魔の者が七と一つの水晶を造った、と。その水晶は一体?」
ふむ、とシヴィは顎をさすった。その表情が少し曇る。
「さっきも言うたが、この伝説にはまだ続きがあってのう」
「続き? どんな?」
シヴィは再び目の前の羊皮紙に目を落とし、サフィラもつられるようにそれに倣う。
「勇士達は確かに魔の者を打ち倒した。しかし……決して消滅したわけではないのじゃ」
「え?」
「かの魔の者が造り上げた七と一つの水晶。そこには、ありとあらゆる美と彩が集められたという」
シヴィの声の中に、再び遠い響きがこだまする。
「天と土を分かつひずみから最初に流れ出た白銀の光、木々の梢を吹き抜けた風に染まる萌黄の葉、眠り覚めぬスピルヤヌスの湖に姿を落とす深き水面の緑、天かける神々の腕も届かぬ空の澄青、黄昏時の雲が抱く斜陽の鴇色……不毛の地に在りながら、ナ・ジラーグが造り出したものは禍々しいほどの美しさを放っていたという。まるで、かの魔の者の姿そのもののように……」
サフィラは茫然とした表情を浮かべてシヴィの語りに耳を傾けていた。
「ナ・ジラーグが何故このようなものを造ったのか、それは分からぬ。じゃが、七と一人の勇士に打ち倒され、最期を迎えたとき、かの魔の者は七と一つの水晶にみずからの力の一部を移し、永劫までも逃れることができない禍言をかけたのじゃ」
フィラの心臓がどきりと波打った。
何故かは分からなかった。ただ、奇妙な息苦しさを感じて、サフィラは戸惑った。
その感覚は、以前見た幻視の予兆に似ていた。
シヴィは言葉を続けた。
「美しき水晶はナ・ジラーグの善ならぬ思いに染まり、その意志に従って、傷つき疲れ果てた七と一人の勇士の魂をみずからの内に封じてしもうた」
サフィラは自分の中にじわじわと何かが膨れ上がっていくような感覚を味わっていた。
こめかみが痛い。
何かが頭の内側でサフィラに杭を打ち立てている。強く、規則正しく。
サフィラはそれが自分の脈拍だと気づくまで、しばらくかかった。
「やがて水晶は呪われた地を離れ、世界の何処かへ散らばり、行方も知れず、何人の目に触れることもなくなった」
シヴィの口調が陰を増した。語られる一つ一つの言葉がサフィラの周囲を漂っている。蜘蛛の巣のように少しずつ、少しずつサフィラの身体にまとわり付きながら。
手足の指先がしびれ、感覚が薄くなってくるのをサフィラは感じた。
→ 第四章・伝説 14 へ
「心して聞くがよい。ヴェサニールの魔道騎士サフィラよ」
サフィラを気遣わしげに見つめた老シヴィは、それでも語ることを止めなかった。その口調は、いまや厳粛で堂々たる響きを含んでいた。
「そして、知るがよい。かつて、この世界で何が起こったのか。そして、今これから、何が起ころうとしているのか」
老いた魔法使いは静かに語り始めた。
「その上(かみ) ナ・ジラーグというありて
かの地ダルヴァミルにとどまり
奇しく織り成す数多の彩を縒り集めて
七と一つの水晶を造れり……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
遥か昔。
人々の記憶にすら上らぬ、遠い昔のこと。
世界の最果てに、風の音も届かぬ不毛の地があった。
命ある者、心ある者は決して寄りつかぬその地はダルヴァミルと呼ばれ、枯れた土塊と禍々しい大気だけを住人としていた。
人々は、不吉を込めてその最果ての地を「呪われた地」と呼び、やがて口の端に掛けることすら憚るようになった。
その最果ての地に、一人の魔者がいた。
名をナ・ジラーグという。
ナ・ジラーグは魔の者。
夜空に現われた月が凍えるほどの美貌の者。
そして、陽が光をひそめて暗く惑うほどの善ならぬ者。
強大にて凶大なる力を以って、世に災いをもたらす者。
野を駆り、天を越え、かの魔者が食らうのは人の命に宿る心の灯火であった。
散りばめられた呪いに、弱き人々は惑い乱れ、国は滅び、やがて大地も荒廃した。
不毛はダルヴァミルのみにとどまらず、すべての世界が瀕死のため息に喘いでいた。
しかし、絶望あるところに、希望もあった。
時を同じくして誕生した七と一人の勇士達がいた。
気高き心を以って世を憂う勇士達。
人に生まれ、人に在らぬ力を持つ勇士達がいた。
世界の嘆きを知る七と一人の勇士達は、かの魔の者が住まう最果ての地をめざした。
我が身の平穏を打ち捨て、彼らは故郷を離れ、城を発ち、野をさすらった。
沈む夕陽と明ける朝日を追いながら、ナ・ジラーグを求めてやがて最果ての地に至った。
かの魔の者は、七と一人の勇士達を迎え撃った。
幾星霜もの時を経たナ・ジラーグの力は強大で智恵は聡く、七と一人の勇士の力を合わせても、その闘いは永きに渡って不毛たる最果ての地を揺るがすこととなった。
やがて両者の力が尽き、いずれも満身創痍に精も果てようとしたとき、最後の力を振り絞って勇士らはナ・ジラーグを討ち果たした。
ヴァルダミルにてナ・ジラーグは敗れ、その魂はこの最果ての地に墜ちた。
世界は、かの魔の者と呪われた地の呪縛から解き放たれ、かくして平穏の時代が到来した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……と、ここには語られておる」
突然、平淡な口調に戻った老シヴィの枯れた声が、サフィラを一瞬にして現実に引き戻す。
古の詩の文言をそのまま読み進めていたにもかかわらず、老シヴィが紡ぎ出す言葉は、まるでそれ自体に魔法が宿っているかのように、在りし日の光景を鮮明にサフィラの脳裏に浮かび上がらせていたのだ。
サフィラは少し酔ったような感覚を覚え、二、三度頭を振った。
→ 第四章・伝説 13 へ
「伝説?」
シヴィの言葉はサフィラにとって唐突で、まったく予想もしていなかった質問であったため、サフィラは少し戸惑いながら、それでも考え考え頷いた。
「それは、信じるかと言われたら……内容次第、としか答えられない。実際に起こった出来事を語り伝えている場合もあるし、古の人々の頭の中で創られた架空の物語もあるだろう。一概には言えないが……でも、今なぜ、そんな話を?」
「ふむ、なんとも魔道騎士らしい言い草じゃが、それでは答えになっておらんなあ」
サフィラの問いかけには答えずに老シヴィは姿勢を正してサフィラの目を正面から見据えた。
「世の中には、どうにも信じがたい真実というものも確かに存在する。そもそも、伝説の中身が事実かどうかを知っているのは、その物語が生まれた時代の人々のみ。後世の人間にできるのは、伝説が真か否かを判じることではなく、伝説を信じるか否か、それだけじゃよ」
諭すような口調はサフィラの耳に心地よく、だが、老魔法使いの双眸には永き時代の流れを目の当たりにしてきた者だけが持ちうる幽遠な輝きがあり、サフィラは合わせた視線を反らすことができずに、ただ、その言葉に耳を傾けていた。
「今からお前様に、ある伝説を語って聞かせよう」 老シヴィは静かに言った。
「これは、わしら魔法に携わる者の間では 『伝えられなかった伝説』 として伝わっておる」
「伝えられなかった?」 サフィラの頭に疑問がわいた。
「老シヴィ、意味がよく分からない。伝えられなかった物語なら、何故、どうやって今の世に伝わった? そもそも語り継がれていないのなら、その伝説自体、存在しないことになるのでは?」
「うむ」 老シヴィは少し考えた。
「そうじゃな。どちらかと言えば 『伝えられた者以外には伝えられなかった伝説』……とでも言う方が正しいかもしれん」
「複雑だな。まるで言葉遊びのようだ」
サフィラと老シヴィの会話を余所に、マティロウサは戸棚の扉を引き開けて巻物を取り出した。
サフィラ達がこの家を訪れる直前にマティロウサと老シヴィが目にしていた、あの古文書である。三人が騒ぎ立てている間にマティロウサがこっそりしまい込んだのだ。
改めて紐解かれ、机の上に広げられた古い羊皮紙を目にして、サフィラは思わず身を固くした。
「それは」
忘れもしない。
以前、サフィラとサリナスが魔女の元から借り受けて、結局読み解くことができなかった古文書だ。
ここに書かれている詩こそが、サフィラをあの不可解な幻視に導いたのだ。
「いやいや、心配せずともよい」
サフィラの顔に浮かんだ警戒の表情に気づき、老シヴィが穏やかに声をかける。
「この前、お前様が気を失ったのは、いわばこの詩から溢れ出た魔法の息吹を初めて目の当たりにして面食らったようなもの。まあ、食あたりならぬ、魔法あたり、というところじゃな。今日はそのようなことにはならん筈じゃ。安心するがよい」
老シヴィの笑顔がサフィラの心を幾分和らげる。
サフィラは恐る恐る、それでも好奇心は抑えられない様子で少しずつ身を乗り出し、古文書の文字を覗き込んだ。そこには、あのときと同様に強い魔法の波動が感じられたが、老シヴィの言葉通り、あのときのような意識の混濁は起こらなかった。
老シヴィが言葉を続ける。
「ここに書かれている古の詩が読めるのは、本来ならば、わしらのような魔法使いや魔女のみ。普通の人間には、たとえ魔道騎士といえども手に負える代物ではないよ。それでも、そこの若いのは」
老シヴィは眠っているサリナスを顎で示した。
「最初の数行を解き明かしたというではないか。稀有な才を持っておるとしか言いようがないのう。喜ばしいことじゃが、それでも数行が限界じゃろうて」
サフィラは老いた魔法使いと古文書を交互に見比べた。
「老シヴィ。では、この古文書に書かれている詩こそが、あなたがさっき言っていた 『伝えられた者以外には伝えられなかった伝説』 だと?」
「然り、然り」 魔法使いは出来の良い子どもを誉めるように笑った。
「ここに描かれているのは、千年もの昔に起こった一つの戦いじゃ」
「千年?」 サフィラが驚きの声を上げる。「余りに遠すぎて、想像がつかないな」
「じゃが、確かにこの伝説は存在する。お前様の言葉を借りるならな」
老シヴィは声の調子を一段低くした。
「世を荒らした強大な魔者。輝かしき英雄達。そして」 一瞬、老シヴィの言葉が途切れる。
「七と一つの水晶の物語じゃよ」
水晶。
その言葉は再びサフィラの心に悩ましげな波紋を呼んだ。
胸の鼓動が少しだけ勢いを強める。
→ 第四章・伝説 12 へ
サリナスの固い態度は別として、ここにきてサフィラはこの場の風が自分にとって追い風になりつつあるのを感じていた。
見たところ、どうやら老シヴィはサフィラに肩入れする側に立っているようだ。名高い老魔法使いが相手では、さすがのサリナスもそう簡単に言い込めることはできないだろう。
後はマティロウサが何というか、だが。
サフィラはちらりと老いた魔女に目を向けた。
サリナスも同様に考えたらしい。老シヴィが口にする言葉の数々に途方に暮れて、黙ったままのマティロウサに助けを求めるように視線を送る。
それに気づいたマティロウサは無愛想に口を挟む。
「この爺様の言うことをいちいち真に受けるんじゃないよ、氷魔。ふざけた性格なんだから。とにかく、風習に縛られるのが大嫌い、人に指図されるのが大嫌い、型にはめられるのが大嫌い。最長老の魔法使いの癖に、その立場も放ったらかしで我儘、好き勝手し放題の困った爺様だ。たぶん今回の件では、あんたとは意見が一生合わないだろうよ」
「ひどい言われようじゃ」 老シヴィは憤慨したようにマティロウサに反発した。
「わしはただ、王女の気持ちも分からんではない、と言うとるんじゃ。わしだって無理やり結婚しろとか言われたら嫌じゃ」
「誰もあんたなんかに縁談を持ってきやしないよ。まったく、ああ言えばこう言う……」
ぶつぶつと小言を呟くマティロウサである。
「それはともかく、あなたも老シヴィと同じようにお考えか、マティロウサ」
サリナスがマティロウサを促した。その生真面目な口調には、まさかそうではないだろう、というサリナスの期待が見え隠れしている。
マティロウサはそれには答えず、老シヴィへちらりと目を向けた。
それが合図であったのか。
それまで穏やかに笑んでいた老シヴィの目が、一瞬すっと細くなる。
ゴトン。
突然、サフィラの隣で鈍い音がした。
何事かと目を向けたサフィラの視界に、机の上に突っ伏したタウケーンの姿が目に入る。
「? バカ王子?」
サフィラは怪訝な表情でタウケーンの顔を覗き込む。机の上に顔をつけたまま、タウケーンは目を閉じていた。漏れ聞こえる呼吸の深さで、サフィラはタウケーンが眠っていることに気づいた。
その唐突な眠りにサフィラが驚く間もなく、今度は反対側の隣で、カタン……と音がする。
サリナスの手が滑り落ちて机の脚にぶつかった音だった。
椅子の背もたれで首を支えながら天井に顔を向けたサリナスは、ぽかんと口を開けたままでタウケーンと同様に眠りについていた。普段のこの男からは考えられない間の抜けた寝姿である。
「サリナス……」
サフィラは両隣から聞こえてくる規則正しい呼吸音を耳にしながら、今やすっかり夢の世界の住人となっている二人の姿を代わる代わる見比べた。
どうしたんだ二人とも急に、と動揺した声で呟いたサフィラは、腑に落ちない表情でマティロウサと老シヴィに目を向けた。
老シヴィの顔に悪戯っ子のような表情を見つけたサフィラは、二人の寝姿を顎で指し示した。
「これは……あなたが?」
うむ、まあ、と老魔法使いは、頭を掻いた。
「このままじゃと、ちと話が面倒になるんでな」
「……やはりすごいな、魔法というヤツは」 サフィラは感嘆を込めて呟いた。
「何の素振りも見せずに一瞬にして人に術を施すとは。魔道では出来ない芸当だ。……だが、何も眠らせなくても良かったのではないか、老シヴィ。そりゃ確かに、起きているときは何かとうるさい二人だから、つい口をふさぎたくなるときもあるが……」
「いいんだよ」 サフィラの言葉を遮って答えたのはマティロウサの方だった。
「二人には関係ない話なんだから」
「それはまあ、私の結婚話だから関係ないと言えば関係ないけれど……」
「その話じゃないよ」
「え」
サフィラは訝しげにマティロウサを見上げた。魔女の表情には、いつもの不機嫌さに加えて何かしら苦々しい憂慮の相が浮かんでいる。
「実は、お前様にちと話しておかねばならんことがあってのう、サフィラ王女や」
老シヴィが机の上で枯れた指を組み直す。サフィラはますます不審な表情を見せた。
「家出への説教ではなく?」
「そんなもの、わし興味ない。どうでも良いことじゃ」
「では、一体何の話を?」
うむ、と曖昧に返事をしたものの、どう切り出したものか幾分迷いが見えるシヴィである。しばしの沈黙の後、ようやくシヴィは口を開いた。
「サフィラ王女、お前様は『伝説』というものを信じておるかな?」
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