「とにかく私としましては、こんな夜もふけた時刻に一国の王女が、かくも怪しげな行動を取るとは、いかなる理由があるものか大変気になりましてね。何しろ、サフィラ王女は我がフィランデのタウケーン王子の婚約者。王子に忠誠を誓うこの身ゆえ、見過ごすわけにもいかず」
見過ごせばいいものを、とサフィラが舌打ちしたのを無視して使者は続けた。
「そこで申し訳ないとは思いましたが、私も窓から部屋を抜け出しまして……いえ、私は魔道は使えませんが、二階の部屋をいただいておりましたので飛び降りるのはさほど難しいことではなく、ちょうど良い具合に門番も眠ったままでしたから」
使者の言葉にサリナスがもう一度サフィラを睨み、睨まれた方はつと目をそらす。
「誰にも憚ることなく門を通って王女様の跡をつけることができました。幸い、王女様は足音が響くのを気になさってか、馬をお急がせにはならなかったようで、御姿が見えるところまで追いつくには、さほど時間はかかりませんでした。そして、ようやくたどり着いたのが、この家だった……と、まあ、こういう次第でして」
使者はいったん言葉を切って、二人の反応を見た。
話の内容もさることながら、目の前の男の持って回った言い回しと身振り手振りにサリナスとサフィラは目に見えて苛立っていたが、当の話し手は一向に気にしていないようである。
「しかしまあ、分からないものですな」 と使者は憂えるように頭を振った。
「ヴェサニールのサフィラ王女といえば剣に長け魔道に秀で、一国の王女というよりは魔道騎士として名をはせる御方。女性として生まれながらも、その少年姿は娘心を騒がせること本物の殿方以上、しかし色恋にうつつを抜かすよりも日がな一日怪しげな術に心を寄せる……とさまざまな噂を耳にしておりましたが」
「誰だ、そういう適当な噂を流すのは」 とサフィラがいきり立つのを、
サリナスが 「今さら怒ることか」 となだめ、逆にサフィラに睨まれる。
「いやしかし」 と使者が続ける。
「世間の噂というものは当てになりませんな。実際にお会いしてみたらば、娘心どころか男心も捉えて離さぬサフィラ王女の美しさ、そして……」
使者はサリナスにちらりと視線を走らせた。
「このような逢引のお相手もちゃんとお持ちとは」
「逢引?」
サフィラとサリナスは顔を見合わせた。
「逢引って、私とサリナスが? 何でそういう話になるんだ?」 とサフィラ。
「それは誤解だ、使者殿」サリナスが慌てて否定する。
「今夜はたまたま、サフィラが気まぐれに訪ねてきただけで」
「そうだ、別に逢引などではない。会いたいと思ったから会いに来ただけだぞ」
「そういうのを世間では逢引と申しますが」 と使者。
「違うと言っているだろう。失敬なやつだな」
「そうだ、使者殿。我々は別に示し合わせていたわけではなく」 サリナスも必死である。
ですが、と男は疑わしげな目を向けた。
「この状況では何と言われても仕方がありませんな。人目を忍んで城を抜け出し……というのがいけません」
「そうしないと会えないからだ」 とサフィラ。
「今までだってしょっちゅうこうやって会っていたんだ。ことさらに逢引扱いされる筋合いはないぞ」
「ほう、しょっちゅうですか」 大袈裟に使者が驚く。
「そうだ。しょっちゅうというより、ほぼ毎日会っていた。だよな、サリナス」
と無邪気に同意を求めるサフィラに、
「いや、それは昼間の話で」 とサリナスが弁解するが、使者はそれを無視して
「おやまあ毎日……」と呟いた。
「最近は」 サフィラの言葉は続く。
「馬鹿げた結婚話が持ち上がったせいで前ほど会うことができなくなった。だから、今晩は無理やりでも会ってやろうと思って……」
「サフィラ、お前、もう喋るな」
思わずサリナスはサフィラの口をふさぐ。誤解を解こうとするサリナスに反して、サフィラの言葉は誤解を助長している節がある。
「とにかく、これは逢引などではないのだ、使者殿。その点をお間違えなきよう」
離せ、ともがくサフィラを押さえつけながら、サリナスは疲れたように言った。
→ 第三章・悪巧み 17へ
「フィランデの使者だって?」 サリナスは、本当か、と尋ねるようにサフィラを見た。
「たぶん」 サフィラはもう一度男の顔を睨んだ。
「顔はこんなだったかよく覚えていないが、この気障な立ち居振る舞いは、確かに今日の婚約式で見た記憶がある」
「だが、その使者とやらが何で俺の家にいるんだ?」
「私に聞くな!」
突然沸いて出たかのような男の存在に、「何故いる?」と思う気持ちはサリナスよりもむしろサフィラの方が大きかった。
「つれない言いようですな、サフィラ王女」
顔を覚えていない、と言われた男は少し心外な表情を見せた。
「婚約式では、一介の使者の身には余るほどの優しきお言葉をかけてくださったというのに」
「式典用の受け答えを真に受けるな」 サフィラが口をはさむ。
「いえいえ、たとえそれがいかに対外的なお言葉であったとしても、心の中に温情のお気持ちがなければ、あのように私の心を動かしますまい」
「丸暗記したんだ」 ぼそりとサフィラ。
「それはそれで、私などのために一生懸命覚えようとなさる、その真心がまた何とも感動いたします」
な、気障だろ、とサフィラがサリナスに小声で呟き、サリナスが、う、うむ、と曖昧に頷く。
「そんなことはどうでもいいのだ、フィランデの使者よ」
ああ言えばこう言う男の長々と続きそうな話をサフィラは無視して尋ねた。
「何故、ここにいる? お前は城にいるはずだろう」
「さて、それなのですが」
使者は、ようやく本題に入ったとばかりに、部屋の中に一歩足を踏み入れ、扉を閉めた。
「実は、生国フィランデを離れ、物慣れぬ異郷の地で寝るに寝付けず、つい夜空の月を変わらぬ友と眺めておりましたところ……」
「そういう言い回しはいいから」苛立たしげに眉間を抑えたサフィラが使者の言葉をさえぎる。
「簡潔かつ迅速に話せ」
「成程。つまりですな、眠れずに窓を開けて月を見ていましたら、城の外で何やらかすかな物音が聞こえまして……」
私、耳は大層良いのですよ、と使者は意味ありげにサフィラを見た。
「ふと見れば、何と一室の窓から人影が飛び降りようとしているではありませんか。しかも、私の記憶違いでなければ、それはまさしくヴェサニールのサフィラ王女その人のお姿でした」
「う」
サフィラは思わず言葉に詰まった。
見られていたのか。しかも、そのことにまったく気づいていなかったとは。
使者はにやりと笑った。
「それを見たときは、すわ投身自殺か? と心臓が飛び跳ねましたが、王女の姿はさながら風に舞う花びらのようにフワリフワリと地面へ……あれが、魔道というものですか? 初めて拝見しましたが、なかなか優雅なものですな」
サフィラはもはや口をはさまず、黙って使者の言葉を聞いている。
「そして王女は静かに馬を引き、門の方へ……。すると不思議なことに、それまで任を務めていたはずの門番が何の前触れもなく眠り始めて……あれも何らかの術ですかな?」
「う」
サフィラは再度、言葉を失った。その様子に、今度はサリナスが口を挟んだ。
「サフィラ、お前、人に術を使ったのか?」
非難を含むサリナスの言葉に、いや、その、とサフィラが口ごもる。
「使ったと言っても、簡単な眠りの魔道だ。害はない……と思う」
「害があろうがなかろうが、人への魔道はお前が今まで極力避けてきたことだろうが」
「それはそうだけど」サフィラも少し頑張ってみた。
「あの場合はああするより他にいい方法が浮かばなかったんだから、仕方ないだろう」
「だからといって、安直に実行するな。しかも城を抜け出すために」
「もうしないって」
「当たり前だ。そう何度もほいほいやっていいことじゃないぞ。マティロウサが聞いたら何と言うか」
「サリナス、お前、マティロウサには言うなよ」サフィラが急に心配げな表情を見せる。
「あの魔女にだけは、どんな小言を言われるか」
「あー、もし、お二方」
口論めいた会話に今度は使者が軽い苛立ちを見せて二人をさえぎるように、二度ほどわざとらしく咳払いをした。
「続けてよろしいかな」
「あ」
一瞬、存在を忘れられた使者の言葉に、サリナスとサフィラは思わず口を閉ざした。
→ 第三章・悪巧み 16へ
しかし、この正論に、今度はサフィラが驚いたように目を見開いた。
「やましいこと? 何でだ。私とお前の間でやましいことなど起こるはずがないじゃないか」
「……」
きっぱりと決め付けるサフィラに一瞬絶句したサリナスは、やがて小さなため息を一つついた。
「……それはそうなんだが」
確かにサリナス自身、サフィラに対して 「良き年下の友人」 以上の感情を持っていない。まして色恋の対象に見たことなどは一度もなかった。双子の侍女が予想した通りである。
サフィラが王女であるという点を差し引いたとしても、それは変わらないだろうし、結婚話を聞いたときは、優秀な魔道騎士を一人失うことになるかもしれないという残念さの他には、元気の良い妹 (感覚的には弟に近いが) が嫁ぐと聞かされた兄のような心持ちですらあった。
しかし、こちらが何とも思っていないとはいえ、若い娘からの 「やましいことなど起こるはずがない」 という言われようは、一人の男としてどうなのだろうか。
信頼されているのか、相手にされていないのか。
いろいろな意味に取れる分、心中複雑なサリナスである。
とにかく、とサリナスは複雑な思いを隅に追いやり、話を切り上げるように椅子から立ち上がった。
「そういう詰まらん理由で、いちいち夜中に城を抜け出してくるな」
「詰まらん?」 今度はサフィラが、かちん、ときた。
「詰まらん理由だと?」
サフィラは思わず立ち上がり、机の上を叩いた。
「お前に会うためにわざわざ訪ねてきたのが、詰まらんことだと言うのか?」
「詰まらんね。少なくとも、緊急を要する用件ではないだろう」 サリナスはにべもなく言った。
「……」
サフィラとしては、久しく顔を見ていなかった親友にぜひ会いたい、という気持ちもあって仕組んだ今夜の脱走劇である。その思いを当の相手に「詰まらん」呼ばわりされては、さすがに面白くなかった。
二人はテーブルを挟んで立ったまま相手を正面から睨むような形でしばらく黙っていたが、やがてサフィラは 「もういい」 と怒ったように言って扉へ向かった。
自分の計画を打ち明けるつもりでやってきたサフィラだったが、今の心境はその真逆だった。
絶対サリナスには教えてやらない。打ち明けてなどやらない。
魔道騎士としては優秀この上ないサフィラだが、ときに自分の感情を持て余す様子は、同じ年頃の若者達と変わるところがなく、頑固で幼稚なのだ。
かたくなな表情を見せるサフィラに、さすがに言い過ぎたと感じたのか、サリナスは去ろうとするサフィラの腕を取った。
「おい、サフィラ」
「離せ。詰まらん理由で訪ねてきて悪かったな。帰ってやるから、その手を離せ」
「サフィラ」
突然。
「……これはこれは」
サフィラとサリナスの言い合いに割り込むように、別の声が聞こえてきた。
二人は言葉を止め、一瞬互いの目を見合わせると、同時に声のした方向へ顔を向けた。
扉が半分ほど開き、そこに一人の男が立っていた。
男はうっすらと笑みを浮かべ、驚いた表情で自分を見ている二人の魔道騎士の顔を見比べながら面白そうに言った。
「何とまあ、とんでもないところを見てしまいましたな」
「誰だ、あんた」
突然現れた男への驚きをまだ消せぬまま、サリナスは尋ねた。
しかし、サフィラの方は、男の顔立ちと声に覚えがあった。
「お前は……」
サフィラは探るような視線を男に向け、それに答えるように男はサフィラに向かって優雅にお辞儀して見せた。その大袈裟で軽薄な動作は、今日、まさにサフィラが城で目にしたものだった。
「お前……フィランデの使者?」
男はもう一度微笑んだ。
→ 第三章・悪巧み 15へ
サリナスは、そんなサフィラの様子にあからさまな不審の目を向けていたが、やがて自分も椅子に座るとサフィラの顔を正面から見据えた。
「で」
「ん?」
「ん、じゃない。何があったんだ」
「何が?」
「とぼけるな。何かなければ、こんな時間に来ないだろう」
「いや、まあ、ちょっと」
「ちょっと、何だ」 サリナスの口調には、いつもよりも手厳しさが感じられた。
「うん、まあ、ちょっと」
「さっきから、ちょっとちょっと、って、何が言いたい」
いつになく歯切れの悪いサフィラに、サリナスはあからさまに不審の目を向ける。
これは悪いときに来てしまったかな、とサフィラはふと思った。
ここに来るまでは、どう言おう、ああ言おう、こう切り出そう、と馬に揺られながら頭の中で一生懸命考えていたサフィラだが、さきほどからのサリナスの態度の中には、どこか不機嫌な気配が見え隠れしている。どのように告げようと、サフィラの胸の内にある不埒な計画を知ったら、今のサリナスにはそれこそ何と説教されるか。
実はサリナスが穏やかでないのは、読んだばかりの手紙に書かれていた弟の不心得が原因なのだが、サフィラが知る由もない。
サフィラはサリナスの家に来たことを少しばかり後悔していた。かといって 「やっぱり帰る」 と言っても、今の雰囲気だと、それはそれで納得してくれないに違いない。
進退きわまった感が無きにしもあらずのサフィラである。
「うーん」
気づかぬうちにサフィラは声に出して唸っていた。
勿論サリナスはそれを聞き逃さない。
「サフィラ、本当にどうしたんだ……何か、気にかかることでもあるのか?」
やや口調をやわらげたサリナスの言葉には、かすかにサフィラを案じるような響きが加わり始めた。いつもと違うサフィラの様子に、不審が懸念に変わってきたようだ。
「相談なら乗るぞ」
親身なサリナスの言葉だが、こうなってくるとサフィラにとってはますます話しづらいし、帰りづらい。
「いや、特に相談があるわけではなくて、ただ」
サフィラは椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。
「ただ、この先、またこんなふうに、お前の家を、訪ねることも、なくなる、かもしれないと、思うと」
考え考え、思いついたことを適当にサフィラは口にした。
「つい、会いたくなり、何と言うか、その、えー、」
「そんなことで?」 サリナスは呆れたようだった。
「それで夜中に城を抜け出して、いきなり人の家にやってきたのか? 」
「いや、だから、それは悪かったって」
「悪いというか、非常識だろう」
サリナスは声を荒立てたが、夜中であることを思い出し、やや調子を落とした。
「お前はもうすぐ結婚するんだぞ。結婚間近の若い娘が、夜中に男の家を訪ねてくること自体がおかしいだろう。しかも王女の身分で」
サフィラ付きの侍女姉妹にひそかに 「カタブツ」 と評されていることなど知りもしないサリナスだが、その評価を証明するかのように生来の生真面目さからサフィラを正すサリナスである。
「第一、誰かに見られたらどうするんだ。何というか、その」 サリナスは少し口ごもった。
「やましいことがあると言われても、申し開きできないぞ」
そして、それがヴェサニール王の耳にでも入ったら。
サリナスは頭が痛くなった。ただでさえ王の心証が大変よろしくないサリナスである。こんな状況を知られたら、国外追放でもされかねない。
→ 第三章・悪巧み 14へ
家のすぐ外で、ひづめが土を掻く音が聞こえたような気がして、サリナスはふと扉の方へ目を向けた。数秒後、
「サリナス、サリナス」
という、辺りを憚るような囁き声と、遠慮がちに扉を叩く音が同時に聞こえた。その声にサリナスは聞き覚えがあった。
サフィラ?
声の主の名を呟くと、サリナスは急いで扉へ向かった。
鍵を外して開けた扉の向こうには、夜のひんやりした空気とともに人影が立ち、マントのフードの下からサフィラの顔が覗いていた。
「や」 と手をあげるサフィラにサリナスは驚きの目をむけた。
「サ、サフィラ、お前、何だ、今頃」
「いや、ちょっとな。入るぞ」
「おい、待て」
家の主人の許しが出る前に、サフィラは素早くサリナスの横を通り抜けて机のかたわらにある椅子の一つに座り、やれやれ、とフードを下ろした。
何日ぶりかで目にした少年のような少女のようなサフィラの表情にサリナスは小さな物懐かしさを覚え、一瞬だけ驚きを忘れたが、それでも眉をひそめてサフィラの動きを目で追った。
「ふーん」 サリナスの怪訝な顔を無視するかのように、サフィラの方は部屋の中を見回した。
「昼と違って、夜は家の中がきちんとしてるんだな」
サフィラが昼間に訪れるときは、大抵の場合、机の上には重ねられた本や古びた紙が散乱し、床の上には大小さまざまな壺や瓶、干した薬草の束などがひしめいているサリナスの家だが、今はそれらもきちんとあるべきところに片付けられ、小奇麗な様子に収まっている。
「いつぞやは開きっぱなしの本が床の上にまで置かれていたもんだが」
「ああ、見事に踏みつけてくれたな、あの時は」
そのときのことを思い出してか、サリナスはやや不機嫌な面持ちで答えた。
「師匠からもらった大事な本なのに」
「床は歩くためのものだ。本を置く方が悪い。しかし何というか」
サフィラはきれいに片付けられた机や床の上に目をやった。
「いつもの部屋を見慣れていると、何となく落ち着かないな」
「そんなことよりも一体どうしたんだ、こんな時間に」
サリナスの声が、やや非難の色を含んでいることに気づいたサフィラは、途端にそわそわとし始め、うんまあ、と頭をかいた。
「別に、どうということはないんだが、その、ちょっと」
「ちょっと、って……お前、また城を」
抜け出してきたのか、と尋ねかけたサリナスは途中で言葉を引っ込めた。聞くまでもない。お忍びでなければ今頃こんなところに来ることなどできないだろう。
「まあ、何だ、いきなりやって来たのは悪かったと思ってる、うん」
サフィラは周囲に視線を泳がせた。部屋のあらゆるところに目を向けながら、サリナスの顔にだけは目を合わせない。
「いや、お前に迷惑をかけるつもりはまったくないんだ。すぐ帰るから。あ、このお茶、もらうぞ」
サフィラは机の上にあった飲みかけのアサリィ茶を一気に飲み干し、ぬるいな、と取って付けたように小声で呟いた。
→ 第三章・悪巧み 13へ
魔道騎士を望み始めた少年に対して、老人は惜しみなく自らの知識を与えた。
サリナスが15才になったとき、
「来年あたりには、お前も魔道騎士の試問を受けられるかもしれんな」 と老人は言った。
サリナス自身は「まだ早い」と答えたが、サリナスが習得した魔道は少年が自覚している以上のものであることを知っていた老人は、殊更に試問を受けることを勧めた。
老人は少年が一度の試問で魔道騎士の資格を得ることを疑っていなかった。事実、翌年ヴェサニールのマティロウサを訪れたサリナスは老人が予見していた通りの結果を出した。
その後しばらく、サリナスは再び老人の元で学んでいたが、やがて袂を分かち、より高い知識を得るためにヴェサニールに居を構えてマティロウサに師事するようになったのである。
あれから三年も経つのか。
サリナスは、短かったようでもあり、思いのほか長かったような気もする三年間を振り返った。
気難しいマティロウサの元で学ぶのは、なかなか忍耐を必要とし気苦労も少なくはなかったが、得るものは大きかった。また、サフィラという優秀な魔道騎士に出会えたことも幸運に思えた。
いずれにしろ、サリナスにとっては有意義で濃密な期間であった。
しかし、こうして故郷からの便りを目にすると、ヴェサニールで得た充実感とは異なる感情、それは普段サリナスが胸の奥底にしまいこんでいる、懐郷の念とでもいえる想いが少しずつ頭をもたげてくる。
故郷を偲ぶほど年老いているわけではない。
ただ、ヴェサニールで暮らし始めてからサリナスは一度もダレックに戻っていない。そのことが生真面目なサリナスの心の奥につかえ、どこか罪悪感にも似た感情が沸き起こるのだった。
しばらくぼんやりとしていたサリナスは、軽く頭を振って再び手紙に目を通し始めた。
しかし、文面の半ばに差し掛かると急に眉をひそめ、かすかに浮かべていた笑みが表情から消える。
「サーレス……あのバカ」
サリナスは思わず語気を荒くして呟いた。もしもその場にサフィラがいたなら
「珍しいな、サリナス。お前でもそんなふうに人をなじることができるのか」 と軽く驚いただろう。
手紙の中で母は、サリナスの弟サーレスが黙って家を出てもう長い間帰ってこない、と告げていた。
サーレスはサリナスの四歳下の弟である。
サリナスとよく似た容貌を持つ弟だが、性格はといえば穏やかな兄と異なり、気が強く負けず嫌いの性分が勝っていた。
兄が剣を習い始めてからは自分も父に短剣をねだり、魔道騎士の元へ通うようになってからは自ら老人に掛け合って二番目の弟子の座を得た。
このように幼い頃から兄の行動に感化され、兄が残した轍の跡を辿ってきたサーレスだったが、サリナスがヴェサニールへと旅立った後は剣や魔道にも興味を失い、両親が気づく間もないうちに良からぬ仲間と行動を共にするようになり、やがて家に寄り付くことも少なくなった。
そのことは以前母から送られてきた手紙を通じてサリナスも知っていた。
しかし、本当に家出をするとは。
弟の不届きにしばし憤慨しながら、サリナスは同時に両親の心痛を思いやった。
やはり一度ダレックに戻るか。
サリナスはため息をついた。
戻って何ができるわけではないが、父も母もさぞかし途方にくれているに違いない。
しばらく考え込んだ後、サリナスは手紙を最後まで読み終えた。
サフィラがサリナスの家にたどり着いたのは、ちょうどサリナスが棚の小箱に読み終えたばかりの手紙をしまいこんだときのことだった。
→ 第三章・悪巧み 12へ