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蝶になった夢を見るのは私か それとも 蝶の夢の中にいるのが私なのか 夢はうつつ うつつは夢


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マティロウサ手ずから煎じた薬草茶の心地好い刺激香は、サフィラを幾分か落ち着かせるのに役立った。一度に飲み切るには少し熱すぎたがサフィラは構わず一気に喉の奥へと流し込む。既に二杯目、喉の奥が火傷しそうだったが、かえってそれが快かった。

マティロウサが気遣わしげに尋ねる。

「どうだい、少しは楽になったかい?」

「うん……さっきよりは」

自分が一体どうなったのかをサフィラはよく覚えていなかった。
サリナスの家に居た筈の自分がいつの間にやら魔女の家の薄暗い部屋の中に身を横たえていたことも、自分では理由が思い付かなかった。

「詩の話をしていたのは覚えているか? ほら、あのマティロウサに借りてあった古文書の……」

一杯目の薬草茶を飲んでいる時にサリナスが話してくれた。思いがけぬ大魔法使いの老シヴィを目の当たりにすることが出来て、この若い魔道騎士は少々うわの空気味ではあったが、それでもサフィラの身を案ずることは忘れなかった。

「あの詩を読んでいる時、お前真っ青な顔をしているのに気づいた。声をかけようとしたら急に気を失ったんだ。いや、気を失ったというよりも、体から魂が抜け出てしまったような、そんな感じだった。何しろ意識は戻らない、体は死人のように次第に冷えていく、という具合だったからな。それでマティロウサの所へ運んだんだ。本当に死んだのかと思ったんだぞ、俺は」

「勝手に人を殺すな」 サフィラは苦しげに笑って答えたものだった。

今でこそかなり回復してはいるが、目覚めた直後にサフィラが感じた疲労と苦痛は、実にこのまま死出への旅に赴いた方がまだ楽なのではないかと思わせるほどにサフィラを苛なんだ。
見えない手に心臓をきつく掴まれ、喉を締められ、口を塞がれているような圧迫感を全身に受け、マティロウサやサリナスにすらどうすることも出来なかった。

「自分の能力以上の魔道を行って危うく死にかけた魔道騎士を今まで何人か見たことがあるけれども、まるでそれに劣らぬような力の消耗ぶりだね」 マティロウサは言った。
「落ち着いたみたいだけど、何でこうなったのか自分で分かるかい?」

マティロウサの問いに、サフィラは薬草茶の入った茶碗に両手を回して温もりに触れていたが、やがてぽつりぽつりと語り出した。

「……よく分からない。ただ……あれは全て夢だったのだな。あの光も、あの人も。全て夢……。あの詩の中に密かに記された呪文の韻律が夢を、悪夢を呼んだんだろうか」

「どんな夢を……見なすったかね?」

枯葉の声で老シヴィが尋ねる。サフィラは老シヴィの瞳をじっと見返した。

「どんな夢かは貴方の方がよくご存じだという気がする。何故だろう」

老シヴィは何も言わない。
サフィラは言葉を続ける。

「先程ここで見た幻視が、今度ははっきりと形を取った。ある物に。それは凶々しく鮮烈で、しかも忌まわしいまでに美しかった。見てはならぬと強く自分に言い聞かせながらも私はそれから目を離すことが出来なかった。まるで『魔』に魅入られた無力な人間のように」 サフィラは老シヴィを見た。
「あれは、水晶のようだった」

その言葉に、マティロウサは体をびくりと震わせた。それに気づいたサフィラは問うような視線を投げかけたが、魔女は口を閉ざしたままだ。

「あれは危険だ。何故かは知らないがそんな気がする。何かが私にそう言っているのだ。そもそも老シヴィよ、あれは一体何なのだ? 何故私に反応し、私を苦しめる? まるで私を嘲笑っているかのような、あの幻は一体何なのだ? 貴方は知っているんだろう、老シヴィ。マティロウサでもいい、あの古詩は何を意味する?あの詩が予見だとすれば、それは私にどう関わってくる?」

サフィラの口調は冷静であった。
しかし、その裏にはその冷静さと同じくらいの重さの激しさが隠れていた。

老魔女は眉根を寄せて苦しげな憂悶をその面に浮かべ、助けを求めるように老シヴィを見た。
老いた魔法使いはじっと目を閉じ、口も開かず、ただ杖に身を預けて物思いに耽っている。しばし沈黙が部屋の空気を支配した。



          → 第二章・兆候 19 へ

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◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


突然、その老いた旅人は狂おしいまでの憎悪とそれに匹敵するような歓喜を心に覚えた。
それが自分の胸の内から出た感情ではないことを、旅人は気の触れた頭の片隅で分かっていた。
相反する二つの思いは、旅人が背に持つ麻袋から波動を発している。それは余りにも強烈で、その荷の持ち手にすら影響をもたらす程の力だった。

旅人は体を震わせた。
狂人と成り果てた今、彼にとって味方となるものは何もなく、大いなる力の前に為す術もなく操られるがままの命であった。

捕ラエタ。

旅人の心に一つの思念が響く。それは人間の言葉の形を取った意識の塊だった。

捕ラエタゾ。遂ニ。

捕らえた? 何を?

急ガナケレバ。

急ぐ? 何の為に?

アイツニ邪魔ヲサレル前ニ。

あいつ? あいつとは誰だ?

二つの思考がそれぞれ分散する。

老いた旅人の中に残された僅かの意識が麻袋へと流れ込む。流れ込むと言うよりは、圧倒的な力で吸い取られていくような、そんな感覚に近かった。もはや旅人にはその場に体を支えていられるだけの脚力もなく、投げ捨てられた石塊のように地面に膝をついた。

何も彼も奪っていく。

狂喜の淵に浸った頭の中で旅人は漠然と考えた。
考える自由だけは辛うじて未だ残されていたのだ。

こいつは自分から何も彼もを奪っていく積もりなのだ。あらゆる者、あらゆる人、あらゆる力。
そして、見よ、今こいつは地を歩く力さえも私から盗み去ろうとする気だ。
他の何の為でもない、こいつの為に私は安らぎすら許されず前へ、ただひたすら前へと進むことを強いられているというのに、それを知っていながらこいつは私の足すらも奪おうとしているのだ。

「私を解放するのが惜しくなったと見えるな」

狂える老いた旅人は笑った。

「だが、お前……」

地面に体を倒したまま、旅人は投げ出された麻袋を乱暴に掴んだ。
今度は中を覗こうともせず、固く絞られた袋の口を更に二、三度強く紐で巻き締めた。
汗ばんだ顔には苦しげな笑いに混じって、倒れた際にぶつけた地面の土が張り付いている。

「私にこの場で死なれて困るのはお前ではないのか? え? お前はあそこに行きたいのだろう? ほら、こうすればよく見えるだろうが、どうだ」

旅人は袋の口を握って、震える手を延ばし出来る限り高く差し上げた。

夕闇もそろそろ近くなりかけた空の下、ヴェサニールの街外れに建つ数軒の家の灯りが、その中に人が住まう証しであるかのように白く光り始めていた。彼方森を漸く抜け出した旅人が数ヵ月振りで目にする街の情景が、自分が倒れている道の先に連なっていた。

「あの街灯りの元へ行きたいのだろうが。そこで新しく犠牲となる者を探すのだろうが。私をここで潰したら、あそこまで一体誰がお前を運ぶのかね。自分の足で歩くことが出来ない以上、お前だってここに立ち往生だ、そうだろ? それとも……この状況の元でお前はただ私をいたぶりたいだけなのか? どうなのだ?」

旅人はもはや虚ろな瞳をしてはいなかった。
背筋が凍るような激しい視線の内には燃え盛る炎が火を弾いていた。
狂気の中の正気。狂気ゆえに生まれる理性が彼の中にはあった。

「お前は私に進めと言い、それなのに私の歩みを奪おうとする。そして私は進まなければ平穏を手に入れること能わぬというのに、何という事だ、足を運ぶ力をお前に掴まれてしまっているのだ。どうやらお前は私に平穏を与える心積もりは永久にないらしいな。人の心が平らかになるのを見るのはそんなにも気にそまぬか。やはりお前は魔だな。災いや不幸が何よりも好きな魔物だ……」

次第に疲労と苦痛が旅人の老躯を襲う。
既に起き上がることも適わなくなった旅人は、失いつつある意識の中で、地面に落とした袋から流れ出る思念のかけらを朦朧として感じ取ったような気がした。

ソノ通リ………

闇が迫っていた。



          → 第二章・兆候 18 へ

見知らぬ人影がサフィラの目の前に佇んでいた。
灰色の闇の中、その人は目の覚めるような白銀の帷子を全身に纏い、光を通さぬ薄闇の中で自ずと眩く輝きを放っていた。腰に下げた長剣の柄が帷子に触れて金属質の音を立てる。

春の陽射しを映したようなプラチナ・ブロンドに縁取られた顔は気高き女騎士のそれであったが、その比類無き美しさは人間が持ち得る物では決してなく、見る者に鮮烈な印象を与えた。それは凄絶な美貌だった。

女騎士は、人知れぬ森の奥に潜む沼のような深い緑の瞳でじっとサフィラを見た。
厳しい表情と突き刺すような視線がサフィラの心を掻き乱す。

貴女は誰だ?
口に出すよりも早く、サフィラは心の中から問いかけた。
人間か、或は人間ならぬもの、今はすでに絶えた妖精の類いか。

魔物には見えぬ。
魔物にしては瞳が真摯で厳格である。そう、例えて言うなら上つ代の伝説に現れる女神のような。

サフィラの問いが届かなかったのか、それとも聞こえはしたが故意に無視しているのか、女騎士はひたすら矢のような視線をサフィラに注ぎ、やがて、ついと目を逸らした。そして銀に輝くマントを翻してサフィラに背を向けたかと思うと、見る見る内に姿が薄れ、遂には空気に溶け込みでもしたかのように消えてしまった。

サフィラは驚きはしなかった。
この灰色の世界の中では全てが幻のように感じられ、人が忽然と姿を消すことも何ら不思議なこととは思えなかった。
それよりも、あれは誰だったのか。その思いだけがサフィラの中に残った。
予知にしてはあの輝く女騎士のイメージは余りにも鮮やかだった。

彼方からの呼び声がサフィラの物思いを破る。
さっきからサフィラの名を呼びかけているあの声だ。
サフィラはもう一度目を閉じた。
体がゆうるりと声のする方に流れていくが、声は少しも近くならない。幾重にもサフィラを取り囲む靄のあちら側から研切れ研切れにその声は届く。

 サ…フィラ……サ………フィ…

遠くから、彼方から聞こえる声。

誰の声だろう。一人ではない。幾人もの声がする。
誰だろう。その声の主らを私はよく知っている筈だ。

遠くから、彼方から聞こえるあの声。
遠くから聞こえる……遠く……遠く?

「……違う。近いっ」

サフィラは思わず叫んだ。

途端に耳元で色々な音が交錯した。
紙が重なる音、臘燭が燃える音、陶器が触れ合う音、布が擦れる音、水の滴が落ちる声。

そしてそれに重なるようにして、声が思いがけず近くで聞こえた。

「サフィラ、サフィラっ」

不思議と切迫したようなその声にサフィラはゆっくりと目を開けた。
灰色の闇の代わりにぼんやりとした臘燭の明りが目に映り、サフィラは見慣れた部屋の中で三つの顔が自分を取り巻いているのを見た。
どれも見慣れた顔である。
一つは老女、一つは黒髪の青年、そしてもう一つは穏やかな笑みを浮かべた老人の顔だった。



          → 第二章・兆候 17 へ

先刻マティロウサの家で強引に夢から引き摺り戻されたのに似た感覚がサフィラの頭を襲う。
否、現実に返ったというよりは、他人が見る悪夢の中に無理矢理に吸い込まれでもしたような感覚だった。それはとてつもなく強烈で得体が知れず、しかも狂おしいまでに不愉快なものだった。
まるで呪縛のような力がサフィラの心を麻痺させている。
サフィラはその力に覚えがあった。

老シヴィの瞳を覗き込んだ時に感じたあの光。あの 『魔』 に溢れた鮮烈な輝き。
あの幻にも似た光が発した圧倒的な力と同じものが、今サフィラの魂を苛んでいた。
見覚えのある視感が唐突に心の中に浮かび上がる。禍々しいまでに美しい輝きだった。

あの時、サフィラが目を逸らそうとして出来なかったあの光が、あの時と同じように一点を目指して寄り集まり、あの時よりも明確な形を取った。

ああ、あの水晶だ。
つい先ほど、老シヴィから嗅ぎ取った、不思議な光の塊。

もはや完全な球と化した光は、硬質な殻の内に不可思議な美しい彩りを囲っていた。
それは澄んだ湖に張る氷のようでもあったし、闇夜を切り裂く月光にも似た銀色のようでもあった。
しかしそれは決して健やかな美しさではなく、妖しげで邪悪な、まるで鮮やかな毒花がその猛毒と引き替えに手に入れたような美しさだった。

水晶はサフィラの心を焼き尽くさんばかりに輝いていた。サフィラの意思とは無関係に沸き上がるこの幻覚は、両手で目を塞いでも消えず、振り払うことも能わず、ただサフィラを苦しめる。

この 『魔』 を振り払うのに、浄化の魔道は有効だろうか。
苦しみながらも、サフィラの中にある魔道騎士としての冷静さが己に問いかけた。
その問いに確かな答えを出す間も無く、サフィラは呪文を頭に思い浮かべて掌に神経を集中させた。

体中が麻痺し、自分の腕すらそれと意識するのは困難であったが、掌から指先にかけて力が少しづつ集まってくるのを感じ取り、それが頂点に達するや否や、その力を一気に解放した。
青白い発光がサフィラの全身を包み、激しく輝いた。浄化の冷たき炎である。その中では一切の邪悪は昇華してしまう。心の中に巣食っていたあの水晶のヴィジョンは少しづつ薄れていき、遂には完全に消え去ってしまった。消える間際に嘲笑うかのような輝きをサフィラの胸に残して。

全身から力という力が抜けてしまったような感覚をサフィラは覚えた。
旧い魔道書を燃やした後にできる灰の色にも似た薄暗い靄がサフィラの回りを覆い、自分がどこにいるのか分からなかった。

ふと、サフィラは自分の名を呼ばれたような気がして聴覚を研ぎ澄ませた。
声は遥か遠くから聞こえてきた。
サフィラは目を閉じた。体がゆっくりと空気の流れに乗っているのをサフィラは感じた。
声はまだ遠い。
灰色の幕の向こうから幾度も幾度も響いてくる。静寂の果てから聞こえてくるような声。

 ……フィ…ラ………サフィ……フィ……ラ……

誰の声だろう。聞き覚えがあるような、ないような。

ふと靄の中に人の気配を感じ、サフィラは目を開けた。



          → 第二章・兆候 16 へ

羊皮紙の表面にはサリナスが施した魔道の跡もまだ新しく、それと混じり合ってそこに書き記されている古の文字が漂わせる創世の魔法の息吹が勢いよくサフィラの瞳を弾いた。

「む」

サフィラは唸った。

まるでたった今かけられたばかりの呪文のように、それは鮮烈で劇的だった。
常人の目には映らぬ古の魔法の膜が幾重にも文字の上に織り込まれ、本来ある形を変えているのがサフィラには見えた。
成程、これではサリナスの不精進ばかりを責めることは出来ないだろう。サフィラでさえ一瞥にして解釈するのは不可能なくらいに入り組んだ詩なのだから。

「ふう」 やがて羊皮紙からゆっくり目を離すと、サフィラは疲れたように溜息をついた。
「何て詩だ。まるで着膨れし過ぎた冬場の父上みたいだな。纏う魔法が多すぎる」

「どういう例えだ」

「で? お前の解いた数行というのを聞かせてくれ。何が書かれているんだ?」

「楽をして意味だけ知ろうというのか? ずるいぞ」

「まあまあ、続きはいつか私が解き明かしてやるから。で、やっぱりマティロウサの言っていたような詩なのか?伝説でもあり、予言でもあるという」

「だから、まだそこまで読んでいないと言ってるだろうが」サリナスは悔しそうな表情を見せた。「ただ、最初の四行で一連となっているんだが、そこまで見た限りではどうも伝説のように思える」

サリナスは床の上に羊皮紙を丁寧に広げ、優しげな細い指をその面に走らせた。文字に指が触れる度に、微かな魔道の輝きが小さく火花を散らす。

「他に多くある古の詩がそうであるように、この詩も第一行は 『その上(かみ)』 より始まっている。『その上』……その昔、今は既に遠くなりし幾星霜の昔を甦らせる言葉。上つ代の英雄達を称える頌歌にもよく謳われる始まりだな」

「ではこの詩にも英雄達が?」

「英雄かどうかは分からぬが、人の名らしきものは登場する」

「古に生命を受けし者、か」

いつの間にかサフィラは視線を宙に漂わせ、夢の中を彷徨うような表情を浮かべてサリナスの話に耳を寄せていた。

遥か遠くに過ぎ去りし日に思いを馳せる時、常にサフィラの胸中にはある種の憧憬が沸き上がる。
今とは比べるべきもない魔力の宝庫であった太古の日々、人智による 『魔道』 ではなく生粋の 『魔法』 が息づいていた頃、大地はどんな歌を奏でていたのだろうか。
木々はどんな言葉を囁き、風はどんな思いを運び、水はどんな魔法を生み出していたのだろうか。

時を操ることが許されているものならば、サフィラは直ぐにでも歴史を遡り、時間を戻して、上つ代までも駆け登って在りし日の密度の濃い大気を両の腕一杯に抱き寄せたことであろう。
そして、その奏でる創始の力を自らの四肢で感じ取ったことであろう。
しかし時間に関する一切の魔道や魔法は、たとえ魔法使いといえども禁忌である。サフィラの憧れは憧れのまま終わるしかない運命にあり、それ故にサフィラは在りし日の詩の中で夢を見るのだ。

今、一つの夢をサフィラは体感しようとしていた。
サリナスがその夢を覚まさぬように低い声で件の詩の始まりを口ずさむ。それに合わせて紙面の上で文字が微かに揺らめいた。

   その上 ナ・ジラーグという在りて

サリナスの涼やかな声がサフィラの耳を打つ。
かの日々の風もこの様な音色をかき鳴らしていたのだろうか。
現実と幻がサフィラの瞳に錯綜する。
それは耳に谺する太古の言葉が具象化したサフィラの憧心だったのかも知れない。
サフィラは何時の間にか目を閉じてその幻覚に静かに身を委ねていた。

   その上 ナ・ジラーグという在りて
   かの呪われし地ダルヴァミルにとどまり
   奇しく織り成す数多の彩を縒り集めて
   七と一つの水晶を造れり……

突然。
そう、突然、何かがサフィラの心を掻き乱し、サフィラはびくりと体を震わせた。



          → 第二章・兆候 15 へ

そのしばらく後。

倒れた拍子に擦り剥いたところに一枚の薬草を当てながら、サフィラが面白くなさそうに言った。

「……お前と一緒にいると、私の中から王族の一員としての威厳が少しずつ失われていくような気がしてならないんだが」

サリナスが奥の部屋から小さな壺を持って現れ、自分も擦り傷を負った額に薬を当てて、サフィラの言葉に反論した。

「俺のせいにするなよ。大体、王族の威厳なんてお前が一番嫌がってた代物じゃないか。今更何だ。婚礼間近で王女としての自覚が芽生えでもしたか」

「その話はするなと言っているだろう。他人事だと思って。まったく、お前といい、マティロウサといい、人の不幸を楽しみたがる質の人間が私の回りには多すぎる」

「ほら、薬草の上からこれを塗って……なんだ、マティロウサの所に行って来たのか?」

サリナスが壺の中身を示しながら尋ねた。

「行って来たも何も……」

ぶつぶつ言いながら、サフィラは薬を塗った。
膝頭に当てた薬草の下で、傷口が少しづつ癒えていくのが分かる。
サリナスの薬にはよく効くという定評があり、それは確からしい。

「マティロウサめ、ここぞとばかりに嫌がらせを言ってくれたよ。『誠におめでとうございます、サフィラ王女』 ときたもんだ」

「まあまあ、マティロウサの憎まれはいつもの事だ」 サリナスが笑った。
「それがあの人の性分なんだからな」

「大した性分だよ、まったく……ああそうだ、クワシアとガネッシャの実をマティロウサに頼まれてた。切らしているんだってさ。余ってたら都合してくれないか」

「ちょうど昨日摘んできたばかりだ。沢山ある。今日は患者ももう来ないだろうし、俺も久し振りにマティロウサの顔を見に行くかな」

サリナスはついと目を先程の古文書にやった。

「そうだ、あの羊皮紙も返さなきゃならんし」

テーブルを壊したあの騒ぎの時、古ぼけた古文書に破れ目の一つも出来なかったのはまさに奇跡と言えるだろう。一緒に置いてあったサリナス所有の魔道書は、見事にバラバラになったが。

サフィラがサリナスの視線を追ってそれに気付く。

「何だ、さっき広げていたのはそれだったのか」

「危うく千々に破れてしまうところだった。そんなことになったら、マティロウサに張り飛ばされるぞ」

「あの力でやられては顔が元に戻らなくなるだろうな。それで、進んだか? どこまで読んだ?」

「ふむ、残念ながらまだ数行だ。えーと」

巻き物を手に取り、気をつけながらそっと広げる。古の魔法の香りが微かに部屋に漂った。

「一、二……四、五行ってところだな、面目無いが」

「たった? 氷魔ともあろう者が」

呆れたような口調でサフィラが言う。
15で魔道騎士になったサフィラは別として、現在ヴェサニール国に於いてまず一番に名を上げられるであろうサリナスが、どんなに難解であろうとはいえ、二ヶ月近くも掛けて古詩の四、五行しか読み取れぬとは。

サフィラは皮肉めいた口調で続けた。

「もっと進んでいるかと思っていたがな。拍子抜けした」

「そう言うな。たとえお前だってそう簡単にいくもんか。読んでみれば分かる。結構手強いぞ」

「ふーん。マティロウサが言っていた通りだな。どれ、見せてみろ」

サフィラは乾いた枯葉色に変色した巻紙をサリナスの横から覗き込んだ。



          → 第二章・兆候 14 へ

プロフィール
HN:
J. MOON
性別:
女性
自己紹介:
本を読んだり、文を書いたり、写真を撮ったり、絵を描いたり、音楽を聴いたり…。いろいろなことをやってみたい今日この頃。
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