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蝶になった夢を見るのは私か それとも 蝶の夢の中にいるのが私なのか 夢はうつつ うつつは夢


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「でも、肝心のサフィラ様はサリナス様のことをただの 『魔道騎士仲間』 としてしか見ていないようよ。色めいた様子なんてまったくないのが見ていて分かるもの」

「それは、サリナス様も同じね。あの方、サフィラ様を弟か何かのようにしか見ていないわ」

それを言うなら 『妹』 でしょ、とトリビアがリヴィールをたしなめる。もっとも、トリビアにしても妹の意見にまったく反対というわけではなかったが。
自らを 「私は女だ」 と断言する割には、サフィラ自身いつもそのことを忘れているように見えるのだ。

「どちらにしてもサフィラ様は王族、サリナス様は一介の魔道騎士。結び合うことはないお二人ではあるけれど、あれだけの方をいつもお側で見ているんだから、サフィラ様もせめてもう少し娘らしいときめきや甘酸っぱい感情っていうものを感じていただければ、と思うんだけど」

「でもねえ、サリナス様も根は真面目な方だから、そういう雰囲気にはならないんじゃない? それにあの方も魔道一筋の、まあ何というか、その、カタブツだし、今のところはサフィラ様と甘い雰囲気になるなんて考えられないんじゃないかしら」

結局その時は、自分達が期待しているような甘やかな思慕の念をサフィラから引き出すことは不可能なのだろう、というところに話は落ち着いた。

しかし今、婚礼を迎えるサフィラを目の前にして、果たしてそのような、ある意味純粋とも言える無菌の状態のままでサフィラが結婚してしまうのは、一人の娘として良いことなのだろうか、仮に良しとしても、その後に複雑な男女の心の機微というものを夫との間に育むことができるのだろうか、という点だけが二人の気がかりではあった。
それでいて、万が一サフィラが誰かと恋に落ちたとして、二人で寄り添って歩いたり愛の言葉を囁いて微笑んだりするサフィラの姿などまったく想像できない、というのも正直な想いであった。


さて、そのサフィラである。
二人の侍女に未来の夫婦生活を心配されていることなど夢にも思わず、サフィラはひそかに描いている誰にも聞かせられない企みを頭の中で繰り返し段取りしていた。

脱出は式の前夜にしよう。そして、そのまま国を出て、しばらくアクウィラにでも身を隠すのだ。
王も后もさぞかし焦るだろう。娘が婚礼を自ら破談にしたことで父王の面目はつぶれ、フィランデとの友好にも影が差すかもしれない。しかし、フィランデの王と父王は若い頃から友人付き合いをしていたというし、さほど深刻な事態にはならないだろう。
10日あるいは20日経った頃には婚礼話もすっかり影を潜めているだろう。
(そう決め付けるところがサフィラの無邪気な、あるいは世間知らずなところであるが。)
そこで、頃合を見てヴェサニールに帰国する。

恐らく父王と后からはこれまでにないほどの叱責を受けるだろうが、大して苦ではない。
サフィラとしては、自分の意志を無視して事を進めようとすれば、いつだって無茶をする覚悟が自分にあることを両親にきっちりと示しておきたいのだ。二人の肝が冷えれば、それで充分なのである。

単純で、ある意味稚拙な計画ではあったが、サフィラ自身は成功を疑わなかった。
ただ、一つだけサフィラの心を曇らせていることがあった。

城を抜け出すことを、サリナスにだけは打ち明けた方がいいだろうか。

自他ともに親友と認めるこの魔道騎士に対しては、どんな隠し事もしたくないというのがサフィラの本音である。実際、今まではどんな事も包み隠さず話してきたし、悩ましい出来事が起こると誰よりも真っ先に相談してきた相手である。サフィラよりも幾分年長のこの青年はそのたびに真面目に考え、サフィラが「成程」と納得できる言葉を返してくれるのだ。
時にはサフィラの口の悪さに苦笑しながら。そして、時には軽い憎まれ口を叩きながら。

だが。
今度ばかりは、恐らくサリナスも反対するに違いない。
基本的に分別らしく良識的なサリナスの性格はたいていの場合美徳とされるが、サフィラの我儘な計画を受け入れてくれるほど寛容ではない筈だ。

サフィラは小さくため息をついて寝台に寝転がった。お疲れですのね、と声をかけたリヴィールに曖昧な返事を返し、窓から差し込む陽の光に視線を向ける。そのやわらかさは既に一日の夕刻に差し掛かっていることを告げた。

一応、言うだけ言ってみるか。反対されるとは限らない。

そう思ってみたものの、それがただの気休めであることはサフィラも充分承知であった。


          → 第三章・悪巧み 5へ

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「ところで」 サフィラは話を変えた。
「フィランデからの使者は式までヴェサニールに滞在するのか?」

「そう聞いておりますわ」と、トリビアが答えた。
「タウケーン王子の先触れとしてのお役目ですから、このまま王子をお迎えになるということです」

「ふうん。ご苦労なことだな」

「お使者様といえば、素敵な方でしたわねえ。整った甘いお顔立ちで」
リヴィールがうっとりとした表情を見せる。
「中性的なサフィラ様とはまた違った魅力を感じましたわ」

「あら、それは私も思ってよ、リヴィール」負けじとトリビアが言い返す。
「お背も高くてすらりとした体格で……城の女性は皆見とれていましたわよ。タウケーン王子もたいそう美男子と聞いておりますし、フィランデにはそういう方が多いんでしょうか」

「そんな男前だったか? にやにやして軽そうなヤツに見えたが」

「まあ、サフィラ様ったら、あんなに間近でお顔をごらんになったのに、何ともお思いになりませんでしたの?」

「丸暗記した台詞を口にするのが精一杯で、まったくお思いにならなかったぞ」

サフィラの答えに、意味ありげに顔を見合わせた双子が、ふう、とため息をつく。

未成熟な体格と同様に、精神面においてもまた、サフィラは同じ年頃の娘達に比べてかなり歩調が遅かった。15といえば、そろそろ異性への興味に目覚めてもいい頃合なのに、サフィラの関心はひたすら剣術と魔道に注がれるのみで、それ以外に向けられる対象がないというのも二人の侍女にとっては何とも歯がゆい状態であった。

もっとも、これについてはサフィラの性分うんぬんだけを責めるわけにはいかない。
王族というやんごとない立場にある以上、気安く男性と接する機会がないのは仕方がない話だ。しかし、城内にも年頃の男性は多くいる。容姿の良し悪しは別として。
それらの者に、もう少し世俗的な関心を抱いても、それは自然なことではないのか、というのが二人の思いである。

やんごとない身分といいつつ、その割には、しょっちゅう城を抜け出して街へ降りているサフィラだが、それでも今のところサフィラにもっとも近しい異性といえば、同じ魔道騎士の友人であるサリナスぐらいしか見当たらない。

では、サリナスはどうだろうか。

いつだったか、トリビアとリヴィールはサフィラの留守に繕い物をしながら、自分達の女主人の唯一親しい若き魔道騎士について、憶測の波を広げたことがあった。

「サリナス様は街でも評判の方よ。艶やかな黒髪に端正なお顔立ち。それに、あの青い瞳。あの方に焦がれている娘達がどれだけいるか」

「そうよねえ」妹の言葉に、トリビアは針を持つ手を止めた。
「ご気性も穏やかだし、お優しいし。そういえばリヴィール、あなたもサリナス様のことを少しは気にかけていたんじゃなくて?」

「それはお姉様も同じでしょ」リーヴィアが言い返す。

どうやらこの双子の姉妹もサリナスを憎からず思っている娘達の中に含まれているらしい。


          → 第三章・悪巧み 4 へ

サフィラが自室に戻るなり、双子の侍女姉妹はため息をついて若い主を出迎えた。

「ほんっとうにお美しいですわ、サフィラ様。
昔語りに登場する星の精霊みたいに輝かしくて」と、リヴィール。

「いえ、それよりも雲の合間から顔を覗かせた月のような」と、トリビア。

「どちらにしても」 二人は声を合わせた。「お美しいですわ」

「お召しを手伝った私達も甲斐があったというものですわ」

「皆様も驚いていらしたわね。サフィラ様が余りにいつもと違うお姿だったものだから」

「クェイト様、泣いてらっしゃいましたわ。
よほどサフィラ様の男のような立ち居振る舞いがご心痛でしたのね」

「あら、でもいつもは凛々しい少年のように見えるサフィラ様ですけれど、ほら今は、その凛々しさがかえって高貴な雰囲気を醸し出して。まさに 『王女』 ですわね」

「もともとサフィラ様はお顔立ちがよろしいから、このようなドレス姿でも見栄えがしますのね。うらやましいですわ、男装も女装もお似合いで」

「女装って何だ。いちおう女だ、私は」 

部屋に入ると同時に結い上げた髪をほどき、いつもは決して身に付けないような華やかな装身具を剥ぎ取っていたサフィラは気分を害したようにつぶやいた。

「それよりも、これ何とかしてくれ」 と、手の届かない背後の留め金を指差す。

「あらあ、もうお脱ぎになりますの? お似合いですのに」

「こんなもの着てくつろげるか。早く早く」

急かすサフィラに、せっかく着たのにもったいない、と口を尖らせながらもトリビアが背後に回る。リヴィールはサフィラが床に放り投げた首飾りや手袋を、こちらもぶつぶつ言いながら拾い上げた。

「でも、どうせならお化粧もしていただければよかったんですけど。まあ、サフィラ様なら肌もお綺麗ですから素顔でも充分ですが」

「あれだけは絶対に嫌だ。あんな甘ったるい匂いのするものなんか、顔に塗りたくれるか。お前達、あんなものつけてよく平気だな」

「あら、化粧は女性の身だしなみですわよ。ドレスを着たんですから、当たり前ですわ」

「嫌だ。鼻が利かなくなる。薬草が嗅ぎ分けられないだろ」

「サフィラ様、この期に及んで、まだ魔道に関わるおつもりですの?」 呆れたようにトリビアが尋ねた。
「結婚なさったら、今まで通りには参りませんわよ。タウケーン王子だって、お認めになるかどうか」

「知るか。こんな嫁が嫌なら離縁だ。もらった銀星玉なんか付き返してやる」

「ああ、あの銀星玉!」 リヴィールが手を止めて、しばし夢見るような表情をした。
「あれは、本当に素晴らしい輝きでしたわね。サフィラ様、もう一度よく見せていただけませんこと?」

「ああ、これね。ほら」

サフィラは手にしていた小箱を無造作にリヴィールに向かって投げた。何てことをっ、と青ざめながら何とかそれを受け止めたリヴィールは、非難するような視線をサフィラに投げつつ、手にした小箱の蓋をそっと開けて中の銀星玉に魅入っている。

「……美しいですわねえ。箱の装飾も洗練されていて。こんな高価なものを身に付けることができるなんて、女性の憧れですわね」

「まあ、綺麗は綺麗だな。嫌いじゃない。だが、それだけだ」

リヴィールの感激にも、サフィラの共感は得られなかったようである。

ようやくドレスの呪縛から逃れたサフィラは、いつものように簡素な服装を身に付けると、ようやく落ち着きを見せた。

「やっぱりこれが一番ラクだな。何より動きやすい」

満足げなサフィラに反して、双子姉妹は心底残念そうな素振りを見せる。

「綺麗なお召し物ですのに……でも、どうせ式までは踊り方やら歩き方やら、まだまだお習いになるんだから、普段から着慣れておいたほうがよろしいのでは?」

「やめてくれ。考えただけでウンザリする」
と答えるサフィラの胸中を、もちろん侍女達は気づいていない。

サフィラの頭の中では式までの四日の間にどうやって城を抜け出すか、という企みの芽が少しずつ膨らんでいる。
この二人の侍女は城の人間の中でも特に大仰で騒がしい。絶対に知られてはいけない。


          → 第三章・悪巧み 3 へ

「……では、婚礼の縁を結ぶ証しとして、ここにタウケーン王子よりサフィラ様への贈物を預かって参りました。何とぞお受け下さいますよう……」

口上の言葉と共にフィランデの使者がサフィラへと恭しく差し出した、美しい装飾を施した小箱の中身が人々の目にさらされるや否や、周囲より感嘆のどよめきが幾重にも沸き上がった。

サフィラ自身、これ程見事な銀星玉をかつて見たことがなかった。華奢な銀細工からなる首飾りとイヤリングに、眩い白銀の光を放つ大粒の宝石が三粒しつらえられている。
サフィラにとってはもともと嬉しい筈もない贈物ではあったが、何とも品の良い細工は悔しい程にサフィラの趣味に合っていた。

喜んで受け取る積もりはさらさら無いけれども、貰えるものは取り敢えず貰っておけばいい。
サフィラは考えた。いずれ役に立つかもしれない。

「ご厚情いたみいります。このように見事な宝物はついぞ目にしたことがございません。有り難くお受け致しますと共に、タウケーン王子の広きお心に感謝の念をお返し致します。御使者殿にも重畳に」

歯が浮くとはこういう文句のことを言うのだろうか、などと密かに胸の内で自分が今言った言葉に半ば呆れながら、サフィラは目の前に跪く使者へ儀式用の微笑を向けた。

何しろ簡略な婚約の儀とはいえ、両脇には緊張顔の父王と母后が、今にもサフィラが『結婚やーめた』と言い出すのではないかと気をもんでいる。取り敢えずは無難にこなしておいた方が後々の為には得策だろう。

サフィラの言葉に使者は更に深く頭を下げて、これもまた何処かで聞いたようなお決まりの台詞を口にする。

「勿体なき御言葉、一介の家臣の身には余る光栄でございます。位低き者ではございますが、この度の御婚礼に改めて御祝いの心を添えさせて頂きたいと思います」

「有り難く受け取りましょう。この度のお役目、本当に御苦労でした。後はこの城で心行くまで旅の疲れを癒されるよう計らいましょう。我がヴェサニールの貴賓として貴方を歓迎致します」

「温かいお心遣い、ただただ感謝致しますのみでございます」

「誰か、御使者殿をお部屋に案内を」

サフィラと使者の化かし合いにも似たやりとりが終わると二人の侍女が進み出て一礼し、一人は使者の先に、もう一人は後に続いて 『王の間』 の出口に向かおうとした。
使者は丁寧すぎる程の礼を三度、王と王妃に、そして取り分け気を配った仕種でサフィラに腰を屈めると、ゆっくりとした足取りで 『王の間』 を後にした。

それにしても、いちいち動作振る舞いが大仰な使者だった。
サフィラは一息付いて首を回しながらぼんやりと思った。
慇懃なまでの礼儀と軽薄な物腰。
話によると王子直属の家臣らしい。
まだ見ぬ婚約者であるタウケーン王子の人柄は、サフィラの耳にも色々な噂として届いていた。半分はどうでもいい噂、そして残り半分は余り芳しくない噂である。
主人が軽いと仕える人間もそうなんだろうか。

サフィラの物思いはいざ知らず、王はその場に控える臣家の者達に、限り無き満足の笑みを向けて玉座を立ち上がった。

「皆の者、御苦労であった。正式な婚約の儀も無事終えた。後は式の準備を滞りなく整えることじゃ。あと四日。不備な点は残っておらぬか、今一度確かめよ。我が娘の晴れの舞台じゃ。粗相があってはならぬぞ」

「心得ております」

額に 『忠義一筋』 という文字を額に記した老侍従のクェイトが畏まる。

「我ら一同、サフィラ様の為ならば命をもなげうつ覚悟でございます」

「そうまでしてもらわないと結婚も出来んのか、私は」 憮然としながらサフィラが呟く。

その呟きすら耳に入らぬ上機嫌で、王は皆に退出を告げた。それぞれに一礼して 『王の間』 を去る家臣を見送り、最後の一人に続いて王妃が退出し、後に残されたのは王とサフィラのみになった。
やにわに王はサフィラに近付いた。その顔は紅潮して笑み崩れている。

「サフィラよ、今日こそお前が本当に結婚するのを承諾してくれたのだと骨身にしみたぞ」

「父上、『骨身にしみる』 というのは、たいていの場合、非常に懲りた時に使う言葉では」

「いや、実を言うと、今までのところ、いつお前が思い余って城を瓦礫の山に変えてしまわぬかと、それはもう心配で心配で、使者殿の言葉も初めのうちは耳に入っておらなんだわ」

「父上、これから花嫁になろうとする娘にかける言葉ではないような気がします」

「それにしてもお前、ドレスを着ると見違えたぞ。これがあの男にしか見えなかったサフィラかと思うと、まあ化けたというか何というか、本当に女だったとは」

「父上、その言葉は娘相手だとしても失礼です」

「とにかく、これで何の憂い事もなくなった。思い残す事はない。うんうん。後はお前が立派に巣立って行くのを見届けるだけじゃ。ああ、思えば后と二人、この日が来るのをどんなに待ち望んだことか。大切な一人娘が日がな一日魔道に明け暮れ、怪しげな書を読み漁り……」

「あ、わたくし、この後、踊りの稽古があるのを忘れていました。では……」

黙って聞いていれば延々続きそうな父王の繰言を後ろ髪で聞き流し、サフィラはそそくさと王の間を退出した。
家臣が辺りにいないことをいいことに、着ているドレスの裾にもかまわず大股で自分の部屋へと急ぎながら、サフィラはこの一月足らずの間に自らに課せられた涙ぐましいまでの忍耐と努力について思いをはせていた。

今、身に付けているようなヒラヒラしたドレスも、半月前まではついぞ着慣れなかったが、今では漸く裾を踏まずに淑やかに歩けるようになった。大国の都で流行中とやらの最新の踊りのステップも、練習相手の若い家臣の足を何度か踏み倒した後にようやく覚えた。言葉遣い、立ち居振る舞い、肌と髪の手入れ、不作法にならない会話の数々、食事の作法、爪の磨き方、エトセトラ、エトセトラ……。
一体、何度 『いい加減にしてくれっ』 と叫びたいのを堪えたことだろう。
自分を褒めてやりたいくらいだった。

世の中の王女に生まれ付いた人間は全て、こんな面倒な生活を淡々とこなしているんだろうか。サフィラは知らずため息をついた。

だが、いよいよだ。
やけに物分かりが良い優秀な王女を演じる期限切れは、もうすぐそこまできている。あと四日。

サフィラは一つの企みを心の内に抱いていた。だが、それを決して人には悟られないように、あくまで平静を装い、両親、家臣の油断を招くまでに大人しく振る舞っていた。


          → 第三章・悪巧み 2 へ

老シヴィは、消えた時と同じくらい急にこの部屋に姿を現した。そして、一人ではなかった。
魔法使いの足元に一人の老人が身を横たえていた。
その顔を見た時、サフィラは先程から感じていた曖昧な不安がほんの一瞬、錐のように鋭い光を放って頭の中を通り抜けたのを感じ取り、瞬時に正気に返った。

明らかに狂気の宿った双眸。
絶望にも似た感情がその老人の容貌に纏わり付き、絶え絶えの呼吸は、もはや死が老人を見舞ってそこまで来ていることを意味していた。
サフィラの視線は老人の顔から、そのまま無意識のうちに老人の側に転がる薄汚れた麻袋へと落ちた。なぜか妙にその麻袋が、その中身が気になった。

「これは、もう…」
老人の腕を取って体を調べていたサリナスがマティロウサと老シヴィを見返って言った。
「普通じゃない衰弱ぶりだ。後二日も保つかどうか」

「無理もない。選ばれた者にすら重き定めの品。ましてただの人間が手にすれば………」

「品?」 サリナスは辺りに目をやり、麻袋に気付いた。
「これのことか?」と手を伸ばしかける。

「触っちゃだめだっ」

突然サフィラが叫んだ。反射的にサリナスの手が退かれる。
サフィラは皆の視線を受けてはっとし、少し赤くなると前よりも落ち着いた声で言った。

「触れてはいけないような気がした。いや、触れたくないんだ。……何を言ってるんだろう、私は……」

老シヴィとマティロウサは微かに目を合わせ、またそらした。
マティロウサはサフィラの肩に腕を回して二、三度軽く揺すった。

「お前はもう少し休んでおいで。まだ調子が本当じゃないんだからね」

そして、サリナスの方へ体を向けると、

「さあ、氷魔、このお人を寝台へ運んでおくれ。そっとだよ。あたしは薬を合わせるから。シヴィ、あんたも来とくれよ」

「うむ」

老シヴィが老人の麻袋をすっと手にしてマティロウサの跡に続いた。
サフィラは気付いたが、何も言わなかった。

老いた旅人は死んだように目を閉じ、寝台に横たわっている。
『魔』に取り憑かれた哀れな男の最後の平安がそこにあった。



(第二章・完)



          → 第三章・悪巧み 1 へ

突然、老シヴィがすっと音もなく立ち上がり、眼差しを宙に向けた。
その目にはこれまでの穏やかな表情とは打って変わった真摯の相がまざまざと浮き立ち、それが見る者に厳格なまでの畏怖の念を与える。
部屋中がこの魔法使いの一挙一動に緊張した。

老シヴィは探るような視線で部屋を、部屋の壁を、そしてその向こうにある何かを見透かすように佇み、身動ぎもせずに言葉を発した。

「……時、満てり」

その声は、長年の友であるマティロウサですら聞いたことがないような厳しい調子を含んでいた。

「時、満てり。
かの古の時代より悠久の時を経て、今ここに伝説はその不可視の扉を破りて現実となる。
約束事の期は満ち、目覚めるは、かの魔道の者とその生み出せし七と一つの奇しき水晶。
水晶が古の騎士を呼び、騎士が水晶の後を追う。
目覚め。大いなる七と一人の騎士達の目覚め。
この者達の心にかないし勇士達、伝説を担いて上つ代の幻を破らん。今、まさにその時なり……」

老シヴィは言葉を切った。

誰も物音一つ立てなかった。
身動きすら出来なかった。
小柄な老魔法使いの口から出た言葉は呪縛のように皆の体と心を絡め取った。

静寂の中でどこからか押し寄せてくる不安の念を、サフィラは密かに感じ取っていた。
老シヴィが紡ぎ出す詩の言霊が、サフィラの四肢にからみつき、浸透してくる。それは、つい先ほど感じた灰色の闇の空気に似ていた。

サフィラの意識の中に先ほど見覚えたイメージが浮かび上がった。
灰色の闇にたたずむ、春の陽射しの髪と厳しい眼を持つあの麗人。
かの白銀の鎧を纏った女騎士の姿。
騎士は相変わらずサフィラを叱るような目付きで見た。
沼にも氷が張ることがあるのだろうか。もし在るとすればそれは今の騎士の眼差しにも似た輝きを放っているのに違いない。その深い視線に貫かれながらサフィラはぼんやりと思った。

女騎士の唇が微かに動く。そこから発せられる筈の言葉は直接サフィラの頭の内に響いてきた。

『……水晶が騎士を呼ぶ 心せよ そは汝に近し』

「心……せよ」 知らずサフィラがその言葉を口に出す。

老シヴィは振り返ってサフィラを見た。マティロウサとサリナスが顔を見合わせた。

「またサフィラが変に……」

「しっ」 老シヴィが二人を黙らせる。

サフィラは遠い目をして、すっと片腕を上げ西側の壁を指差した。

「心せよ……そは…汝に近…し………」

「……森じゃ!」

突然老シヴィが大声で叫んだ。
その声でサフィラの意識が強引に引き戻されたらしく、びくりと体を震わせた。

「水晶は騎士を呼び、騎士は水晶を求める。水晶は近い!」

シヴィの目は今やサフィラを見てはいなかった。この場にいる誰の姿も目には入っていなかった。
老魔女の暗い部屋の壁を、いや、壁を越えてより遠くの何かを見ていた。
他の者には見えない何かを。

「森じゃ。ここから西に茂る森の抜け口に男がおるのが見える。その者は『運び手』じゃ。早う救わねば命の火が失われてしまう!」

言うが早いか老シヴィは早口で何事か呪文を唱え始め、途端にこの老いた魔法使いの姿は煙のように空に消えた。

「老シヴィっ。一体……」

「翔んだんだよ」

サリナスの叫びにマティロウサは事も無げに答えた。
しかし、この老魔女ですら老シヴィの唐突さに舌打ちした。

「西の森というと、彼方森か。男? 一体何がなんだか……ええい、あたしにあの老いぼれ程の力があれば……」

悔しそうに老魔女はつぶやいた。サリナスに至っては、何が起こったのかも分からずに、ただ驚きの表情を隠せずにいるだけだった。

サフィラは相変わらず遠くを見る目で呆然として動かない。



          → 第二章・兆候 20 へ

プロフィール
HN:
J. MOON
性別:
女性
自己紹介:
本を読んだり、文を書いたり、写真を撮ったり、絵を描いたり、音楽を聴いたり…。いろいろなことをやってみたい今日この頃。
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