突然、老シヴィがすっと音もなく立ち上がり、眼差しを宙に向けた。
その目にはこれまでの穏やかな表情とは打って変わった真摯の相がまざまざと浮き立ち、それが見る者に厳格なまでの畏怖の念を与える。
部屋中がこの魔法使いの一挙一動に緊張した。
老シヴィは探るような視線で部屋を、部屋の壁を、そしてその向こうにある何かを見透かすように佇み、身動ぎもせずに言葉を発した。
「……時、満てり」
その声は、長年の友であるマティロウサですら聞いたことがないような厳しい調子を含んでいた。
「時、満てり。
かの古の時代より悠久の時を経て、今ここに伝説はその不可視の扉を破りて現実となる。
約束事の期は満ち、目覚めるは、かの魔道の者とその生み出せし七と一つの奇しき水晶。
水晶が古の騎士を呼び、騎士が水晶の後を追う。
目覚め。大いなる七と一人の騎士達の目覚め。
この者達の心にかないし勇士達、伝説を担いて上つ代の幻を破らん。今、まさにその時なり……」
老シヴィは言葉を切った。
誰も物音一つ立てなかった。
身動きすら出来なかった。
小柄な老魔法使いの口から出た言葉は呪縛のように皆の体と心を絡め取った。
静寂の中でどこからか押し寄せてくる不安の念を、サフィラは密かに感じ取っていた。
老シヴィが紡ぎ出す詩の言霊が、サフィラの四肢にからみつき、浸透してくる。それは、つい先ほど感じた灰色の闇の空気に似ていた。
サフィラの意識の中に先ほど見覚えたイメージが浮かび上がった。
灰色の闇にたたずむ、春の陽射しの髪と厳しい眼を持つあの麗人。
かの白銀の鎧を纏った女騎士の姿。
騎士は相変わらずサフィラを叱るような目付きで見た。
沼にも氷が張ることがあるのだろうか。もし在るとすればそれは今の騎士の眼差しにも似た輝きを放っているのに違いない。その深い視線に貫かれながらサフィラはぼんやりと思った。
女騎士の唇が微かに動く。そこから発せられる筈の言葉は直接サフィラの頭の内に響いてきた。
『……水晶が騎士を呼ぶ 心せよ そは汝に近し』
「心……せよ」 知らずサフィラがその言葉を口に出す。
老シヴィは振り返ってサフィラを見た。マティロウサとサリナスが顔を見合わせた。
「またサフィラが変に……」
「しっ」 老シヴィが二人を黙らせる。
サフィラは遠い目をして、すっと片腕を上げ西側の壁を指差した。
「心せよ……そは…汝に近…し………」
「……森じゃ!」
突然老シヴィが大声で叫んだ。
その声でサフィラの意識が強引に引き戻されたらしく、びくりと体を震わせた。
「水晶は騎士を呼び、騎士は水晶を求める。水晶は近い!」
シヴィの目は今やサフィラを見てはいなかった。この場にいる誰の姿も目には入っていなかった。
老魔女の暗い部屋の壁を、いや、壁を越えてより遠くの何かを見ていた。
他の者には見えない何かを。
「森じゃ。ここから西に茂る森の抜け口に男がおるのが見える。その者は『運び手』じゃ。早う救わねば命の火が失われてしまう!」
言うが早いか老シヴィは早口で何事か呪文を唱え始め、途端にこの老いた魔法使いの姿は煙のように空に消えた。
「老シヴィっ。一体……」
「翔んだんだよ」
サリナスの叫びにマティロウサは事も無げに答えた。
しかし、この老魔女ですら老シヴィの唐突さに舌打ちした。
「西の森というと、彼方森か。男? 一体何がなんだか……ええい、あたしにあの老いぼれ程の力があれば……」
悔しそうに老魔女はつぶやいた。サリナスに至っては、何が起こったのかも分からずに、ただ驚きの表情を隠せずにいるだけだった。
サフィラは相変わらず遠くを見る目で呆然として動かない。
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