先刻マティロウサの家で強引に夢から引き摺り戻されたのに似た感覚がサフィラの頭を襲う。
否、現実に返ったというよりは、他人が見る悪夢の中に無理矢理に吸い込まれでもしたような感覚だった。それはとてつもなく強烈で得体が知れず、しかも狂おしいまでに不愉快なものだった。
まるで呪縛のような力がサフィラの心を麻痺させている。
サフィラはその力に覚えがあった。
老シヴィの瞳を覗き込んだ時に感じたあの光。あの 『魔』 に溢れた鮮烈な輝き。
あの幻にも似た光が発した圧倒的な力と同じものが、今サフィラの魂を苛んでいた。
見覚えのある視感が唐突に心の中に浮かび上がる。禍々しいまでに美しい輝きだった。
あの時、サフィラが目を逸らそうとして出来なかったあの光が、あの時と同じように一点を目指して寄り集まり、あの時よりも明確な形を取った。
ああ、あの水晶だ。
つい先ほど、老シヴィから嗅ぎ取った、不思議な光の塊。
もはや完全な球と化した光は、硬質な殻の内に不可思議な美しい彩りを囲っていた。
それは澄んだ湖に張る氷のようでもあったし、闇夜を切り裂く月光にも似た銀色のようでもあった。
しかしそれは決して健やかな美しさではなく、妖しげで邪悪な、まるで鮮やかな毒花がその猛毒と引き替えに手に入れたような美しさだった。
水晶はサフィラの心を焼き尽くさんばかりに輝いていた。サフィラの意思とは無関係に沸き上がるこの幻覚は、両手で目を塞いでも消えず、振り払うことも能わず、ただサフィラを苦しめる。
この 『魔』 を振り払うのに、浄化の魔道は有効だろうか。
苦しみながらも、サフィラの中にある魔道騎士としての冷静さが己に問いかけた。
その問いに確かな答えを出す間も無く、サフィラは呪文を頭に思い浮かべて掌に神経を集中させた。
体中が麻痺し、自分の腕すらそれと意識するのは困難であったが、掌から指先にかけて力が少しづつ集まってくるのを感じ取り、それが頂点に達するや否や、その力を一気に解放した。
青白い発光がサフィラの全身を包み、激しく輝いた。浄化の冷たき炎である。その中では一切の邪悪は昇華してしまう。心の中に巣食っていたあの水晶のヴィジョンは少しづつ薄れていき、遂には完全に消え去ってしまった。消える間際に嘲笑うかのような輝きをサフィラの胸に残して。
全身から力という力が抜けてしまったような感覚をサフィラは覚えた。
旧い魔道書を燃やした後にできる灰の色にも似た薄暗い靄がサフィラの回りを覆い、自分がどこにいるのか分からなかった。
ふと、サフィラは自分の名を呼ばれたような気がして聴覚を研ぎ澄ませた。
声は遥か遠くから聞こえてきた。
サフィラは目を閉じた。体がゆっくりと空気の流れに乗っているのをサフィラは感じた。
声はまだ遠い。
灰色の幕の向こうから幾度も幾度も響いてくる。静寂の果てから聞こえてくるような声。
……フィ…ラ………サフィ……フィ……ラ……
誰の声だろう。聞き覚えがあるような、ないような。
ふと靄の中に人の気配を感じ、サフィラは目を開けた。
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