家の表でサフィラが掛け声と共に馬を駆り、その足音が次第に遠くなっていくのを聞きながら、マティロウサは暫くの間黙っていたが、やがてその大きな体をゆっくりと老シヴィの方に向けると、おもむろに口を切った。
「さあ、一体どういうことなのか教えてもらおうじゃないか」
「何が、じゃの?」
「誤魔化すのは止しとくれよ、シヴィ。あの子があんな尋常じゃない顔付きをするなんて、あたしゃ今まで見たことがないんだからね。あれは確かに怯えた様子だった。帰り際のあんたを見る目といい……。あんた、一体あの子に何をしたのさ」
「さっき古文書がどうとか言うておったが」
「話をそらさないどくれ」
「そらしてなどおらんよ。その古文書とは、もしや先にお前さんと話しておった例の……と思うてな」
マティロウサはシヴィを睨みつけていたが、シヴィの穏やかな目に見つめ返されて、深く長い溜息をついた。
「当たり。あの 『水晶』 の物語の古詩だよ。魔法使いであるあたし達が生まれる前から世に伝わる、創世まもなき頃の伝説だ」 魔女はもう一度溜息をつく。
「思えば、サフィラが来た時にあの巻き物が棚から落ちてきたのも、虫の知らせってやつなのかも知れないね」
「ほっほっ、魔女のお前さんが 『虫の知らせ』 とは。まるで普通の人間のような言い草じゃな。せめて 『予見』 という言葉ぐらい使うて貰いたいものじゃが」
老シヴィが楽しそうに笑ったのを見て、思わずマティロウサがむっとする。
「魔女であろうと、普通の人間であろうと関係ないよ。たとえあたし達が古の魔法使いの祖イェル・ゲティエルくらいの魔力を持っているとしても、あの伝説に関しては無力に近い。発揮できないんだよ。たとえあんたが 『老シヴィ』 であろうと、それは同じ事じゃないのかい? え?」
「分かった、分かった。じゃが、イェル・ゲティエルとは恐れ多い引き合いを出したもんじゃな。ふーむ。しかし、お前さんに物を言うた日には、怒られずに済んだ試しがないような気がするのぅ」
「それはあんたが人の気に食わないことばっかり好んで言う癖があるからだよ」
「自分の短気を人のせいにしちゃぁいかんな」
「いーや、あんたのせいだよ。本来あたしゃ気が長いんだ」
マティロウサがきっぱりと言い切る。サフィラが聞いたら笑い転げたことだろう。
「それより、今はサフィラの話だよ。あんた、本当に何かしたんじゃないんだろうね。大体、さっきの悪い夢ってのは一体何のことなのさ」
「ふむ……サフィラ、か」
それまで楽しげだった老シヴィの様子が、俄かに掻き曇った空のように暗くなる。枯枝の指でゆっくりと白髭をなぞって、何やら物思う様子である。
「わしが谷を出てまずお前さんの所に立ち寄ったのは、自分で気が向いたからそうしたのだと思うておったが……あながち、そうではなかったのかも知れんな」
「どういう意味だい。妙に遠い言い回しは止めとくれ」
「つまり、わしにも 『虫の知らせ』 というやつがあったのかもしれん、ということじゃよ」
「嫌味かい」
「まあ、聞け、マティロウサ」
老シヴィは声を改めて言った。その表情にはもはや笑みは見られず、真摯な瞳と厳しい口調がマティロウサの心を引いた。
「あの娘、サフィラじゃが……わしの心の中に潜んでおる、かの 『水晶』 の影を嗅ぎ出しおった」
「何だって?」 今度こそ、本当に老いた魔女は心底驚いたようだった。
「あんたの心の中を読んだっていうのかい? 魔法使いのあんたの?」
「『読んだ』 と言うのは正しくない。『嗅ぎ取った』 のじゃ。さっきあの娘と目を合わせた時に、その目の中に不可思議な光が宿りつつあるのをわしは見た。直ぐにわしは気づいた。『あれはわしの思念。わしの心の中に巣食う幻をあの娘が見出だして自らの瞳の奥に映しとったもの』 とな」
「そんな……」
マティロウサは驚愕にも近いものを感じていた。
一体誰が、魔法使いが心の奥底に潜めて隠し持っているものを覗き込めるだろうか。幾ら早熟な力を持つ魔道騎士といえども、そんなことある筈がない。あってはならないのだ。
「あの子はただの魔道騎士だよ。どうしてそんなことが出来る? 不可能だよ。しかも、因りにもよって……『水晶』 だなんて」
「普通の人間なら不可能じゃろうて。じゃが」
老魔法使いは微かに眉根を寄せた。その苦しげな容貌が、この老人の胸の内で起こっている葛藤を表わしているようだった。
「じゃが、確かにあの娘は、自らわしの中から 『水晶』 の輝きを呼び起こしおったのじゃ。マティロウサ、これは符牒じゃ。一体この世のどんな人間が、今はもう忘れ去られてしまった伝説の残り火に近寄ることが出来ようか? せいぜいわしら魔道に携わっている者か、あるいは伝説そのものに関わる因果を持つ者か。マティロウサよ、お前さんにとっては考えたくもない事じゃろうが、あの娘は」
「あんた、シヴィ、何を言う気だい?」
マティロウサはもはや怯えてなどいなかった。
全身を微かに震わせて、挑むように老シヴィの瞳を見据えている。
目の前にいる老いた魔法使いが言わんとすることを察したマティロウサは、それでも否定したかった。しかし、どんなに認めたくないことであっても、老シヴィの口から出た言葉なら信じざるを得ない。
「あの娘」 不気味な程冷静に聞こえる老魔法使いの枯れた声がマティロウサの耳に氷を投げた。
「『背負い手』 やも知れぬ」
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