「分かっている。分かっているんだ。皆に悪気がないのはよく分かっている。そうだ。皆は純粋に私の結婚を祝ってくれているだけなんだ。民人に罪はない。よく分かっているんだ。これほどに慕われていることを私は喜ぶべきなんだ。ましてや腹を立てるなんぞ、以ての外だ。分かっている。分かってはいるんだが、しかし」
言葉を切ってサフィラはガタンと椅子から立ち上がり、部屋の中を右往左往し始めた。
「私だって人間だ。腹が立つもんは立つ。しかし、善意に溢れた連中が相手では、ただ耐えるしかない。それが王族たるものの努めだ。ひいては国民に慕われているという誇りでもある。民衆の心を裏切ってはいけないのだ。それにしても、ああ、腹が立つったら……何だ、サリナス」
部屋の壁にもたれて笑いをこらえている青年に向かって、サフィラはきつい目を向けた。
「何がおかしい」
「いや、別に。苦労しているなと思って」
「ふん、お前に分かるもんか」 ふてたように言ってサフィラは再びどっかと椅子に座り込んだ。
「大体、お前の住家がこんな街中にあるから悪い。もう少し人が少ないところに住めばいいものを」
明らかに八つ当たりである。サリナスが呆れたように言った。
「お前の都合で人の住処に文句を言うな。しかし本当に久し振りだな。俺はまた、とっくに結婚してしまったのかと思ってた」
「喧嘩を売るつもりなら喜んで買うぞ」
ゆらりと椅子から立ち上がるサフィラを押し止めて、慌ててサリナスが訂正する。
「冗談だ、冗談」
「気を付けろ。冗談で命を落とすことだってある」
「相当苛立っているようだな、お前」
「そう見えるか? 式を半月後に迎える花嫁の心境ってのは、案外狂暴なものなのかもしれんな」
「いや、それはお前の場合だけだろう」
「やっぱり喧嘩を売られているような気がしてならないんだが」
「気のせいだ。何で俺がお前に喧嘩を売らなきゃならない?」
「……お前、面白がってるだけだな」
「分かるか?」
「サリナス、殴ってやるからここに座れ」
「お、やめ、やめろっ、サフィラ。テーブルが倒れるっ」
「やかましい!」
凄まじい音が小さな家の中に響き渡る。
見事に足が折れ、真っ二つに割れて飛び散ったテーブルの破片と折り重なって、サフィラとサリナスが床に倒れ込んだ。
→ 第二章・兆候 13 へ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マティロウサの住み家からかなり街中に入った所に、一件の小さな家がある。
魔道騎士サリナス・エナキムのねぐらである。
三年前、このヴェサニール公国に腰を落ち着けて以来、サリナスは当時空き家だったその家に住み着いて、ひたすら魔道に勤しんできた。
医師としての勤めも果たす魔道騎士にとって、この国は忙し過ぎるくらいの時間を彼に与えた。
サリナスだけでなく、この国の魔道騎士は皆そうである。魔女マティロウサの力を借りなくてはならないような大きな病、怪我は別として、ちょっとした治療を当てにする時には、街の人間は魔道騎士を訪ねるのが常となっていたからである。
火を扱っていて火傷を負った者、遊びに夢中になって石塀の上から誤って落ちた子供、季節柄の乾いた空気のせいで咳が止まらなくなった者など、患者は様々ではあるが、その数は相当なものであった。多い時で一日に十人よりも未だ沢山の人々が、魔道騎士の家の軒先を訪ねることがあるのだ。
しかし、その日は珍しく来訪者が少なく、サリナスは久し振りに落ち着いた気分で自分の為だけの午後の時間を過ごしていた。
丸い木のテーブルの上には、マティロウサの元から借り受けたあの旧い羊紙皮が広げられており、四隅には重し代わりの黒玉が置かれていた。五十行以上もの古の文字がその枯れ葉色の面を飾っている。それに目をやりながら、サリナスは静かに考え込んでいる様子である。
サフィラが言った通り、サリナスはその古文書の解読にいささか手古摺っていた。
今まで目にしたどんな文字ともそれは違っていた。また、どんな文字にも似ているような気もした。
文字の上に古の魔法が幾重にも掛かっていて、元あった形を全く違うものに変化させている。その魔法を正しい方法で、正しい順に読み解いていかないと、詩の真の意味は得られないのだ。
ましてや、それが五十行以上もある中で、一行ごとに魔法を変えてあるとなれば、捗らないのも無理はない、というものである。
サリナスは、それでも根気よく、半ば楽しみながらその魔法解きに取り組んでいた。未だほんの数行しか読めてはいなかったが。
「『天と土を分かつ』……待てよ、次はどう続くんだ?それとも、これが後の言葉を受けているのか。
だとしたら意味がつながらんぞ。順序を間違えたかな」
やはり余り捗っていないようである。
何やら頻に独り言ちて紙面と分厚い魔道書を見比べては低い声で呪文を唱えている。
ふと、表が少し騒がしくなったのにサリナスは気付いた。
人々の騒がしげな声に混じって、聞き覚えのある澄んだ声がサリナスの耳に届いた。
「おめでとうございます、サフィラ様」
「ご成婚おめでとうございます、サフィラ様」
「……ありがとう、皆」
どうやらサフィラが久方振りに街へ下りて来たらしい。
サリナスは王女を迎えるべく椅子から立ち上がった。
「本当におめでとうございます」
「おめでとうございます、サフィラ様。どうぞお幸せに」
「……いやいや、ありがとう」
晴やかに祝いを述べる民人の声に比べて、それに対するサフィラの返事はいささか元気がないようにサリナスには聞こえた。
まあ、気持ちは分かるが。
サリナスがくすりと笑って入り口のドアを開けると同時に、口を真一文字に結んだサフィラが早足で中へ入ってきた。
→ 第二章・兆候 12 へ
家の表でサフィラが掛け声と共に馬を駆り、その足音が次第に遠くなっていくのを聞きながら、マティロウサは暫くの間黙っていたが、やがてその大きな体をゆっくりと老シヴィの方に向けると、おもむろに口を切った。
「さあ、一体どういうことなのか教えてもらおうじゃないか」
「何が、じゃの?」
「誤魔化すのは止しとくれよ、シヴィ。あの子があんな尋常じゃない顔付きをするなんて、あたしゃ今まで見たことがないんだからね。あれは確かに怯えた様子だった。帰り際のあんたを見る目といい……。あんた、一体あの子に何をしたのさ」
「さっき古文書がどうとか言うておったが」
「話をそらさないどくれ」
「そらしてなどおらんよ。その古文書とは、もしや先にお前さんと話しておった例の……と思うてな」
マティロウサはシヴィを睨みつけていたが、シヴィの穏やかな目に見つめ返されて、深く長い溜息をついた。
「当たり。あの 『水晶』 の物語の古詩だよ。魔法使いであるあたし達が生まれる前から世に伝わる、創世まもなき頃の伝説だ」 魔女はもう一度溜息をつく。
「思えば、サフィラが来た時にあの巻き物が棚から落ちてきたのも、虫の知らせってやつなのかも知れないね」
「ほっほっ、魔女のお前さんが 『虫の知らせ』 とは。まるで普通の人間のような言い草じゃな。せめて 『予見』 という言葉ぐらい使うて貰いたいものじゃが」
老シヴィが楽しそうに笑ったのを見て、思わずマティロウサがむっとする。
「魔女であろうと、普通の人間であろうと関係ないよ。たとえあたし達が古の魔法使いの祖イェル・ゲティエルくらいの魔力を持っているとしても、あの伝説に関しては無力に近い。発揮できないんだよ。たとえあんたが 『老シヴィ』 であろうと、それは同じ事じゃないのかい? え?」
「分かった、分かった。じゃが、イェル・ゲティエルとは恐れ多い引き合いを出したもんじゃな。ふーむ。しかし、お前さんに物を言うた日には、怒られずに済んだ試しがないような気がするのぅ」
「それはあんたが人の気に食わないことばっかり好んで言う癖があるからだよ」
「自分の短気を人のせいにしちゃぁいかんな」
「いーや、あんたのせいだよ。本来あたしゃ気が長いんだ」
マティロウサがきっぱりと言い切る。サフィラが聞いたら笑い転げたことだろう。
「それより、今はサフィラの話だよ。あんた、本当に何かしたんじゃないんだろうね。大体、さっきの悪い夢ってのは一体何のことなのさ」
「ふむ……サフィラ、か」
それまで楽しげだった老シヴィの様子が、俄かに掻き曇った空のように暗くなる。枯枝の指でゆっくりと白髭をなぞって、何やら物思う様子である。
「わしが谷を出てまずお前さんの所に立ち寄ったのは、自分で気が向いたからそうしたのだと思うておったが……あながち、そうではなかったのかも知れんな」
「どういう意味だい。妙に遠い言い回しは止めとくれ」
「つまり、わしにも 『虫の知らせ』 というやつがあったのかもしれん、ということじゃよ」
「嫌味かい」
「まあ、聞け、マティロウサ」
老シヴィは声を改めて言った。その表情にはもはや笑みは見られず、真摯な瞳と厳しい口調がマティロウサの心を引いた。
「あの娘、サフィラじゃが……わしの心の中に潜んでおる、かの 『水晶』 の影を嗅ぎ出しおった」
「何だって?」 今度こそ、本当に老いた魔女は心底驚いたようだった。
「あんたの心の中を読んだっていうのかい? 魔法使いのあんたの?」
「『読んだ』 と言うのは正しくない。『嗅ぎ取った』 のじゃ。さっきあの娘と目を合わせた時に、その目の中に不可思議な光が宿りつつあるのをわしは見た。直ぐにわしは気づいた。『あれはわしの思念。わしの心の中に巣食う幻をあの娘が見出だして自らの瞳の奥に映しとったもの』 とな」
「そんな……」
マティロウサは驚愕にも近いものを感じていた。
一体誰が、魔法使いが心の奥底に潜めて隠し持っているものを覗き込めるだろうか。幾ら早熟な力を持つ魔道騎士といえども、そんなことある筈がない。あってはならないのだ。
「あの子はただの魔道騎士だよ。どうしてそんなことが出来る? 不可能だよ。しかも、因りにもよって……『水晶』 だなんて」
「普通の人間なら不可能じゃろうて。じゃが」
老魔法使いは微かに眉根を寄せた。その苦しげな容貌が、この老人の胸の内で起こっている葛藤を表わしているようだった。
「じゃが、確かにあの娘は、自らわしの中から 『水晶』 の輝きを呼び起こしおったのじゃ。マティロウサ、これは符牒じゃ。一体この世のどんな人間が、今はもう忘れ去られてしまった伝説の残り火に近寄ることが出来ようか? せいぜいわしら魔道に携わっている者か、あるいは伝説そのものに関わる因果を持つ者か。マティロウサよ、お前さんにとっては考えたくもない事じゃろうが、あの娘は」
「あんた、シヴィ、何を言う気だい?」
マティロウサはもはや怯えてなどいなかった。
全身を微かに震わせて、挑むように老シヴィの瞳を見据えている。
目の前にいる老いた魔法使いが言わんとすることを察したマティロウサは、それでも否定したかった。しかし、どんなに認めたくないことであっても、老シヴィの口から出た言葉なら信じざるを得ない。
「あの娘」 不気味な程冷静に聞こえる老魔法使いの枯れた声がマティロウサの耳に氷を投げた。
「『背負い手』 やも知れぬ」
→ 第二章・兆候 11 へ
サフィラは視線をテーブルの上に落とした。
薬草茶の湯気が音もなくサフィラの目の前まで忍び寄ってくる。重く疲れた頭の中で鐘楼の鐘が鳴り響いているような気がした。
「頭が、痛い……」
「どうしたんだい、一体。……シヴィ、何が起こったのさ?」
マティロウサは助けを求めるように老いた魔法使いの方を向いた。常ならぬサフィラの様子に、いつもの口の悪さは鳴りを潜め、さすがの魔女も気遣わしげな色を面に浮かべていた。
老シヴィは何も言わず、すっと立ち上がると手を延ばしてサフィラの青ざめた額に触れた。
柔らかな陽射しにも似た暖かさがサフィラの中に広がり、頭の中に立ち込めていた雲が少しづつ晴れていくような気分をサフィラは味わった。
「……だいぶ良くなった。ありがとう、老シヴィ」
言葉通り顔色が良くなったサフィラは、老シヴィに微笑みかけた。
マティロウサがふっと息を大きくついた。
「やれやれ、癒しの魔法かい。一体何を癒したんだい?」
「なに、大したことはない。悪い夢を見ただけじゃよ、なあ」
「夢?」 サフィラは物問いたげな瞳を老人に向けた。老シヴィは静かにそれを見返す。
「あれは、夢か? 夢なら何を意味する?」
「さあのぅ」
老シヴィは再び腰を下ろしてアサリィ茶を一口啜った。微かに寄せた眉根が老人の悲しげな心情を現していた。
「夢は、夢じゃよ」
「でも」
「夢ってのは何のことだい?」 マティロウサが焦れったそうに口を挟んで、サフィラの言葉を遮った。
「一体どんな夢をご覧だっていうのさ。私の家の中で私に分からない話をしないどくれよ」
老シヴィは途端に元の穏やかで楽しげな表情を取り戻し、アサリィ茶を飲み干すと茶碗をマティロウサの胸元へと突き付けた。
「ほれ、話題から仲間外れにされたもんで、機嫌が悪いと見える。お茶のお代わりを」
「自分でお注ぎ。いい年して何が 『仲間外れ』 だい」
「年の事を言ったら、お前さんだって同じ様な立場にいるじゃろうが」
「言っとくけど、私ゃあんたよりか百年程も若いんだからね」
「魔法使いの身にとっては、百年といってもそう長い時間じゃなかろうが」
「いちいち気に入らないことばかり並べ立てて、この爺さんは。大体ねえ…」
「マティロウサ」
二人の魔法使いの間に不穏な空気が上り始めた時、唐突にサフィラが口を開いた。
「サリナスの所に顔を出してくるよ」
「え? でもお前……」
「マティロウサに会わなかったのと同じくらい会ってない。サリナスが城へ出入りするのを父上が禁止してしまったからね」
「そうか……でも」 心持ち心配そうにマティロウサが尋ねる。
「もう具合は大丈夫なのかい? 顔色はもういいみたいだけど」
「うん、もう良くなった。後でまたサリナスと一緒に寄るよ。そうだ、そういえば、借りていた古文書も返さなきゃね。借りっ放しだったからな」
「ああ……あれのことか」
一瞬、老魔女の表情が強張る。その目がちらりと老シヴィの方へと走ったのをサフィラは気付かず、言葉を続けた。
「大事な書き物なんだろう? あんなに旧いんだから」
「そうだね……そろそろ、あれが要り用な時期かもしれないね。今、サリナスのところに?」
「ああ、サリナスに渡しておいたんだ。あいつ、読めたかな? あの古文書はかなり手強いぞ。解読には手間が掛かるだろうな」
「お前がそう思ってるんじゃ、あの子にとってもたやすいとは言えないだろうさね」
マティロウサは素直に認めた。
はっきりと口に出しこそはしないが、サリナスより七才も年下のサフィラの方が、サリナスよりも能力的に上を占めていることを、この魔女は密かに感じ取っていた。
立ち上がりかけたサフィラを、マティロウサが思い出したように引き止めた。
「ああ、そうだ、サフィラ。サリナスのとこから戻ってくる時に、クワシアの実を少し分けて貰ってきておくれ。丁度、切らしてるんだよ」
「分かった。他に用はない?」
「そうだね、できればガネッシャの干したやつも」
「クワシアとガネッシャね」
どちらも魔道に携わる上では欠かせない植物である。
サフィラは確かめるようにその名を口に出してみて、そして挨拶もそこそこに、それでも何やら物問いたげに老シヴィの方へちらりと目をやったが口には出さず、老人に向かって軽く頭を下げると朱鷺色のマントを翻らせて、マティロウサの住家を後にした。
→ 第二章・兆候 10 へ
突然、サフィラはシヴィの瞳の奥に異様な陽炎が炎を散らして映っているのを見て、眉をひそめた。
それは真昼の日の光のようにも見えたし、数多の星々が流し落とすさやかな輝きのようでもあった。
その不思議な光は、最初は雲のような曖昧な形をしていたが、そのうち一点を中心に徐々に集まり始め、終いには艶やかな球の形を取って更に輝きを増した。
それは恐ろしいまでに美しく、怪しげな彩りを奏でていた。
サフィラは目が離せず、ただその球体に魅せられたように見入っていた。
心の中で何かが不安の信号を発していた。
見てはいけない。あれは善ならぬ物。美しくはあるがあやかしの物。見てはいけない。
心と裏腹にサフィラの目はその球に吸い付けられ、視線を反らすこともままならなかった。
球は次第に光を上げ、眩しいくらいにサフィラの瞳を焼き尽くそうとしている。
その光は、まるで罪人を縛る縄のようにサフィラの体に纏わりついて、解けようともしない。
頭が重くなり、自分の呼吸が上がっているのをサフィラは感じた。
目を離せ。
見てはいけない。
あの光を見てはいけない。
あれは。
あの幻覚にも似た光、あれは。
……水晶?
「ほら、茶碗を回して」
嗄れた声が突然頭の上から降ってきて、サフィラは激しく体を震わせた。
マティロウサが湯気の立ったポットを片手にテーブルの側に立っていた。
サフィラはアサリィ茶の強烈な香りで乱暴に現実に引き戻され、自分がこの魔女の私室の木椅子に相変わらず座ったままでいることに気付くと、小さな声で祈りの言葉を唱えた。
圧倒的な疲労感がサフィラを苛み、体中の力が吸い取られたような心地で、テーブルの上に体を支えるのすら大儀だった。
その尋常ならざる顔色の悪さを一目見て、マティロウサが眉をひそめた。
「どうしたんだい、魔白。真っ青だよ」
「わからない……。急に」
苦しげな息の下からサフィラは何とか言葉を絞り出した。
あれは一体何だったのだろう。サフィラは自ずと問うた。
幻覚にしては鮮やかすぎる。
予知夢というには余りにも曖昧で漠然としている。決して忘れ得ぬようなあの禍々しき輝きは。
では、老シヴィの見せたあやかしか。
だが一体、何の為に?
サフィラはそっと向かいに座る老シヴィの姿を盗み見た。
この老いた魔法使いは相変わらず穏やかにサフィラを見つめていたが、その裏に隠された微かな動揺と驚きをサフィラは見逃さなかった。心持ち俯いた仕種でアサリィ茶を啜る老人の瞳は、心なしか先程よりも暗い表情を宿していた。
→ 第二章・兆候 9 へ
「怖いものを怖いと言うてどこが悪いんじゃろな」
「円滑な人間関係を保つためには、正しいことであっても発言を控えた方が良い場合があるから」
「ほうほうほう」 サフィラの真面目ぶった答えに、シヴィがしたり顔で声を潜めて笑う。
「マティロウサの話では、お前さまも結構言いたいことを言う性分だとか。人間関係うんぬんに気を使うタイプだとは聞いておらなんだ」
「マティロウサはろくでもない事ばかりあなたに吹き込んだようだな」 サフィラは隣の部屋を睨んだ。
「他にはどんな憎まれ口を叩いていた、あの魔女殿は?」
「うーむ、そうじゃな。聞いた事といえば、お前さまが15の年に魔道騎士の位を手に入れたこと、そしてその優秀な騎士は実はこの国の世継ぎの、しかも王女の身分にあること、それから、近々その王女様の婚礼が行われる予定であること、その相手は隣国の第二王子とやら」
「第三」 不機嫌そうにサフィラが訂正する。
「ほいほい、第三王子。そして今、城では婚礼の準備がつつがなく執り行なわれている……。ま、こんなところじゃな」
「さすがマティロウサ、適確で無駄のない話。でも、それだけじゃないだろう」
「ふむ?」
「あの魔女殿のことだ。どうせ人のことを 『憎まれ口と減らず口と軽口しか知らなくて、年寄りに対する礼儀はおろか尊敬の念のかけらもない。人の話は聞かず、態度も生意気。第一、王女の身でありながら男の格好をして、剣を携え馬を駆り、城をこっそり抜け出しては勝手に城下を遊び歩く』 とか何とか言ったに決まってる」
「ほい、ご明察、ご明察。よくお分かりじゃな」
「いつも言われてることだから」
「ふむ。お前さんは」 笑いながら答えるサフィラをシヴィはじっと見つめた。
「マティロウサのことが好きなんじゃな」
突然の問いに戸惑ったサフィラは答えずに、開け放たれたままの扉にちらりと目をやった。
煮立った薬草茶の醸し出す鼻を突く香りに混じって、マティロウサが小さく呪文を唱えているのがとぎれがちに聞こえてくる。
旧き言葉。未だ土地も大気も若かった太古の時代から、あらゆる事物一つ一つに与えられている名。魔女にその真の名を呼びかけられ、アサリィという名の薬草はより高次な薬となり、与えられていた本来の香りを目覚めさせる。
「アサリィ茶、か」
魔女の呪文に耳を傾け、漂い来る香りを嗅ぎ取りながら、サフィラは独り言ちた。
シヴィの問いをはぐらかそうとしているわけでもなく、答えるべき言葉を探しているようだった。
「アサリィ、本来の名はレカレ・フォッサイ、古の言葉で 『香り立つもの』。全く、然るべき物に然るべき名が宿るとはこのことだ。魂まで溶かされそうな香りがする」
「ふむ」
シヴィは相変わらずサフィラの目をじっと見ている。
困ったようにサフィラは笑った。
「好き、という表現では片付けられないな。私にとってマティロウサは第二の母に等しい。魔道騎士としての知識は全てマティロウサから教わった。それだけじゃない、魔道を通して他にも色々な事をあの魔女から学んだよ。それは皆、城の中に閉じこもっていては知り得なかった事ばかりだ。魔道騎士になって本当に良かった、という気にさせてくれる」
サフィラは言葉を切った。
「……そうだな、白状しよう。大好きだよ。どんなに口の悪い年寄り魔女でも。マティロウサが大好きだ。でもこれは秘密だよ。マティロウサに知られたら、きっとまた嫌味を言われる」
「ほうほう」
シヴィはただ愛しげにサフィラを見つめ、サフィラは静かにその深い輝きを持つ老人の目を見返した。
見る者に悠久の時を感じさせる双眸。マティロウサと同じく、それは魔の道を駆る者特有の、奥深く、乾いた光を宿している。
サフィラは自分の体の中の汚れが全てその眼差しによって浄化されていくかのような錯覚を受けた。
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