家のすぐ外で、ひづめが土を掻く音が聞こえたような気がして、サリナスはふと扉の方へ目を向けた。数秒後、
「サリナス、サリナス」
という、辺りを憚るような囁き声と、遠慮がちに扉を叩く音が同時に聞こえた。その声にサリナスは聞き覚えがあった。
サフィラ?
声の主の名を呟くと、サリナスは急いで扉へ向かった。
鍵を外して開けた扉の向こうには、夜のひんやりした空気とともに人影が立ち、マントのフードの下からサフィラの顔が覗いていた。
「や」 と手をあげるサフィラにサリナスは驚きの目をむけた。
「サ、サフィラ、お前、何だ、今頃」
「いや、ちょっとな。入るぞ」
「おい、待て」
家の主人の許しが出る前に、サフィラは素早くサリナスの横を通り抜けて机のかたわらにある椅子の一つに座り、やれやれ、とフードを下ろした。
何日ぶりかで目にした少年のような少女のようなサフィラの表情にサリナスは小さな物懐かしさを覚え、一瞬だけ驚きを忘れたが、それでも眉をひそめてサフィラの動きを目で追った。
「ふーん」 サリナスの怪訝な顔を無視するかのように、サフィラの方は部屋の中を見回した。
「昼と違って、夜は家の中がきちんとしてるんだな」
サフィラが昼間に訪れるときは、大抵の場合、机の上には重ねられた本や古びた紙が散乱し、床の上には大小さまざまな壺や瓶、干した薬草の束などがひしめいているサリナスの家だが、今はそれらもきちんとあるべきところに片付けられ、小奇麗な様子に収まっている。
「いつぞやは開きっぱなしの本が床の上にまで置かれていたもんだが」
「ああ、見事に踏みつけてくれたな、あの時は」
そのときのことを思い出してか、サリナスはやや不機嫌な面持ちで答えた。
「師匠からもらった大事な本なのに」
「床は歩くためのものだ。本を置く方が悪い。しかし何というか」
サフィラはきれいに片付けられた机や床の上に目をやった。
「いつもの部屋を見慣れていると、何となく落ち着かないな」
「そんなことよりも一体どうしたんだ、こんな時間に」
サリナスの声が、やや非難の色を含んでいることに気づいたサフィラは、途端にそわそわとし始め、うんまあ、と頭をかいた。
「別に、どうということはないんだが、その、ちょっと」
「ちょっと、って……お前、また城を」
抜け出してきたのか、と尋ねかけたサリナスは途中で言葉を引っ込めた。聞くまでもない。お忍びでなければ今頃こんなところに来ることなどできないだろう。
「まあ、何だ、いきなりやって来たのは悪かったと思ってる、うん」
サフィラは周囲に視線を泳がせた。部屋のあらゆるところに目を向けながら、サリナスの顔にだけは目を合わせない。
「いや、お前に迷惑をかけるつもりはまったくないんだ。すぐ帰るから。あ、このお茶、もらうぞ」
サフィラは机の上にあった飲みかけのアサリィ茶を一気に飲み干し、ぬるいな、と取って付けたように小声で呟いた。
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