「伝説?」
シヴィの言葉はサフィラにとって唐突で、まったく予想もしていなかった質問であったため、サフィラは少し戸惑いながら、それでも考え考え頷いた。
「それは、信じるかと言われたら……内容次第、としか答えられない。実際に起こった出来事を語り伝えている場合もあるし、古の人々の頭の中で創られた架空の物語もあるだろう。一概には言えないが……でも、今なぜ、そんな話を?」
「ふむ、なんとも魔道騎士らしい言い草じゃが、それでは答えになっておらんなあ」
サフィラの問いかけには答えずに老シヴィは姿勢を正してサフィラの目を正面から見据えた。
「世の中には、どうにも信じがたい真実というものも確かに存在する。そもそも、伝説の中身が事実かどうかを知っているのは、その物語が生まれた時代の人々のみ。後世の人間にできるのは、伝説が真か否かを判じることではなく、伝説を信じるか否か、それだけじゃよ」
諭すような口調はサフィラの耳に心地よく、だが、老魔法使いの双眸には永き時代の流れを目の当たりにしてきた者だけが持ちうる幽遠な輝きがあり、サフィラは合わせた視線を反らすことができずに、ただ、その言葉に耳を傾けていた。
「今からお前様に、ある伝説を語って聞かせよう」 老シヴィは静かに言った。
「これは、わしら魔法に携わる者の間では 『伝えられなかった伝説』 として伝わっておる」
「伝えられなかった?」 サフィラの頭に疑問がわいた。
「老シヴィ、意味がよく分からない。伝えられなかった物語なら、何故、どうやって今の世に伝わった? そもそも語り継がれていないのなら、その伝説自体、存在しないことになるのでは?」
「うむ」 老シヴィは少し考えた。
「そうじゃな。どちらかと言えば 『伝えられた者以外には伝えられなかった伝説』……とでも言う方が正しいかもしれん」
「複雑だな。まるで言葉遊びのようだ」
サフィラと老シヴィの会話を余所に、マティロウサは戸棚の扉を引き開けて巻物を取り出した。
サフィラ達がこの家を訪れる直前にマティロウサと老シヴィが目にしていた、あの古文書である。三人が騒ぎ立てている間にマティロウサがこっそりしまい込んだのだ。
改めて紐解かれ、机の上に広げられた古い羊皮紙を目にして、サフィラは思わず身を固くした。
「それは」
忘れもしない。
以前、サフィラとサリナスが魔女の元から借り受けて、結局読み解くことができなかった古文書だ。
ここに書かれている詩こそが、サフィラをあの不可解な幻視に導いたのだ。
「いやいや、心配せずともよい」
サフィラの顔に浮かんだ警戒の表情に気づき、老シヴィが穏やかに声をかける。
「この前、お前様が気を失ったのは、いわばこの詩から溢れ出た魔法の息吹を初めて目の当たりにして面食らったようなもの。まあ、食あたりならぬ、魔法あたり、というところじゃな。今日はそのようなことにはならん筈じゃ。安心するがよい」
老シヴィの笑顔がサフィラの心を幾分和らげる。
サフィラは恐る恐る、それでも好奇心は抑えられない様子で少しずつ身を乗り出し、古文書の文字を覗き込んだ。そこには、あのときと同様に強い魔法の波動が感じられたが、老シヴィの言葉通り、あのときのような意識の混濁は起こらなかった。
老シヴィが言葉を続ける。
「ここに書かれている古の詩が読めるのは、本来ならば、わしらのような魔法使いや魔女のみ。普通の人間には、たとえ魔道騎士といえども手に負える代物ではないよ。それでも、そこの若いのは」
老シヴィは眠っているサリナスを顎で示した。
「最初の数行を解き明かしたというではないか。稀有な才を持っておるとしか言いようがないのう。喜ばしいことじゃが、それでも数行が限界じゃろうて」
サフィラは老いた魔法使いと古文書を交互に見比べた。
「老シヴィ。では、この古文書に書かれている詩こそが、あなたがさっき言っていた 『伝えられた者以外には伝えられなかった伝説』 だと?」
「然り、然り」 魔法使いは出来の良い子どもを誉めるように笑った。
「ここに描かれているのは、千年もの昔に起こった一つの戦いじゃ」
「千年?」 サフィラが驚きの声を上げる。「余りに遠すぎて、想像がつかないな」
「じゃが、確かにこの伝説は存在する。お前様の言葉を借りるならな」
老シヴィは声の調子を一段低くした。
「世を荒らした強大な魔者。輝かしき英雄達。そして」 一瞬、老シヴィの言葉が途切れる。
「七と一つの水晶の物語じゃよ」
水晶。
その言葉は再びサフィラの心に悩ましげな波紋を呼んだ。
胸の鼓動が少しだけ勢いを強める。
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