しかし、諛左の答えは予想通りだった。
『あのな、気づいているかどうか知らないが、一応教えてやる。
今みたいに、朝、俺がお前を起こさなきゃならない時、
お前はいつも同じ台詞を言って俺をウンザリさせるんだ。いい加減、聞き飽きた』
フォンの向こう側から届く言葉は、
眠りを妨げられた彼女への同情など入る余地がないほど容赦がない。
『気が乗らないとか何とか言ってるが、お前のは単なる不精だ。
でなきゃ、寝不足で寝足りないだけだろう。
用もないのに夜の町をうろつく癖は、いい加減に直した方がいいな』
「放っとけ、人の行動」
『言われなくても放っておきたい。
お前が夜ごと町を徘徊しようと、飲み足りなくて、部屋に戻ってからまた飲み直そうと、
着替えもせずにベッドを無視して長椅子で惰眠をむさぼろうと、
まったく俺の知ったことじゃない。
だが、仕事に差し障るようなら黙ってるわけにもいかないんでね』
「……ふーん、だ」
いちいち指摘された通りである。
彼女が事務所に戻ってきたのは恐らく、昨日の夜。
というより今日の明け方、と言った方がいい時間帯だ。
恐らく、というのは、彼女自身よく覚えていないからである。
恐らくそのままの格好で長椅子に倒れこみ、
恐らく眠りについたのは今から3時間ほど前。
そして、たった今、無粋な電子音で起こされるまで、
恐らく彼女の惰眠は続いていたのである。
『当ててやろうか』
諛左の口調が揶揄するような響きを含む。
「何を」
『今、お前は俺が言った通り長椅子で横になっている。
その側には、きっとワインの瓶が転がっている。エウロペ産の安い赤。
お前は昨日帰ってきてから、それを開けて飲み始めた。
長椅子の横の机の上には、グラスが一つ』
「そんな覚えは……」
ない、と言いかけた彼女の視界に、机の上で倒れている透明な物体が映った。
グラスが一つ。
底の方には、暗く濁った赤い液体が乾燥してこびり付いている。
彼女は長椅子の周囲に手を伸ばし、視界の外を手探りした。
指先に冷たく硬質な何かが触れる。
それでも、断定的な諛左の予想が外れていることを願って、彼女はそれを掴み上げた。
Je Continue?(賭けを続けるか?)
彼女の目に映ったボトルのラベルには、飾り文字のフレンチでそのように刷られていた。
底には、まだ 2cm ほど赤ワインが残っている。
「……」
『当たりだな』
彼女の沈黙に、予想が当たって満更でもないような諛左の声がスピーカーから届く。
→ ACT 1-5 へ
『ああ、じゃない。いつまで寝ているつもりだ』
「いつまでって……いま何時?」
『9時半すぎ』 諛左と呼ばれた男は素っ気なく答え、素っ気なく付け加えた。
『朝の』
「朝の9時半……。まだ明け方じゃないの。起こすんじゃないよ」
『世間では今の太陽の位置を明け方とは言わない』
「太陽がどこにあるかなんて知るか。
正午前なら8時だろうと9時だろうと10時だろうと同じことなの。
知ってるだろう、キライなんだよね、朝は」
『知っている。今までに何度も聞いた』
「だったら、なんで起こす」
ぶっきらぼうに彼女は尋ねた。
電話であれ、直接の対人であれ、起き抜けの彼女の反応は大体いつもこうである。
朝がキライだと言うが、ならば夜ならいい、というわけではない。
時間帯とは関係なく、他人に眠りを邪魔された時には機嫌が悪いのだ。
フォンの向こうにいる諛左も彼女の不機嫌の理由は判っているようで
もう馴れている、といった諦め混じりの口振りで先を続けた。
『なんで、とはふざけたことを。仕事以外にお前を起こす必要があるか?
でなければ、この建物が火事になろうと爆破されようと、
お前の安眠を邪魔するつもりは全くない』
ありがたいのか、その逆なのか分からない諛左の返答である。
「仕事ねえ……」
彼女の声はまだ曖昧で、それに対する諛左の口調は明確なことこの上ない。
『11時に依頼人が来る。
それまでに、そのボンヤリ頭を雲の外に引っぱり出して、とっとと下に降りてこい』
「依頼人?」
『そうだ』
「それ、聞いてない」
『言ってないから』
「……そゆコトは前もって言ってもらいたいんだけど」
『今言った』
「……」
ガキかよ。
彼女はため息をつく。
「……あんたが探してきた客?」
『そう』
「それは気が乗らないねえ……」
ムダだと知りつつ、彼女は軽く自己主張をしてみる。
→ ACT 1-4 へ
空が薄明るい光を放ち、人々の動きがゆうるりと街に流れ出す頃。
無遠慮に注がれる外の光を厚いカーテンで遮った彼女の部屋は、いつものように薄暗い。
壁際のベッドの上は無人である。
寝息は部屋の中心に置かれた長椅子の上から聞こえてくる。
古びた布張りのクッションの上では
人の形に浮き上がった毛布が一定間隔で上下に動いていた。
毛布の端から黒い髪が覗いて、蛇のような形でシーツの上に陰りを流している。
平穏なる眠りをこよなく愛する彼女の、寝姿である。
突然、彼女の鼓膜に電子音を伴った不愉快な振動が届く。
いつも聞き馴れている癖に、いつまでたっても聞き慣れない音。
頭の中から少しずつ眠りを追い出そうとする室内電話 - イン・フォン - の響き。
それはコールに答えるまで鳴り止まない仕組みになっている。
離れた場所からでも有機的な音声の類を拾ってくれるイン・フォンは
数年前に彼女がマーケットで手に入れた代物で、受話器を取らなくても通話できる。
少しの手間も惜しみたい怠惰を身上とする彼女は、生来の不精さからそれを衝動買いした。
大抵の場合は、階下からの呼び出しに使われるイン・フォンだったが
時には、彼女にとって迷惑なこと極まりない目覚ましアラームとしても効果がある。
たった今のように。
PiPiPiPi ……
甲高い電子音は続く。
動きが止まっていた毛布の隙間から、根負けしたような吐息が響き、そろりと手が延びてくる。
眠たげな動きを見せる彼女の指が辺りを探り
銀色の無機質なフォンの送話ボタンへとたどり着くまで、それでもかなり時間がかかった。
「……だ?」
誰だ、と尋ねているつもりの彼女だが、前半が声になっていない。
『やっぱり寝ていたな』
スピーカーから声が響く。
思わず反抗したくなるほど断定的な男の声。
彼女は毛布から顔を出し、声の主を思い出そうとして朧気な記憶の中を手探りした。
半分閉じたままの瞼に、乱れた髪が厭わしげに降りかかる。
髪を掻き上げて視界が明らかになると同時に
スピーカーの向こうにいる男の名前が彼女の頭の中に浮かび上がった。
「ああ……諛左 (ユサ) か」
→ ACT 1-3 へ
ACT 1 - All is fish that comes to my net -
煙草の火先から螺旋を描く紫色の煙が
唇から吐き返される白い靄に取って代わる
一度体の中を通すだけで
煙の毒はわずかに浄化され
非幾何学的な形を取りながら空気中に分子の渦を還元していく
毒性は全て身体の内に閉じ込められて
細胞の組織にゆるやかに染み透る
肉体をフィルターに代え
紫は白となる
紫の毒
次第に心も身体も妖しい紫色に変化させていく酸性の毒
鮮やかに
ひそやかに
紫色の毒は人を変え
空気を変え
街を変えていく
この灰色にくすんだモノトーンの街を
倦怠と欲望と
そして虚偽に満ちたこの街を
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝の気配が忍び寄る感触は、ある種の人間にとって決して好ましい代物ではない。
それが彼女の持論である。
勿論それは 『ある種の人々』 の中に、彼女自身を含めた上での考えである。
眠りは平穏であるという。
ならば何故、人はその平穏を打ち破ってまで目覚めるのか。
何故、身を起こし、無慈悲に降り注ぐ太陽の光の下へと這い出ていかなくてはならないのか。
結局のところ、朝起きるという行動は、
人々にとって 「そうしなければならない」 という一種の脅迫概念になっているのだろう。
目覚めなければならない。
シーツの中から抜け出さなくてはならない。
仕事に行かなくてはならない。
そして、それらを拒否する者には 『怠惰』 という形容詞を否応なしに与えられてしまうのだ。
しかし彼女にしてみれば 「怠惰でどこが悪い」 と主張せずにはいられない。
人々にどう思われるか。
そんなことは彼女には関係ない。
それよりも彼女にとっては、ささやかな願望の方がよほど重要なのだ。
つまり、いつまでも曖昧なまどろみの中を夢見心地で漂っていたい、という願望の方が。
しかし、望みはいつも打ち破られる。
その日の朝も例外ではなかった。
→ ACT 1-2 へ