「何だ、お前、また来ていたのか」
言外に 「ウンザリ」 という気配をあからさまに滲ませた諛左の言葉が、NO のカンに触る。
「来ちゃ悪いかよ」
「悪い」
にべもなく諛左が言い切る。
背後で、部下が (恐らく不二沢が) ひゅっと息を呑む音が聞こえたが、
NO は苛立ちとともにそれを無視した。
「世の中、悪党は掃いて捨てるほどいるってのに、
いつもいつも、のんびりコーヒーブレイクとは。相変わらずヒマなようだな、警察は。
……いや、警察がヒマなんじゃなく、お前がヒマなだけか。
ああ、千代子さん、俺にもコーヒーを一杯」
そう言って諛左は、つかつかと部屋を横切り、奥にあるデスクの後ろに回り込んで腰掛けた。
煙草を取り出しながら灰皿を目で探し、NO の前で山盛りの吸殻を見つけて顔をしかめる。
「ちゃんと片付けていけよ」
諛左は顎で灰皿を指した。
「ここはお前のウチじゃないんだからな。どっぷりくつろがれても困る」
「うるせぇ、俺は客だ。少しは愛想よくしろってんだ。いつも眉間にシワ寄せやがって」
「ここで言う 『客』 ってのは、金を払って俺達に何かを依頼しよう、という人間か、
それ以外の理由で、こちらから招いた人間だけだ。
お前を招いた覚えはないし、進んで招く気もない」
「何を依頼しにやってくるかは知らねえが、
こんなウサン臭い事務所を頼る連中ってのも、どうせウサン臭い奴等ばかりなんだろうぜ。
こちらとしては、見過ごせねえなあ」
「また、お得意のイチャモンか。代わり映えしない男だな。
どうでもいいが、とっとと退出願いたいもんだ。
お前がこの建物に出入りするようになってから、
俺達までお前と同類の人間に見られることが多々あってな。至極迷惑なんだよ」
「同類だと? 冗談じゃねえ」
NO が吐き捨てる。
「こちとらカタギの公僕だ。てめえらなんぞと一緒にすんじゃねえよ」
「カタギ……」
諛左は本気で呆れたようである。
「そう思ってるのは、お前だけだろうが……幸せなヤツだな。
まあいいさ。カタギでマジメな警官だって言うんなら、
この前のガラスの修理費も、すぐに払ってもらえるんだろうな」
「……」
途端に NO が口をつぐむ。
畳み掛けるように諛左が言葉を継いだ。黒い瞳を剣呑に光らせる。
「忘れたとは言わせんぞ。
お前のせいでウチの事務所がどんなに風通しがよくなったことか」
「あれは俺のせいじゃねえ」
「きっちりお前のせいだ」
「……」
NO は不機嫌な顔のまま沈黙した。
諛左が言っているのは、数ヶ月前に起こったことについてである。
→ ACT 6-10 へ
「おい」
さすがに堪り兼ねて NO は千代子に口調も荒々しく尋ねた。
「J はいつ帰ってくるんだ? どれだけ待ったと思っている」
頼まれて待っているわけでもない癖に、まるで相手の不実を責めるような口振りの NOに、
千代子が返した答えは、
事務所を訪れた時に NO が耳にしたものと同じくらい淡々として、乾いていた。
「ミス J のお帰りになる時間は知らされておりません」
勿論、千代子の言葉には、事実を伝える以外の意図は全くない。
だが、悪意を含む深読みが得意な NO の耳には
『お前などに教えるか』 という拒絶に聞こえ、ますます苛立ちを募らせる。
第一、戻る時間が判らないというのなら、
連絡を取ってみる、行き先を確認してみる等々、やり様はいろいろあるだろうに。
まったく、この事務所の連中ときたら。
NO は心の中で毒づいた。
主といい、助手といい、使用人といい、
すべてが自分の寛容の許容範囲を大幅に超える、不愉快極まりない奴らばかりだ。
再び NO が尋ねる。
「『あの男』 も不在のようだが……J と一緒なのか?」
「ミスター・ユサのことでしょうか」
「ここで 『あの男』 と言えば、他にはいねえだろうが」
嫌味な大女だ。いちいち確認するな。
NO は不愉快さを隠そうともせず吐き捨てた。
しかし、千代子は動じない。
「ミスター・ユサは別件で出ておられます。
あの方も、もうじきお戻りになる予定ですが」
「ちっ……」
2人揃ってウロウロと、どこをほっつき歩いているのか。
NO は軽く舌打ちし、再び口を閉ざして、さらに度が増した不機嫌さを満面に表した。
それ以上会話がないことを見て取り、来た時と同様に音もなく千代子はドアへと向かう。
しかし、千代子がノブに触れるよりも早く、ドアは軋んだ音を立てて勢いよく開いた。
男が1人、立っていた。
諛左である。
「おっと、失礼、千代子さん」
ドアの向こうに千代子の姿を見つけ、諛左は軽く微笑んだ。
唐突に現われた諛左に、さすがの千代子も少しばかり目を見開いてみせたが、
すぐにいつもの無表情に戻る。
「おかえりなさいませ、ミスター・ユサ」
千代子は静かに口を開いた。
「お客様が……」
と、千代子が伝えるよりも早く、
諛左の目は、部屋の中央にふんぞり返る無精髭の男の姿を見つけていた。
同時に NO が振り返る。
2人の目が合った一瞬後、求めた人影ではないことを知った NO は、
あからさまに嫌そうな表情を浮かべてソファに座り直す。
諛左の方は、NO の存在には特に何の感慨もないようで、
コートを脱ぎながら、冷たい視線を放っただけである。
→ ACT 6-9 へ
今日も、いつものように唐突に事務所を訪れた NO だが、
あいにく J は留守のようで、そのことが既にNO の機嫌を損ねていた。
思う通りに物事が進まないと、たちまちにして気分を害する、
それは不二沢に指摘されるまでもない、NO の悪い癖である。
さらに悪いことに、一応の警察官である NO には、
相手に自分の思うところを強要できる力がある。
そして今、NO が誰よりも思い通りにさせたいと考えている人物。
それが、先程から待ち続けているこのオフィスの実質的社長、J である。
NO の J に対する異様な執着は、この界隈の人間には周知の事実である。
すっかり見覚えられて 『覆面』 の意味すら持たないパトカーが
事務所近くの駐車場に止まっているのを見た時、
誰もが J の不幸を思ってため息をつく。
そして、事務所から出てくる NO と鉢合わせするのを避けるため、
足早にその場を立ち去るのだ。
今日も、もしアリヲが NO の来訪を J に伝えていなければ、
のこのこと事務所に戻った J は、間違いなく自らの不幸と顔を合わせていたことだろう。
不在の J に代わって NO の応待に出たのは、千代子である。
NO は、千代子が苦手だった。
無愛想で何を考えているのか判らず、客人に対して愛想の一つも振りまこうとしない。
何よりも自分より背が高いのが気に入らない。
人に見下ろされるのが嫌いな NO である。
NO 自身、決して背が低い方ではなかったが、
長身の千代子に比べれば、大抵の人間は彼女の目線よりも下に位置する。
体格も良く、妙な威圧感を持つ千代子は、
NO にしてみれば、そこに立っているだけで疎ましい存在なのだ。
気に食わないのは、それだけではなかった。
普通の人間ならば、NO が一睨みしただけで怯えた表情を見せる。
一般市民は勿論、同僚であろうと、上司であろうと、それは変わらない。
だが、J がそうであるように、その使用人である千代子も、NO の存在に動じることがない。
感情のない緑青色の瞳で黙って NO を見下ろすだけである。
それが NO には我慢ならない。
この日も、NO に主人の外出を告げた後、
千代子は、勝手にソファを占領した NO の態度を咎めるでもなく、
いつものように無表情でコーヒーを運んできた。
以来、頃合いを見計らっては、新しいコーヒーと飲み干したカップを交換しに現われ、
それ以外は顔も出さず、招かれざる客に対して言葉も交わそうとしない。
そして、今も、小刻みに足を揺らしながら、無言で待ち続ける NO の元に、
千代子が静かな足取りで5杯目のコーヒーを運んできた。
つい先ほど4杯目を飲み干したばかりの NO は、
新たなコーヒーの香りに、ややウンザリしながら千代子の顔を睨みつける。
この女は、ロボットか。
NO は心の中で毒づいた。
音もなく現われて、馬鹿の一つ覚えのように頼んでもいないコーヒーを置いていく。
大昔、ニホンには、茶を運ぶ目的のためだけに作られたカラクリ人形が存在した、という。
誰にともなく聞いたそんな話を NO は思い出した。
実際にどんな人形なのか、NO は見たことはないが、
恐らく、今目の前にいる大女に似ていたのではないか。
タイミングよく、コーヒーを運び込む千代子の間合いも、なにやら機械めいている。
このコーヒーカップには実はセンサーがついていて、
中身が減って一定量に達するか、あるいは冷めるかするとセンサーが発動し、
それを感知したこの大女が、新たなコーヒーを持って現れる仕掛けになっているのではないか?
そしてコーヒーで俺を溺れさせようとしているのだ。
その証拠に、口を開こうとすると腹の中のコーヒーが逆流しそうになる。
アルコールなら底無しのザルに近い NO も、さすがにこのコーヒー責めには閉口していた。
→ ACT 6-8 へ
すでに登録している 「edita 」 と同じ感じなのかな?
これを機に、またいろいろなブロガーの方とお近づきになれればいいな、と。
ブログパーツも幾つか減らして、もう少し軽いページにしようと考えてます。
短い報告エントリーでしたー。
事件を通じて何度か接する機会があった NO と J だが、
互いに相手を 『自分とは相容れない存在』 と認識するまで、時間はかからなかった。
考え方や立場の違いは元より、片や権力という名の圧力を容赦なく押し付け、
その一方は、それに対して頑固なまでに反発する。
気が合うはずもない2人である。
『いつか何かやらかす女』。
J に言わせれば傍迷惑この上ない、それが、NO が J に貼ったレッテルであった。
『だから、常に目を光らせておかなくてはならない。何かやらかす前に』。
NO がそう思うのは、正義感から……ではない。決して。
刑事のカンだ、と臆面もなく NO は言い切っている。
しかし、そうだろうか、と不二沢は思う。
そして、判っている。
NO は、単に気に入らないのだ。
自分を恐れない、従わない、そんな J が。
NO に反抗し続ける J は、不二沢にとってツワモノ以外の何者でもなかった。
用もないのにオフィスに顔を出し、数時間ゴロゴロしては
吸殻の山と悪意を残して帰っていくだけの NO に、
ひるむことなく暴言を投げつけ、果敢に遠ざけようとする J の態度は、賞賛に値した。
その率直さが羨ましくもあった。
勿論、そんな J の姿に、不二沢自身も一度はそうしてみたいものだ、
いや、せめて、J の百分の一でも万分の一でもいいから、
自らの上司に言いたいことをぶちまけてみたい、という
叶うはずもない儚い願望が重なっているのは言うまでもなかった。
しかし、今の自分には、できる限り当たり障りのない物腰で
緊張しながら NO の背後に立っているのが関の山である。
気短な上司の機嫌をこれ以上低下させないように。
謂われない八つ当たりを、可能な限り避ける術を駆使しながら。
Sigh.......
今度は NO に聞こえないように、不二沢はもう一度、ごくごく小さなため息をついた。
不二沢が自らの不幸を心のうちで嘆いている目前で、
NO は接客用のソファを1人で占領し、靴を履いたまま乱暴に足をテーブルに載せていた。
背後に控えている2人の部下の心中を察してやる気など全くなく、
左右交互に足を組み換えるたびに不安定に揺れるコーヒーカップの中身がこぼれようと
気にもかけていない。
千代子が運んできた4杯目のコーヒーを、たった今飲み干したところだった。
NO は軽い胸焼けを覚えながら、ひたすら目指す主を待ち続けていた。
目の前に置かれた灰皿には吸殻があふれ、テーブルの上にまでやわらかな灰を落としていた。
待っている時間の長さを告げるような積み上げられ方である。
不二沢が推し量るまでもなく、明らかに NO は苛立っていた。
人を待つのは嫌いなのだ。
時々小刻みに足を揺すって時計を見上げながら、煙草に火を付ける。
その動作の繰り返しである。
遅い。
NO は煙草の匂いが鼻の奥に染み付いているのを感じながら、
それでも新しい一本を取り出して火を点けた。
煙を吐き出しながら、無精髭が疎らに生えた顎を掻く。
首を巡らせて、年中消えない隈を貼り付けた目を、壁の時計に何度も向けた。
NO の人相の悪さは、NO 以外の誰もが認めている事実である。
数年前に妻子に逃げられ、荒んだ生活を送るようになってからは、さらにエスカレートした。
外見だけでなく精神的な面でも剣呑さに磨きがかかってきた。
ほぼ毎晩、正体がなくなるまで酔っ払い、
ついにはアルコールの匂いが体から抜けなくなった。
残り香だけで、NO の不在が判る。
署内では、そんな中傷めいた言葉まで飛び交っているほどだった。
→ ACT 6-7 へ
強いて、そう強いて NO の認めるべきところを挙げるならば、
この男は決して誰にも媚びへつらったりしない。
相手の善悪に関わらず、自らを通す。
追従、という言葉は、NO とは無縁のものである。
それは不二沢も同意せざるを得ない点であった。
もっとも、それが長所となるか短所となるかは時と場合によるが、
それでも、平和的人間の極みである不二沢は、
NO なりに筋を通しているのだ、と肯定的に解釈するようにしていた。
肯定しておかないと、自分自身が切なすぎるからでもある。
このように、2人の部下が上司に対して尊敬を抱いているかどうかは、はなはだ疑問であった。
しかし、NO 自身は、明らかに彼らを有能な部下とは見なしていなかった。
いずれにしても、どちらの側も自分を (あるいは自分達を) 不幸だと考えているに違いない。
一生この男と付き合う訳ではないのだから。
結局、いつも不二沢は、そう結論付けることになる。
6年前にいきなり NO と出会ったように、数年後には NO と離れることもあるかもしれない。
そう考えて不二沢は自分自身を慰めるのだ。
それが、剃刀よりも薄い期待ではあると知りながら。
大きなため息が不二沢の口から漏れる。
それが聞こえたのか、NO は振り返って不二沢をじろりと睨み、
その視線に刺されて、不二沢は自らの不幸を省みる空しさを心の奥に追いやり、
現実の世界に、そう、コンクリート・グレイに包まれた事務所の中に意識を戻した。
NO が2人の部下を引き連れて、この事務所に乗り込んできたのは、今からおよそ3時間前。
つまり、約3時間、不二沢とショーンは
部下という分を弁えて上司の背後に付き従っているわけだが、
標準よりもやや太り気味の不二沢にとって、立ちっぱなしという体勢はなかなか辛い。
膝の痛みをどんよりと感じ、不二沢は微妙に重心を変えながら思った。
最近、また少し体重が増えたようだ。
何故だろう。
こんなに心労が続いているのだから、少しぐらい痩せる方向に行くのが当たり前ではないか。
それなのに。
不二沢は恨めしげな視線を天井に向け、
今すぐ胸元のポケットから胃薬を取り出し、目の前の冷めたコーヒーで流し込みたい、
という衝動を何とか抑えていた。
それにしても。
不二沢は、通りに面している背後のガラス窓をゆっくり振り返って外の景色に目をやった。
事務所の主は、いつ帰ってくるのだろう。
黒髪に黒い瞳の華奢な女性の姿を不二沢は脳裏に思い浮かべた。
今や、警察内外で NO を諌める人間は数少ない。
そして逆らう人間は、もっと少ない。
その希少な1人が、この事務所の主であり、
3人の招かざる客、
つまり、NO とその部下2人が3時間前から待ち続けている当人、J なのである。
NO と J が初めて出会ったのは、不二沢の記憶が正しければ、およそ4年前のことだ。
子供の虐待がらみの事件だった。
母親の暴力から子供を遠ざけて護ろうとした J。
我が子が誘拐された、と母親が警察に訴え、捜査にあたった NO。
事件そのものは、結果的に J の正当性が認められ、
母親は保護観察処分、1年前に離婚した父親が子供を引き取ることで収まった。
しかし J にとっては、
1人の険悪な警察官に目をつけられるハメになった記念すべき事件である。
そして、以降、J と NO は不本意ながら顔を合わせる機会が増えてしまった。
→ ACT 6-6 へ