「それからね」
「まだ何か?」
早く帰れ、と言わないだけマシ、というくらい無愛想な声で J が一応答える。
「あたし、アンタのことを調べさせたって言ったけど、どうしても判らないことがあったのよ」
「ハコムラの力でも判らないことがこの世にあるとは思えないけど」
「それ皮肉? こっちの力にだって限度があるわ」
「そんなもんかね」
「フウノ」
麻与香が J を見つめた。
「アンタ、カレッジを出てこのオフィスに居着くまでの数年間、一体 『何処』 で 『何』 をしてたの?
その間のアンタの足取りが、さっぱり掴めなくってね」
J の動きが止まった。
ゆっくりと目を挙げて麻与香を見る。
その視線を麻与香が捕らえた時、初めて麻与香の表情から微笑みが一瞬だけ消えた。
立ち入ることを許さない不可侵の領域に麻与香は足を踏み入れようとし、
J の瞳は、それに対する警告に似た光を湛えていた。
J はすぐに目を煙草に戻し、何事もなかったかのように火を点けた。
ライターを手の平の中で器用に転がし、時折火を点けては消す動作を何度か繰り返す。
麻与香はしばらくの間 J を見つめていた。
自分の問いに J が答を与えるつもりがないのを見て取ると、再び背を向ける。
そして、ドアの向こうへと姿を消した。
麻与香が去った後、J は椅子から立ち上がろうともせず、煙草の紫煙に取り巻かれていた。
右手の薬指を飾るメッキの薄板を無意識のうちに親指で弾く。
J はいつまでもその動作を繰り返していた。
頭の中では、たった今姿を消した疫病神との思い出がまざまざと浮かび上がっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
J が麻与香の名を初めて聞いたのは、カレッジ時代のことだった。
セントラル・カレッジは通常は22歳以上でないと入学を許されない。
そこに、ハイスクールから異例のスキップで進学してきた学生が、同時期に2人。
それが J と麻与香だった。
当時、15歳と17歳の入学生は必要以上にカレッジ内で騒がれて、J をかなりウンザリさせた。
だが、次第に注目されるバランスは麻与香の方へと傾いていった。
麻与香の常人離れした美貌は、その頭脳以上にカレッジの連中に影響を与えた訳である。
暗い緑の瞳に黒髪。
エキゾチックな風貌。
女神を模したかのような絶妙のプロポーション。
耶律麻与香を構成するほとんどの要素が、周囲の人々に魅惑をもたらすためだけにある。
そう錯覚させる女だった。
→ ACT 2-14 へ
ドアノブに手をかけて、思い出したように麻与香は J を振り返った。
「こんなダウンエリアの片隅で、
その日暮らしでくすぶってるアンタの姿って、ナンか不思議だわ」
「別に不思議なことはないと思うけど。分相応ってヤツ」
「あら、そうかしら?」
麻与香は妙に挑戦的な視線を J に送った。
J の胸の内に嫌な予感が走る。
「フウノ……あたし、調べさせたって言ったでしょ、アンタのこと。
で、いろいろ分かっちゃったのよね」
「……何を」
「ん? だから、いろいろ、よ」
「麻与香、相変わらず回りくどいよ、言うことが」
「だからね」
麻与香は、知らない人間から見れば極上の笑みを浮かべた。
J にとっては極悪な笑み。
「フウノ、アンタさ……センターエリアに大きな人脈、持ってるでしょ」
「……」
「だから、こんな事務所で生計を立てていく必要なんて、ないワケじゃない?
そこが不思議、って言ってるのよ」
「……何が言いたいのさ」
「んー、だからね、アンタの後ろにいる 『誰か』 さんのこととか……。
いろいろ知ってるってワケよ、あたし」
「……」
J は麻与香を見た。
見られた相手は微笑みながら J を見返す。
J は手にしていた煙草を乱暴にもみ消した。
J は記憶の中にある 『笥村麻与香』 と名付けられたファイルのページをめくった。
そこにはカレッジ時代に得た様々な情報が無造作に書き記されている。
「不可解」
「パラノイア」
「魔性」
等々、好意的とはいえない単語の群れの中に、
今、新たに 「要警戒」 という言葉を加える必要があるらしい。
ハコムラの名を手に入れた時から、この世に溢れる情報のほぼ全てを手中にした女。
自分の事をどこまで調べたのか、J にとっては非常に気になるところであった。
知られても構わないこと、そして知られたくないことが、J の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
麻与香の権力に思いを巡らせる J は、
目の前で艶然と足を組む女に油断のない目を向けた。
「そんなコワい顔しないで。嫌なこと言ったかしら」
「……別に」
嫌がると分かってて言ったくせに。この女は。
J は不機嫌さを隠すつもりもなく、新しい煙草に火を点けた。
麻与香の方には目も向けない。
→ ACT 2-13 へ
実家の庭では、いろいろな花が満開です。
あまりに美しかったので、撮ってみました。
名前知らないけど、色がきれい。
これは、オオデマリ。
これも名前忘れちゃった。花の形と色がかわいい。
明日は、高岡のお祭りです。
久しぶりに見に行くつもり。もう20年近くぶりです。
明日も天気が良いといいなあ。
「それで? その後は?」
J は先を促した。
「その後? その後は勿論バタバタよ。どうやら本当に行方知れずらしいって分かったから。
大変だったわよ。聖を探すと同時に、見つかるまでの対応も考えなきゃいけないし、
替え玉まで用意して。でも、あまり騒ぎ過ぎても世間の目を引くし。
水面下での大騒ぎ、ってところね」
さすがの麻与香もその当時は、今 J が目にしている涼しげな美貌を曇らせて、
愛してやまない夫のことで気を揉んでいたのだろうか。慌てふためいていたのだろうか。
J にはそんな麻与香の姿が想像できなかったが。
「それで、さっきもアンタに言った通り、聖を探すあらゆる手段を尽くしたつもりなんだけど……」
「見つからない、と」
「そう。で……」
「あたしのところに来た、と」
「そういうこと」
「……やっぱり、降りていい? この依頼」
「ダメ」
麻与香は悪戯を企てている子供のような表情を浮かべて J を見た。
「アンタに受けてもらいたい、って言ったでしょ」
「……」
メンドくさい。J の心の中では、正直な感想が渦巻いていた。
散々手を尽くした後に頼られても、どんな成果が挙げられるのか。
いや、それよりも、これだけ日数が経っているのに、失踪の手掛かりなど見つかるものだろうか。
第一、夫が消えた麻与香に対して、J は何の同情も沸き上がらなかった。
いつのことだったか、ダウンエリアの知人が青ざめた顔で、
いなくなった愛犬を探してくれと訴えてきた時は、よほど何とかしてやりたい、と思った J だったが、
今、目の前にいる女の表情は、慌てるでもなく、嘆くでもなく、平然と構えすぎて
どうしても J の反感を誘わずにはいられなかった。
胸中の投げやりな気分を口にこそ出さなかったが、表情にはありありと浮かべながら、
それでも J はさらに幾つか質問を投げかけた。
「うまく答えられるかどうか分からないけど」
そう言いながらも、麻与香はほとんんどの問いに素直に答えた。
時折脱線して、カレッジ時代の話に舞い戻ることもあったが、
J は忍耐を持ってそれを聞き流した。
尋ねるべきことをすべて確認し、
その中に手掛かりになりそうな事実が見当たらないことに落胆しつつ、J は質問を終えた。
麻与香が腹の内をすべてさらけ出しているとは思えなかったが、
今のところは、ここまででいいだろう。
聞き出した内容はともかく、麻与香と対面している時間を考えるなら、もう充分だ。
J は早速、美貌の疫病神を追い払いにかかった。
「とりあえず、今日はここまでだ。受けるかどうかは、また後で連絡するから」
「だから、アンタは絶対受けるわよ」
「……お引取りを」
「そうね。じゃあ、もう行くわ。連絡先はここにね」
麻与香は名刺を1枚机に置いてシガレット・ケースを仕舞い込むと、優雅な動作で立ち上がった。
オフィスを訪れた時と同じ歩調でドアへと向かう。
「こんな時でも会えて楽しかったわ。こんなことでもないと会えなかったでしょうけど」
どんなことがあっても会いたくなかった、と J は思う。
楽しかったと思ってるのは確実に麻与香だけである。
→ ACT 2-12 へ