口上の言葉と共にフィランデの使者がサフィラへと恭しく差し出した、美しい装飾を施した小箱の中身が人々の目にさらされるや否や、周囲より感嘆のどよめきが幾重にも沸き上がった。
サフィラ自身、これ程見事な銀星玉をかつて見たことがなかった。華奢な銀細工からなる首飾りとイヤリングに、眩い白銀の光を放つ大粒の宝石が三粒しつらえられている。
サフィラにとってはもともと嬉しい筈もない贈物ではあったが、何とも品の良い細工は悔しい程にサフィラの趣味に合っていた。
喜んで受け取る積もりはさらさら無いけれども、貰えるものは取り敢えず貰っておけばいい。
サフィラは考えた。いずれ役に立つかもしれない。
「ご厚情いたみいります。このように見事な宝物はついぞ目にしたことがございません。有り難くお受け致しますと共に、タウケーン王子の広きお心に感謝の念をお返し致します。御使者殿にも重畳に」
歯が浮くとはこういう文句のことを言うのだろうか、などと密かに胸の内で自分が今言った言葉に半ば呆れながら、サフィラは目の前に跪く使者へ儀式用の微笑を向けた。
何しろ簡略な婚約の儀とはいえ、両脇には緊張顔の父王と母后が、今にもサフィラが『結婚やーめた』と言い出すのではないかと気をもんでいる。取り敢えずは無難にこなしておいた方が後々の為には得策だろう。
サフィラの言葉に使者は更に深く頭を下げて、これもまた何処かで聞いたようなお決まりの台詞を口にする。
「勿体なき御言葉、一介の家臣の身には余る光栄でございます。位低き者ではございますが、この度の御婚礼に改めて御祝いの心を添えさせて頂きたいと思います」
「有り難く受け取りましょう。この度のお役目、本当に御苦労でした。後はこの城で心行くまで旅の疲れを癒されるよう計らいましょう。我がヴェサニールの貴賓として貴方を歓迎致します」
「温かいお心遣い、ただただ感謝致しますのみでございます」
「誰か、御使者殿をお部屋に案内を」
サフィラと使者の化かし合いにも似たやりとりが終わると二人の侍女が進み出て一礼し、一人は使者の先に、もう一人は後に続いて 『王の間』 の出口に向かおうとした。
使者は丁寧すぎる程の礼を三度、王と王妃に、そして取り分け気を配った仕種でサフィラに腰を屈めると、ゆっくりとした足取りで 『王の間』 を後にした。
それにしても、いちいち動作振る舞いが大仰な使者だった。
サフィラは一息付いて首を回しながらぼんやりと思った。
慇懃なまでの礼儀と軽薄な物腰。
話によると王子直属の家臣らしい。
まだ見ぬ婚約者であるタウケーン王子の人柄は、サフィラの耳にも色々な噂として届いていた。半分はどうでもいい噂、そして残り半分は余り芳しくない噂である。
主人が軽いと仕える人間もそうなんだろうか。
サフィラの物思いはいざ知らず、王はその場に控える臣家の者達に、限り無き満足の笑みを向けて玉座を立ち上がった。
「皆の者、御苦労であった。正式な婚約の儀も無事終えた。後は式の準備を滞りなく整えることじゃ。あと四日。不備な点は残っておらぬか、今一度確かめよ。我が娘の晴れの舞台じゃ。粗相があってはならぬぞ」
「心得ております」
額に 『忠義一筋』 という文字を額に記した老侍従のクェイトが畏まる。
「我ら一同、サフィラ様の為ならば命をもなげうつ覚悟でございます」
「そうまでしてもらわないと結婚も出来んのか、私は」 憮然としながらサフィラが呟く。
その呟きすら耳に入らぬ上機嫌で、王は皆に退出を告げた。それぞれに一礼して 『王の間』 を去る家臣を見送り、最後の一人に続いて王妃が退出し、後に残されたのは王とサフィラのみになった。
やにわに王はサフィラに近付いた。その顔は紅潮して笑み崩れている。
「サフィラよ、今日こそお前が本当に結婚するのを承諾してくれたのだと骨身にしみたぞ」
「父上、『骨身にしみる』 というのは、たいていの場合、非常に懲りた時に使う言葉では」
「いや、実を言うと、今までのところ、いつお前が思い余って城を瓦礫の山に変えてしまわぬかと、それはもう心配で心配で、使者殿の言葉も初めのうちは耳に入っておらなんだわ」
「父上、これから花嫁になろうとする娘にかける言葉ではないような気がします」
「それにしてもお前、ドレスを着ると見違えたぞ。これがあの男にしか見えなかったサフィラかと思うと、まあ化けたというか何というか、本当に女だったとは」
「父上、その言葉は娘相手だとしても失礼です」
「とにかく、これで何の憂い事もなくなった。思い残す事はない。うんうん。後はお前が立派に巣立って行くのを見届けるだけじゃ。ああ、思えば后と二人、この日が来るのをどんなに待ち望んだことか。大切な一人娘が日がな一日魔道に明け暮れ、怪しげな書を読み漁り……」
「あ、わたくし、この後、踊りの稽古があるのを忘れていました。では……」
黙って聞いていれば延々続きそうな父王の繰言を後ろ髪で聞き流し、サフィラはそそくさと王の間を退出した。
家臣が辺りにいないことをいいことに、着ているドレスの裾にもかまわず大股で自分の部屋へと急ぎながら、サフィラはこの一月足らずの間に自らに課せられた涙ぐましいまでの忍耐と努力について思いをはせていた。
今、身に付けているようなヒラヒラしたドレスも、半月前まではついぞ着慣れなかったが、今では漸く裾を踏まずに淑やかに歩けるようになった。大国の都で流行中とやらの最新の踊りのステップも、練習相手の若い家臣の足を何度か踏み倒した後にようやく覚えた。言葉遣い、立ち居振る舞い、肌と髪の手入れ、不作法にならない会話の数々、食事の作法、爪の磨き方、エトセトラ、エトセトラ……。
一体、何度 『いい加減にしてくれっ』 と叫びたいのを堪えたことだろう。
自分を褒めてやりたいくらいだった。
世の中の王女に生まれ付いた人間は全て、こんな面倒な生活を淡々とこなしているんだろうか。サフィラは知らずため息をついた。
だが、いよいよだ。
やけに物分かりが良い優秀な王女を演じる期限切れは、もうすぐそこまできている。あと四日。
サフィラは一つの企みを心の内に抱いていた。だが、それを決して人には悟られないように、あくまで平静を装い、両親、家臣の油断を招くまでに大人しく振る舞っていた。
→ 第三章・悪巧み 2 へ
老シヴィは、消えた時と同じくらい急にこの部屋に姿を現した。そして、一人ではなかった。
魔法使いの足元に一人の老人が身を横たえていた。
その顔を見た時、サフィラは先程から感じていた曖昧な不安がほんの一瞬、錐のように鋭い光を放って頭の中を通り抜けたのを感じ取り、瞬時に正気に返った。
明らかに狂気の宿った双眸。
絶望にも似た感情がその老人の容貌に纏わり付き、絶え絶えの呼吸は、もはや死が老人を見舞ってそこまで来ていることを意味していた。
サフィラの視線は老人の顔から、そのまま無意識のうちに老人の側に転がる薄汚れた麻袋へと落ちた。なぜか妙にその麻袋が、その中身が気になった。
「これは、もう…」
老人の腕を取って体を調べていたサリナスがマティロウサと老シヴィを見返って言った。
「普通じゃない衰弱ぶりだ。後二日も保つかどうか」
「無理もない。選ばれた者にすら重き定めの品。ましてただの人間が手にすれば………」
「品?」 サリナスは辺りに目をやり、麻袋に気付いた。
「これのことか?」と手を伸ばしかける。
「触っちゃだめだっ」
突然サフィラが叫んだ。反射的にサリナスの手が退かれる。
サフィラは皆の視線を受けてはっとし、少し赤くなると前よりも落ち着いた声で言った。
「触れてはいけないような気がした。いや、触れたくないんだ。……何を言ってるんだろう、私は……」
老シヴィとマティロウサは微かに目を合わせ、またそらした。
マティロウサはサフィラの肩に腕を回して二、三度軽く揺すった。
「お前はもう少し休んでおいで。まだ調子が本当じゃないんだからね」
そして、サリナスの方へ体を向けると、
「さあ、氷魔、このお人を寝台へ運んでおくれ。そっとだよ。あたしは薬を合わせるから。シヴィ、あんたも来とくれよ」
「うむ」
老シヴィが老人の麻袋をすっと手にしてマティロウサの跡に続いた。
サフィラは気付いたが、何も言わなかった。
老いた旅人は死んだように目を閉じ、寝台に横たわっている。
『魔』に取り憑かれた哀れな男の最後の平安がそこにあった。
(第二章・完)
→ 第三章・悪巧み 1 へ
突然、老シヴィがすっと音もなく立ち上がり、眼差しを宙に向けた。
その目にはこれまでの穏やかな表情とは打って変わった真摯の相がまざまざと浮き立ち、それが見る者に厳格なまでの畏怖の念を与える。
部屋中がこの魔法使いの一挙一動に緊張した。
老シヴィは探るような視線で部屋を、部屋の壁を、そしてその向こうにある何かを見透かすように佇み、身動ぎもせずに言葉を発した。
「……時、満てり」
その声は、長年の友であるマティロウサですら聞いたことがないような厳しい調子を含んでいた。
「時、満てり。
かの古の時代より悠久の時を経て、今ここに伝説はその不可視の扉を破りて現実となる。
約束事の期は満ち、目覚めるは、かの魔道の者とその生み出せし七と一つの奇しき水晶。
水晶が古の騎士を呼び、騎士が水晶の後を追う。
目覚め。大いなる七と一人の騎士達の目覚め。
この者達の心にかないし勇士達、伝説を担いて上つ代の幻を破らん。今、まさにその時なり……」
老シヴィは言葉を切った。
誰も物音一つ立てなかった。
身動きすら出来なかった。
小柄な老魔法使いの口から出た言葉は呪縛のように皆の体と心を絡め取った。
静寂の中でどこからか押し寄せてくる不安の念を、サフィラは密かに感じ取っていた。
老シヴィが紡ぎ出す詩の言霊が、サフィラの四肢にからみつき、浸透してくる。それは、つい先ほど感じた灰色の闇の空気に似ていた。
サフィラの意識の中に先ほど見覚えたイメージが浮かび上がった。
灰色の闇にたたずむ、春の陽射しの髪と厳しい眼を持つあの麗人。
かの白銀の鎧を纏った女騎士の姿。
騎士は相変わらずサフィラを叱るような目付きで見た。
沼にも氷が張ることがあるのだろうか。もし在るとすればそれは今の騎士の眼差しにも似た輝きを放っているのに違いない。その深い視線に貫かれながらサフィラはぼんやりと思った。
女騎士の唇が微かに動く。そこから発せられる筈の言葉は直接サフィラの頭の内に響いてきた。
『……水晶が騎士を呼ぶ 心せよ そは汝に近し』
「心……せよ」 知らずサフィラがその言葉を口に出す。
老シヴィは振り返ってサフィラを見た。マティロウサとサリナスが顔を見合わせた。
「またサフィラが変に……」
「しっ」 老シヴィが二人を黙らせる。
サフィラは遠い目をして、すっと片腕を上げ西側の壁を指差した。
「心せよ……そは…汝に近…し………」
「……森じゃ!」
突然老シヴィが大声で叫んだ。
その声でサフィラの意識が強引に引き戻されたらしく、びくりと体を震わせた。
「水晶は騎士を呼び、騎士は水晶を求める。水晶は近い!」
シヴィの目は今やサフィラを見てはいなかった。この場にいる誰の姿も目には入っていなかった。
老魔女の暗い部屋の壁を、いや、壁を越えてより遠くの何かを見ていた。
他の者には見えない何かを。
「森じゃ。ここから西に茂る森の抜け口に男がおるのが見える。その者は『運び手』じゃ。早う救わねば命の火が失われてしまう!」
言うが早いか老シヴィは早口で何事か呪文を唱え始め、途端にこの老いた魔法使いの姿は煙のように空に消えた。
「老シヴィっ。一体……」
「翔んだんだよ」
サリナスの叫びにマティロウサは事も無げに答えた。
しかし、この老魔女ですら老シヴィの唐突さに舌打ちした。
「西の森というと、彼方森か。男? 一体何がなんだか……ええい、あたしにあの老いぼれ程の力があれば……」
悔しそうに老魔女はつぶやいた。サリナスに至っては、何が起こったのかも分からずに、ただ驚きの表情を隠せずにいるだけだった。
サフィラは相変わらず遠くを見る目で呆然として動かない。
→ 第二章・兆候 20 へ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マティロウサ手ずから煎じた薬草茶の心地好い刺激香は、サフィラを幾分か落ち着かせるのに役立った。一度に飲み切るには少し熱すぎたがサフィラは構わず一気に喉の奥へと流し込む。既に二杯目、喉の奥が火傷しそうだったが、かえってそれが快かった。
マティロウサが気遣わしげに尋ねる。
「どうだい、少しは楽になったかい?」
「うん……さっきよりは」
自分が一体どうなったのかをサフィラはよく覚えていなかった。
サリナスの家に居た筈の自分がいつの間にやら魔女の家の薄暗い部屋の中に身を横たえていたことも、自分では理由が思い付かなかった。
「詩の話をしていたのは覚えているか? ほら、あのマティロウサに借りてあった古文書の……」
一杯目の薬草茶を飲んでいる時にサリナスが話してくれた。思いがけぬ大魔法使いの老シヴィを目の当たりにすることが出来て、この若い魔道騎士は少々うわの空気味ではあったが、それでもサフィラの身を案ずることは忘れなかった。
「あの詩を読んでいる時、お前真っ青な顔をしているのに気づいた。声をかけようとしたら急に気を失ったんだ。いや、気を失ったというよりも、体から魂が抜け出てしまったような、そんな感じだった。何しろ意識は戻らない、体は死人のように次第に冷えていく、という具合だったからな。それでマティロウサの所へ運んだんだ。本当に死んだのかと思ったんだぞ、俺は」
「勝手に人を殺すな」 サフィラは苦しげに笑って答えたものだった。
今でこそかなり回復してはいるが、目覚めた直後にサフィラが感じた疲労と苦痛は、実にこのまま死出への旅に赴いた方がまだ楽なのではないかと思わせるほどにサフィラを苛なんだ。
見えない手に心臓をきつく掴まれ、喉を締められ、口を塞がれているような圧迫感を全身に受け、マティロウサやサリナスにすらどうすることも出来なかった。
「自分の能力以上の魔道を行って危うく死にかけた魔道騎士を今まで何人か見たことがあるけれども、まるでそれに劣らぬような力の消耗ぶりだね」 マティロウサは言った。
「落ち着いたみたいだけど、何でこうなったのか自分で分かるかい?」
マティロウサの問いに、サフィラは薬草茶の入った茶碗に両手を回して温もりに触れていたが、やがてぽつりぽつりと語り出した。
「……よく分からない。ただ……あれは全て夢だったのだな。あの光も、あの人も。全て夢……。あの詩の中に密かに記された呪文の韻律が夢を、悪夢を呼んだんだろうか」
「どんな夢を……見なすったかね?」
枯葉の声で老シヴィが尋ねる。サフィラは老シヴィの瞳をじっと見返した。
「どんな夢かは貴方の方がよくご存じだという気がする。何故だろう」
老シヴィは何も言わない。
サフィラは言葉を続ける。
「先程ここで見た幻視が、今度ははっきりと形を取った。ある物に。それは凶々しく鮮烈で、しかも忌まわしいまでに美しかった。見てはならぬと強く自分に言い聞かせながらも私はそれから目を離すことが出来なかった。まるで『魔』に魅入られた無力な人間のように」 サフィラは老シヴィを見た。
「あれは、水晶のようだった」
その言葉に、マティロウサは体をびくりと震わせた。それに気づいたサフィラは問うような視線を投げかけたが、魔女は口を閉ざしたままだ。
「あれは危険だ。何故かは知らないがそんな気がする。何かが私にそう言っているのだ。そもそも老シヴィよ、あれは一体何なのだ? 何故私に反応し、私を苦しめる? まるで私を嘲笑っているかのような、あの幻は一体何なのだ? 貴方は知っているんだろう、老シヴィ。マティロウサでもいい、あの古詩は何を意味する?あの詩が予見だとすれば、それは私にどう関わってくる?」
サフィラの口調は冷静であった。
しかし、その裏にはその冷静さと同じくらいの重さの激しさが隠れていた。
老魔女は眉根を寄せて苦しげな憂悶をその面に浮かべ、助けを求めるように老シヴィを見た。
老いた魔法使いはじっと目を閉じ、口も開かず、ただ杖に身を預けて物思いに耽っている。しばし沈黙が部屋の空気を支配した。
→ 第二章・兆候 19 へ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
突然、その老いた旅人は狂おしいまでの憎悪とそれに匹敵するような歓喜を心に覚えた。
それが自分の胸の内から出た感情ではないことを、旅人は気の触れた頭の片隅で分かっていた。
相反する二つの思いは、旅人が背に持つ麻袋から波動を発している。それは余りにも強烈で、その荷の持ち手にすら影響をもたらす程の力だった。
旅人は体を震わせた。
狂人と成り果てた今、彼にとって味方となるものは何もなく、大いなる力の前に為す術もなく操られるがままの命であった。
捕ラエタ。
旅人の心に一つの思念が響く。それは人間の言葉の形を取った意識の塊だった。
捕ラエタゾ。遂ニ。
捕らえた? 何を?
急ガナケレバ。
急ぐ? 何の為に?
アイツニ邪魔ヲサレル前ニ。
あいつ? あいつとは誰だ?
二つの思考がそれぞれ分散する。
老いた旅人の中に残された僅かの意識が麻袋へと流れ込む。流れ込むと言うよりは、圧倒的な力で吸い取られていくような、そんな感覚に近かった。もはや旅人にはその場に体を支えていられるだけの脚力もなく、投げ捨てられた石塊のように地面に膝をついた。
何も彼も奪っていく。
狂喜の淵に浸った頭の中で旅人は漠然と考えた。
考える自由だけは辛うじて未だ残されていたのだ。
こいつは自分から何も彼もを奪っていく積もりなのだ。あらゆる者、あらゆる人、あらゆる力。
そして、見よ、今こいつは地を歩く力さえも私から盗み去ろうとする気だ。
他の何の為でもない、こいつの為に私は安らぎすら許されず前へ、ただひたすら前へと進むことを強いられているというのに、それを知っていながらこいつは私の足すらも奪おうとしているのだ。
「私を解放するのが惜しくなったと見えるな」
狂える老いた旅人は笑った。
「だが、お前……」
地面に体を倒したまま、旅人は投げ出された麻袋を乱暴に掴んだ。
今度は中を覗こうともせず、固く絞られた袋の口を更に二、三度強く紐で巻き締めた。
汗ばんだ顔には苦しげな笑いに混じって、倒れた際にぶつけた地面の土が張り付いている。
「私にこの場で死なれて困るのはお前ではないのか? え? お前はあそこに行きたいのだろう? ほら、こうすればよく見えるだろうが、どうだ」
旅人は袋の口を握って、震える手を延ばし出来る限り高く差し上げた。
夕闇もそろそろ近くなりかけた空の下、ヴェサニールの街外れに建つ数軒の家の灯りが、その中に人が住まう証しであるかのように白く光り始めていた。彼方森を漸く抜け出した旅人が数ヵ月振りで目にする街の情景が、自分が倒れている道の先に連なっていた。
「あの街灯りの元へ行きたいのだろうが。そこで新しく犠牲となる者を探すのだろうが。私をここで潰したら、あそこまで一体誰がお前を運ぶのかね。自分の足で歩くことが出来ない以上、お前だってここに立ち往生だ、そうだろ? それとも……この状況の元でお前はただ私をいたぶりたいだけなのか? どうなのだ?」
旅人はもはや虚ろな瞳をしてはいなかった。
背筋が凍るような激しい視線の内には燃え盛る炎が火を弾いていた。
狂気の中の正気。狂気ゆえに生まれる理性が彼の中にはあった。
「お前は私に進めと言い、それなのに私の歩みを奪おうとする。そして私は進まなければ平穏を手に入れること能わぬというのに、何という事だ、足を運ぶ力をお前に掴まれてしまっているのだ。どうやらお前は私に平穏を与える心積もりは永久にないらしいな。人の心が平らかになるのを見るのはそんなにも気にそまぬか。やはりお前は魔だな。災いや不幸が何よりも好きな魔物だ……」
次第に疲労と苦痛が旅人の老躯を襲う。
既に起き上がることも適わなくなった旅人は、失いつつある意識の中で、地面に落とした袋から流れ出る思念のかけらを朦朧として感じ取ったような気がした。
ソノ通リ………
闇が迫っていた。
→ 第二章・兆候 18 へ
見知らぬ人影がサフィラの目の前に佇んでいた。
灰色の闇の中、その人は目の覚めるような白銀の帷子を全身に纏い、光を通さぬ薄闇の中で自ずと眩く輝きを放っていた。腰に下げた長剣の柄が帷子に触れて金属質の音を立てる。
春の陽射しを映したようなプラチナ・ブロンドに縁取られた顔は気高き女騎士のそれであったが、その比類無き美しさは人間が持ち得る物では決してなく、見る者に鮮烈な印象を与えた。それは凄絶な美貌だった。
女騎士は、人知れぬ森の奥に潜む沼のような深い緑の瞳でじっとサフィラを見た。
厳しい表情と突き刺すような視線がサフィラの心を掻き乱す。
貴女は誰だ?
口に出すよりも早く、サフィラは心の中から問いかけた。
人間か、或は人間ならぬもの、今はすでに絶えた妖精の類いか。
魔物には見えぬ。
魔物にしては瞳が真摯で厳格である。そう、例えて言うなら上つ代の伝説に現れる女神のような。
サフィラの問いが届かなかったのか、それとも聞こえはしたが故意に無視しているのか、女騎士はひたすら矢のような視線をサフィラに注ぎ、やがて、ついと目を逸らした。そして銀に輝くマントを翻してサフィラに背を向けたかと思うと、見る見る内に姿が薄れ、遂には空気に溶け込みでもしたかのように消えてしまった。
サフィラは驚きはしなかった。
この灰色の世界の中では全てが幻のように感じられ、人が忽然と姿を消すことも何ら不思議なこととは思えなかった。
それよりも、あれは誰だったのか。その思いだけがサフィラの中に残った。
予知にしてはあの輝く女騎士のイメージは余りにも鮮やかだった。
彼方からの呼び声がサフィラの物思いを破る。
さっきからサフィラの名を呼びかけているあの声だ。
サフィラはもう一度目を閉じた。
体がゆうるりと声のする方に流れていくが、声は少しも近くならない。幾重にもサフィラを取り囲む靄のあちら側から研切れ研切れにその声は届く。
サ…フィラ……サ………フィ…
遠くから、彼方から聞こえる声。
誰の声だろう。一人ではない。幾人もの声がする。
誰だろう。その声の主らを私はよく知っている筈だ。
遠くから、彼方から聞こえるあの声。
遠くから聞こえる……遠く……遠く?
「……違う。近いっ」
サフィラは思わず叫んだ。
途端に耳元で色々な音が交錯した。
紙が重なる音、臘燭が燃える音、陶器が触れ合う音、布が擦れる音、水の滴が落ちる声。
そしてそれに重なるようにして、声が思いがけず近くで聞こえた。
「サフィラ、サフィラっ」
不思議と切迫したようなその声にサフィラはゆっくりと目を開けた。
灰色の闇の代わりにぼんやりとした臘燭の明りが目に映り、サフィラは見慣れた部屋の中で三つの顔が自分を取り巻いているのを見た。
どれも見慣れた顔である。
一つは老女、一つは黒髪の青年、そしてもう一つは穏やかな笑みを浮かべた老人の顔だった。
→ 第二章・兆候 17 へ