J は、先ほど屋敷の前で会った2人の男のことを、ふと思い出した。
1人は褐色に近い肌の色をした男で、
短く刈り上げた髪と明るい目元が年若い印象を与えていた。
しかし、J の興味を引いたのは、もう一方の男だった。
片割れよりもかなりの長身の、黒髪の男。
間近で顔を見た時に薄い青の瞳が凍えた光を放っていた。
他人を圧することに慣れている、そんな空気が男からは滲み出ていた。
頬にある傷が、ただでさえ強面の男に凄みを与えている。
平穏な生活の中では決してお近づきになりたくないタイプの男だ。
元・マセナリィかな。J はぼんやりと考えた。たぶんそうだろう。
男の雰囲気からは、そうでない理由を探す方が難しかった。
J の予想通りだとしたら、男は恐らくかなり上等の働きをしていたに違いない。
男の周囲に漂う空気感が、それを物語っていた。
体格の良さをダークスーツに包み、さり気ない風を装っていても、
目の鋭さ、身のこなし、気配のいなし方は隠せない。
男達がまるで場違いな物を見る目つきで自分を眺めていたのを思い出して、
J は今さらながら少しムッとした。
だが、自分自身のいでたちに目を落として、まあ仕方がないか、と諦める。
長年愛用してきたコートと革パンツは、
布の撚れ方にも年季が入り、どこから見ても古着感が否めない。
装飾品も身につけないシンプルさは、ダウンエリアをぶらつく分には問題ないが、
小奇麗にまとまったこのブロックの中では、ラフすぎて悪目立ちするに違いない。
笥村邸の客人としては、これ以上ないくらい相応しくない風体である。
これでは誰何されても仕方のないところだろう。
恐らく、麻与香の口利きがなければ、 敷地内にほんの一歩でも入り込めたかどうか。
しかし、主の許可が出ている客人に対して、
使用人が用向きを疑うのは 『詮索』 に近い。
その点においては、差し出口を叩かないよう教育されているらしい。
もっとも、仮に 『何の御用でしょうか』 と冷たく問われたとしても、
J にとっては、それこそ答える必要がない質問である。
恐らく、男達に向かって、こう吐き出すだけだろう。
それは麻与香に聞いてくれ。
こっちは好きで来た訳じゃないんだから。
J は頭の中に、緩い痛みがじわりじわりと襲い掛かってくるのを感じていた。
『突然起こる鈍い頭痛は、厄介事が始まる前兆』。
J のジンクスである。
これまでの経験から考えると、当たる確立はかなり高い。
さて、今回は何が始まるのやら。
J は心の中で皮肉めいた呟きを吐いた。
麻与香が関わっているのだ。ロクなことにならない筈がない。
待つのに飽きてきた J のタイミングを見計らったかのように、部屋のドアが静かに開いた。
J が目をやった先には、いかにも人の良さそうな老人の姿が立っていた。
「いらっしゃいませ」
という挨拶にも落着きと品格が滲み出ている。
笥村家の使用人頭、もしくは執事といったところだろう。
老人は愛想のよい笑顔を J に向けた。
→ ACT 3-10 へ
「しかし、とても麻与香さんの御学友には見えませんね。ずっと年下に見える」
「東洋系 - イースタン - の年齢は分からないからな。
女は化粧で変わるから尚更だ。たいていは実際より若く見える」
言葉を切って、阿南がちらりと仁雲の顔を見た。
「……言っておくが、年相応よりも若く見える点ではお前も人のことは言えんぞ」
「そ、それは言わないでくださいよ」 仁雲は思わず顔をしかめた。
「自分、結構気にしてるんですから」
マセナリィとしての輝かしい経歴に似合わぬ童顔は、
今も昔も仁雲の悩みであり、阿南が仁雲をからかう一番のネタでもある。
「それにしても」 と仁雲。
「やっぱり単一民族なんでしょうね、あの髪と目は」
「さてな」
阿南自身は女の単一ニホン人の特性を確信している。
しかし今の時代、髪や目、話す言語だけでは出生国を定義する条件にはならない。
他国からの流民は今やニホン中に溢れ返っている。
仁雲のように帰化する者も少なくないのだ。
何代も前から住み着いて血が交ざり合えば、純粋とそうでない者の区別は難しい。
「……さあ、詮索はいい加減に打ち切って仕事に戻るぞ」 阿南は姿勢を正した。
ムダ話をしているところを主任に見られると、後がうるさい。
今日はいつもより機嫌が悪そうだからな」
それもそうですね、と仁雲も肩をすくめて定位置に戻る。
そして、再び門前の番犬に戻った2人である。
しかし阿南のアイスブルーの目には、
たった今、豪奢な屋敷の中に消えた、胡散臭い黒髪の女の後ろ姿が
何故かしっかりと焼きついて、しばらくの間離れそうになかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何なんだ、このやたらとデカい家は。
2人の護衛の間で軽く話題の的になっているとは思いもよらず、
『胡散臭くて上流階級には見えず、キツくて、どこかヤバそうな女』、つまり J は
笥村聖の邸宅に足を踏み入れた時点で、既に半ばウンザリ気味だった。
見る者に尊大で傲慢な印象を抱かせる大仰な屋敷。
これでは世に多くある有力者と変わらない。
笥村聖も自分の力を社会に誇示しないと気が済まない性分の人種なのか。
総帥とも呼ばれる男が持つ俗っぽさの表われと思えば、
まあ、可愛らしいと言えなくもないが。
J は善意からでなく、自分を納得させる為にそう思い込むことにした。
「こちらでしばらくお待ちください」
J が通された部屋は、
有産階級はかくあるべき、という世間一般のイメージを裏切らないほどには
豪勢な雰囲気を醸し出していた。
J はテーブルの上に灰皿があるのを確認して、
コートのポケットから煙草を取り出した。
階級と資産のある人々が住まうセンターエリアのブロックに足を踏み入れるのは
J にとって数ヶ月ぶりのことである。
麻与香の招待に喜んで応じる訳ではなかった。
だが、とりあえず情報集めの第一歩として、J は笥村家の本邸を選ぶことにした。
何度来ても、この辺りの景色や空気は J の心に馴染まなかった。
J 自身がハイクラスの人々に対して謂れのない反感を抱いているせいでもあり、
同時に、この場にそぐわない者の侵入を拒むかのような寒々とした疎外感が
ブロック全域に漂っているせいでもあった。
おまけに、久しく呼ばれていない 『フウノ』 という名前を何度も連呼されたことが、
J の精神的な疲労感に追い討ちをかけていた。
→ ACT 3-9 へ
「すいません、阿南さん。今の人の名前、思い出せなくて……」
仁雲の謝罪に対して、阿南の反応は特にない。
人名の覚えが悪いのは、仁雲にとって今に始まったことではない。
「えーっと、ミス……フウノでしたっけ? なんか……胡乱な感じの人ですね」
「お前もそう思ったか」
いつもなら阿南は自分の相棒の観察力や直感力をあまり当てにはしていなかったが、
この時ばかりは仁雲の言葉に賛成した。
「確かに、この家に群がる高価な宝石や衣装の話が得意な人種じゃなさそうだ。
ちょっと堅気ばなれした雰囲気だった」
決して上流階級ではない。
かと言って、強請り、たかりなどを生業とするような輩にも見えない。
阿南を見返した女の真っ直ぐな瞳には、凶悪や剣呑の欠片は見当たらなかった。
仁雲が相槌を打つ。
「阿南さんもそう思いましたか?……どういう女ですかねぇ」
「分からん。前もってミヨシの爺さんに聞いてなけりゃ、
門をくぐる前に追い返したかもしれんな」
阿南はあながち冗談でもなさそうな口振りで答えた。
「でも、美人ではありましたね。ちょっとキツイ感じですけど」
「まあ…な」
仁雲の言葉に、阿南は曖昧に賛成した。
確かに美形といっても良い顔立ちだった。
そこらを歩いている女達を10人適当に集めて、
その中にいたなら、まず最初に目を引く女に違いない。
だが、阿南の目を捉えたのは、それだけの理由ではない。
美醜では片付けられない、独特の雰囲気が女を取り巻いていたせいだ。
「お前、ああいうのが好みなのか?」
「好みというか、自分は美人は皆好きです」
「……」
阿南は小さくため息をついた。
仁雲の女好きは今に始まったことではない。
元・軍人にして元・マセナリィであった技量はそこそこあるにもかかわらず、
女に対してかなり無防備だ。
付け加えれば、無節操なところもある。それがこの男の欠点だと阿南は思っている。
何しろ、雇い主である笥村聖の若い妻にまで好奇を抱いているのには困り者だ。
「……だが、仁雲。美人といっても、今の女みたいなタイプはちょっとヤバいぞ」
「ヤバい? どこがですか?」
「勘だ」
そうとしか言いようがない阿南である。
女と視線が合った時に感じた奇妙な感覚は、ある種の 「ヤバさ」 を伝えていた。
しかし仁雲は、
「そうですかねえ?」 と、阿南に目を向ける。
「でも、自分、結構ヤバイ女って好きですけど。 何か、こう、緊張感があるというか……」
「女の趣味にケチをつけるつもりはないがな。
お前の為に忠告しておくと、あの手の女は止めといた方が無難だぞ。
お前は結構根が単純だから、いいようにあしらわれるだけだ」
「そんなことありませんよ。 一度くらいなら、ああいう女にあしらわれてみたい気もします」
「お前はいつかきっと女で身を滅ぼすな」
女に入れ込むタイプは、これだから。半ば諦めたように阿南が言う。
→ ACT 3-8 へ
距離が縮まるにつれて、2人の目に女の外見が明確な形をとって映り込んでくる。
「阿南さん、奥様の友人というには、あの人何だか……」
仁雲は言葉を切ったが、その言わんとするところは阿南も理解した。
女が無造作に羽織っている生成りのコートは遠目にも色あせて見える。
それは、まるで長年着古した印象を2人に与えた。
対照的に黒いTシャツと同じく黒い皮の光沢を持つパンツ。
女に似合っていないわけではないが、
個性や好みという点を無視して女のいでたちを客観的に見てみれば
それはダウンエリアの住人以外の何者にも見えなかった。
仕事柄、上流階級と呼ばれる人種を嫌と言うほど見慣れている2人である。
その2人から見て、女は笥村の客人としてはおよそ似つかわしくない胡散臭さを引きずっていた。
しかし逆に、そのことが阿南の興味を引いた。
身なりのみすぼらしさに反して、女はなかなか目を引く容貌をしていた。
まっすぐな黒髪が、歩くたびに肩の辺りで波打っている。
切れ長の瞳は髪の色と同じく黒く、思いがけず白い肌を際立たせていた。
まるで忍び足で近付く猫のようだ、と阿南は思った。
恐らく単一のニホン人種に違いない。今時珍しい、と阿南が思った瞬間。
女と阿南の目が合った。
女の目を見た瞬間、奇妙な感覚が阿南を捕らえた。
アイスブルーの瞳がすっと細くなる。
女は驚くほどまっすぐな瞳で阿南を見返した。
鋭く、切れ味のよい黒曜石に似た瞳だ。
観察とも値踏みともいえる視線を、2人に、とりわけ阿南の方へ向けていた。
何か引っかかる。
阿南は女が醸し出している雰囲気が気にかかった。
何だろう。
声をかければ届く位置まで女が近づいた時、仁雲が一歩前に出て、
失礼に当たらぬ程度に女の前に立ちはだかる。
「失礼ですが、ミス、あー……」
流暢なニホン語ではあったが、
それ以前に、客人の名前を未だ思い出せない仁雲は、つい口ごもった。
仁雲の背後から、阿南が慇懃に言葉を発する。こちらもニホン語だ。
「ミス・フウノでいらっしゃいますか?」
問われた女は一瞬複雑そうな表情を見せたが、
「……そうだけど」
と簡単に答えた。
囁くような、低い声が阿南の耳を打つ。
「そちらはボディガードってやつかな?」
問いかけとも独り言とも取れる女の言葉の中には、
やや小馬鹿にするような微笑のトーンが含まれていた。
阿南はそれを無視して型通りの言葉を返す。
「奥様から伺っております。どうぞ、お通り下さい」
女は何か言いたげな視線で阿南と仁雲を見比べていたが、
やがてついと目をそらして笥村邸の玄関口へと向かう。
呼び出し口で名を告げ、現われた使用人に導かれて、
女はそのままドアの内側に吸い込まれていった。
→ ACT 3-7 へ
やっとです。
ブログのアクセス数が、ようやく1000を超えました。
今までたくさんの方に見ていただいて、多謝多謝。
最近特にアクセスが増えてきて、私としてはうれしい限り。
なのですが。
同時に、ちょっと怖くもあります。
というのは、日記はともかく、小説を見に来られる方々も
やはりいらっしゃるわけで。
そして、こちらとしては、小説を読まれた方に
「ああ、今日も面白かったね」と思っていただきたいわけで。
果たして、この先、そんなふうに面白いと思ってもらえる話を書き続けていけるのか。
それが怖いですね。
最初は単純な気持ちで始めた小説ブログなので、
まあ、アクセスもそんなにないだろう、自己満足でいいや、と勝手に思っていたんですが
ちょっと欲が出てきた今日この頃。
書くことが好きだから、
自分の書いたものを読んで「面白い」と思ってもらえれば、単純にうれしいし、
読んで「つまんねー」と思われれば、単純にヘコむし。
やっぱり、面白いと思われたい。
まあ、微々たる欲ですけどね。
しかし、自分でも思うけど、何でこんなに書くことが好きなのか。
昔は読書感想文が苦手で苦手で、大嫌いだったのに。読書は大好きだったけど。
今では、いつのまにか、
書いていないと落ち着かない体質になってしまいました。
でも、気力は昔のままだけど、
考え続けたり、書き続けたりする体力は次第に落ちてきて、
そこが加齢の悲しいところか?
このパワーダウンが、
ワタシの恐れている「つまらない話」につながらなければいいんですケド。
まあ、それはともかく、
これからも読み続けてもらえるような話を書けるようにガンバろう、と思っています。
これまで読んでくださった、1000アクセスの中のあなた、
そして、初めてこれを読んでくださったあなた、
これからもよろしくお付き合いくださいませ。
仁雲が幸運かどうかについて、阿南は反論も含めて特に何も言わなかった。
部下の心境を推し量ることは阿南にも容易にできた。
ただ、それを理解あるいは賛同できるかどうかは、別問題だった。
逆に、自らをラッキーと言う仁雲が、阿南の心情を察することはできないだろう。
仁雲と違って阿南はかつての自分を恋しがっている。
恐らく再びキナ臭い世情になれば、阿南はすぐに笥村家を辞すだろう。
そして、争いの予兆が渦巻く中へ飛び込んでいくだろう。
それは仁雲にはもう二度とできない生き方である。
闘うという本能が阿南の中には未だにくすぶっている。
それは恐らく一生自分の中に存在し続けるのだろう。
救いようがない。
阿南は再び自嘲せざるを得なかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「阿南さん」
仁雲の呼びかけが、物思いにふける阿南を現実に引き戻した。
見ると仁雲の視線が、街路に面した笥村邸の外門の辺りに向けられている。
阿南は仁雲に倣って、目を向けた。
女が一人、立っていた。
阿南は急速に自分の職務を思い出し、姿勢を正して正面から女の姿を見つめた。
外門から屋敷の入り口までは、弧を描くようにレンガを敷きつめた道が続いている。
その道の一方の端に阿南と仁雲が、その逆の端に女がいた。
女はしばらく門の外から屋敷の様子を眺めていたが、
やがて、ゆっくりと2人の護衛がいる方へ向かって歩き始めた。
その足取りは落ち着いていて、淀むところがなく、
天下のハコムラ・コンツェルンの根城に踏み入れたことへの躊躇も畏怖も感じられない。
「誰ですかね、阿南さん」
不審そうに女に目をやる仁雲に、阿南は素っ気なく答えた。
「執事のミヨシが言ってただろう。近々客人があるってな」
「……ああ、奥様のご学友とかいう。あの人がそうなんですかね。
なんて名前の客でしたっけ? ええっと……」
客人を誰何するべき役目の人間が発する言葉とは思えない、頼りなげな後輩である。
仁雲には答えず、阿南は徐々に近付いてくる女の姿を見据えた。
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