「フウノ。あたしはあんたに頼みたいのよ」
麻与香の瞳の中には執着と懇願と挑戦が奇妙に同居していた。
西洋煙草の華奢な煙が J の視界をよぎる。
「……考えとく」
目の前で微笑む美しい厄病神の横っ面を張り倒したい。
そんな衝動を押さえて、J にはそう答えるのが精一杯だった。
「考えるなら前向きにね」
そう言いながら麻与香は再度バッグの中から白い封筒を取り出し、
無造作にテーブルの上に放った。
「依頼料とは別に、当座の経費にしてちょうだい」
触れてみなくても封筒の厚さから中身が知れる。
経費だけで、いつもは J には手の届かない上等なワインを箱買いできそうな額だ。
金払いのいい客はありがたい。だが、よすぎる客は要注意だ。
これは J の教訓である。
「金に関しては用意がいいね」
J は苦々しげに言った。
「さすがは天下のコンツェルンだ」
「アンタが金で動くとは思ってないけどね。一応、それなりの金額はあると思うわ」
「……」
実は、困ってる時なら迷わず金で動く J である。
そして、現状は、どちらかといえば困っている。
だが、麻与香の前では決してそんなことを口に出せず、J は複雑な表情を見せた。
「……金を用意してくるってことは、あんた、あたしが断るかも、なんて最初から考えてないだろう」
「あら、アンタの意志は尊重するわよ、一応ね。でも、アンタはきっと引き受けるわ」
「……」
「『慎重』 なアンタが考える気になったんだから OK したも同じよ。あたしにとってはね」
「……あたしの 『慎重さ』 が悪いクセなら、あんたの場合は 『根拠のない確信』 がそれだね」
「そうかもね。ふふ、あたし達、二人で両極端ね。今も昔も」
麻与香は他人事のように笑った。
その後、J は捜査を進めるために、さらにお決まりの質問を幾つか投げかけた。
「一応、亭主が消えた時の状況も聞いときたいんだけど」
「やっぱり受けてくれるのね」
「それは別。念のため聞くだけだから」
「慎重ね」
麻与香はまた笑った。
「どの程度まで話す?」
「話せる範囲で」
「OK。7月末、正確には7月29日。聖は傘下にある企業を視察に出ていたわ。
最近売り上げが落ちている企業が幾つかあって、まあ、その状況確認ってところね」
「視察に同行していたのは?」
「主席秘書の狭間と、他は役員が数人。
聖は大人数で動くのが嫌いだから、いつも4、5人ぐらいね」
「視察先は?」
「確か薬品会社とか……詳しくは聞いてないけど3社くらいあった筈」
「その3社には、ちゃんと顔を出してるんだね、あんたの亭主は」
「そう。連絡が取れなくなったのは、視察の後なの」
そして、その日の帰宅予定になっても姿を現さず、
以来、笥村聖は麻与香の言葉を借りれば 『消えて』 しまったのだという。
「でも、実はそんなに心配してなかったのよね、その日のうちは」
「何で」
「聖って、予定外にフラフラ歩き回ることが結構あるのよ。勿論お忍びでね」
「取り巻き泣かせだな」
「まあね。トップに立つ人間の行動としては誉められたものじゃないけど、
縛られるのが嫌いな人だから、気が向いたら一般人の格好に変装してよく出歩いてたわ。
そういう子供っぽいところがあるの、あの人。メディアに出るのは嫌いなくせにね」
「……」
現代のカリスマが、実は 『子供っぽい』 人間だった、という事実は
下世話な週刊誌のネタくらいには売れそうだが。
神秘性が囁かれる裏で、笥村聖という男は単に 『分別がない』 人間に過ぎないのかもしれない。
それを考えると、聖が麻与香と相性が良いというのも、何となく理解できる J である。
→ ACT 2-11 へ
「他に聞きたいことがなければ、あたしも聞くけど。受けてもらえるのかしら、この依頼」
「……」
すぐには J は答えなかった。
麻与香を信頼できる女だとはさらさら思ってはいない。
これまでの会話で一層その思いは深まった。
マトモな依頼じゃない。J は確信している。何かあるのは必至だ。
「気に入らない」
「どこが」
「ハコムラのヘッドが消えて何の動きもない世の中。
夫の不在に動じる様子も見せない妻。
ハコムラの名を出せば必要以上の捜査も厭わない諜報機関を無視して、
ダウンエリアのしがないオフィスを訪れた権力者。
……どう考えたってアヤシいことだらけだ。依頼を受けたが最後、ハマりそうな気がする」
「考え過ぎるのはアンタの昔からの悪い癖よ」
「慎重なタチでね」
J の言葉を無視して、麻与香は一目見て高価と判るバッグから小切手を取り出して机に置いた。
「現金で800万。勿論、イェンで」
「はっ……」 予想外の金額に、J は思わず絶句した。
「……ぴゃくまん……?」
J は目の前に置かれた薄っぺらな一枚の紙を凝視した。
価値だけなら J の事務所ビル全体の中で今のところ一番大きい。たかが紙切れの癖に。
ニホンの通貨であるイェンは、今や世界で最も信用のおける基準貨幣となっている。
金額も文句のつけようがない額だ。
文句どころか、普通なら 「引き受けた!」 と嬉々として即答してもおかしくない状況である。
普通なら。
だが、依頼人が。そして、依頼内容が。
そこが問題だった。
J は心の中で忙しなく計算機を叩いた。
先月から滞納している家賃が気にかかるが、
麻与香からの費用をそのまま当てれば、充分間に合う。
だが、麻与香の話には、どうも裏がありそうだ。
この女の腹の内に隠されているかもしれない秘密を推測すると、合計値はどうしてもマイナスになる。
「必要経費はその都度請求してちょうだい。
我が家への出入りは自由よ。家の者に言っておくわ。必要なら人手も貸すわよ。
それから、亭主の秘書長だった人間にも話はつけておくから。狭間(ハザマ)っていう男よ」
「……至れり尽くせりでヒジョーに有難いところだけれど、気に入らないのは変わりないねえ」
「フウノ」
突然、麻与香はカレッジ時代の J の呼び名を口にした。
あの頃と同じ調子で、厄介なことを頼むように、面倒を押し付けるように。
夜の街に誘い出す時のように。
歩いている後ろから声をかける時のように。
J の頭の中をフラッシュバックがよぎる。
『フウノ』 『フウノ』 と、何度呼び止められたことか。
何度無視したことか。それでも抗いきれずに、結局、何度振り返ったことか。
振り返ると、そこにはいつも麻与香の微笑みと宝石のような瞳が待っていた。
とびきり上等のブラック・サファイアのようなキツい目が。
何年もの時間をトリップして、今 J の前には当時と少しも変わらない麻与香の瞳があった。
→ ACT 2-10 へ
J は数本目の煙草に手を延ばした。
麻与香が言葉を続ける。
「亭主がいなくなったことは、当然ハコムラの中でもトップ・シークレットなの」
「そりゃそうだろう。何といっても、ニホンの政財界を背負って立つ男の行方不明だもの。
逃げた女房の捜索願いを警察に出すのと同じ訳にはいかないだろうし。でも、だったら」
きつい目で J は正面から麻与香を見据えた。
「何故ウチに? センターエリアには優秀な諜報機関が山ほどあるだろうに。
それを無視して、繁盛してない寂れたオフィスを訪れたのは、なんでだ?
それに、他にも疑問がある」
「拝聴するわ。どうぞ」
あくまでも涼しげな表情を美貌に乗せて、麻与香は楽しげに J と視線を合わせた。
一瞬くじけそうになった J だが、何とか言葉を続ける。
「亭主がいなくなったのは7月半ばだって言ったよね。なのに、今は10月の終わり。
この時間差は何なのさ。その数ヶ月間、あんたは何をしていたのか、それが分からない。
それから、もう一つ……愛する男の姿が消えたのに、あんた、何でそんなに落ち着いてるんだ?」
たたみ掛けるように問いただす J に、やはり麻与香は微笑んでいる。
「成程ね。聞きたいのはそれだけ?」
「今のところは」
「そう。じゃあ、まず最初と2つめの質問には一緒に答えるわね。
勿論、幾つかの機関には捜査を依頼したわ。
いなくなってから数ヶ月は、そちらの方で亭主を探してもらっていたの。
でも、有能という評判の割には、結果が出なくてね。
大した成果も挙げないくせに、捜査機関の延長を申し出てきたから、切ったのよ」
その挙句に、J の元を訪れた、というわけである。
普通に考えれば、優秀な機関とやらと J の事務所を比較した時に、
捜査を進める上で取ることができる手段や権力は、恐らく天と地ぐらいに開きがあるだろう。
それなのに、である。
どう考えても、訪れる順番が違うのではないか、と J は考えた。
と言っても、決して真っ先に訪れてほしかった、ということではないが。
「それに、余り複数の機関に手を広げるわけにもいかないでしょ。
秘密を知る人間が増えれば、秘密が漏れる確率も高くなるわ」
麻与香は付け加えた。
「それで、最後の質問だけど」
麻与香は続けた。
「あたし、落ち着いているわけじゃないわ。そう見えるだけよ」
「……」
嘘のうまい女。昔の麻与香はそうだった。今は?
J は麻与香の答えの真偽を図りかねた。
今、この女が口にした答えの数々の中で、事実は幾つあるのだろう。
あるいは、全てが出まかせか。
黙り込む J の姿に、今度は麻与香の方が探るような目を向けて笑っている。
→ ACT 2-9 へ
とりあえず、麻与香の言葉が嘘か本心かは置いておくとして、
J は一応『何でも屋』的なスタンスを取り戻し、麻与香に幾つか質問を始めた。
「……で、亭主がいなくなったってのは、いつから」
「そうねぇ……」
麻与香は涼しげに言った。まるで飼っている熱帯魚の健康状態を聞かれたかのようだ。
「ここ3、4ヶ月ってところかしら」
「3、4ヶ月……3ヶ月と4ヶ月じゃエラく差がある。いつ消えたのかもはっきり判らないってこと?」
「ふふ、もっと正確に言えば夏の初め頃よ。7月半ばね」
「丸々3ヶ月半か。……よくもそんな長い間表沙汰にならなかったもんだ。
世界を手玉に取るハコムラの総帥がいなくても、
実は世の中すべて事もなし、ってところか。皮肉なもんだ」
「主人の補佐をしているスタッフが優秀でね。
最初のうちは替え玉 - ダブル - を使って何とかなってたのよ。
ウチの亭主、表メディアには滅多に顔を出さないから」
笥村聖のメディア嫌いについては、J も何かの雑誌で読んだことがあった。
知名度の割には、テレビを始め、あらゆる媒体での露出度は極めて低い。
そのことが逆に笥村聖のカリスマ性を高めているフシもある。
「でも、そろそろ限界」
麻与香はため息をついて見せた。
「どうやら、スペルの連中が胡散臭く思い始めているらしくって」
スペル。正式にはスペル・コーポレーション。その名は J も最近よく耳にしていた。
ハコムラに次ぐ勢いを持つ外資系の新進企業である。
ハコムラの傘下に入ることを良しとせず、
己の器量だけでハコムラ印の世の中に斬り込んでいこうという、
その心意気は見上げたものだと J は思うが、
いかんせんトップとの差があり過ぎて、二の足を踏んでいる、というのが実情だろう。
「どうも連中、最近ハコムラの周辺を嗅ぎ回っているみたいなのよね。
何を嗅ぎつけたのかは知らないけど」
「そんな状況だったら、あんたがノコノコとダウンエリアにやってきて、
ウチの事務所に顔を出すのはマズいんじゃないの? しかも、たった一人で。
どう見ても、怪しさ満載だけど」
「大丈夫よ。尾行はまいたから」
尾行がいたのか。
J は、初手から避けられない厄介事の匂いを衝き付けられた気がして、さらに気が滅入った。
「護衛もいるし、車は少し離れた場所に止めたから、
アンタの事務所が割れる心配はないと思うわ」
分かってない、この女。
麻与香の自信に満ちた言葉に、今度は J がため息をつく番だった。
たとえ、どんなに身分や素性を隠そうと、
モノトーンの街の中では、麻与香の美貌はどぎつい原色さながらに目立つこと、この上ない。
鐘を鳴らして居場所を知らせながら歩いているようなものだ。
もしも麻与香の懸念が真実だとしたら、
スペルの連中とやらが、この事務所を突き止めるのも、そう先のことではないかもしれない。
そして、依頼を受ける受けないに関わらず、
自分は遅からず面倒な事に巻き込まれることになるのではないか?
J の憂鬱のゲージは、頂点の少し手前まで上がりつつあった。
→ ACT 2-8 へ
厄介な。
至極厄介な、と J は心から自分の不運を呪った。
その厄介事を携えて午前11時前に事務所を訪れた当の依頼人は、優雅に腰を下ろしている。
爪の傷を気にしながら女神然として。
女神? いや、厄病神の間違いだ。
J は心の中で毒づいた。
「……からかいに来ただけなら質が悪いよ、麻与香」
「あら、からかうだけならハコムラの名前なんか出す必要ないでしょ」
「昔のあんたは冗談一つ言うにしても、
必要がないほど度が過ぎることを平気で言い出す女だったからね」
「あら、昔のこと、覚えててくれたのね。嬉しいわ」
別に相手を喜ばせるために言ったわけではない J の言葉に、麻与香はゆっくりと微笑んだ。
麻与香が微笑む度に J は気が重くなる。
これではカレッジにいた時とまるきり変わらない。
麻与香のペースに J が振り回されているだけである。
「じゃあ聞くけどさ……あんたの亭主は 『本当に』 いなくなったっての?」
「本当も何も、どこ探したって影さえ見付からないわ。消えたって言った方がいいわね」
「消えた……ね。家出でもしたんじゃないの、薄情な女房に愛想つかして」
「まさか」
麻与香は男なら誰でも心が揺らぐような妖婦の微笑みを浮かべた。
「あのひとがあたしから離れるわけはないわ」
「逆はあっても?」
「それはもっと有り得ない話よ」
皮肉のつもりで言ったJの言葉を、麻与香はきっぱりと否定した。
「あたしはあの人を愛しているわ。たとえ 『ハコムラ』 の名前がなくても」
「……」
麻与香の嘘の上手さは、カレッジ時代から経験済みの J である。
その J でさえ、
『夫を愛している』 という今の麻与香の言葉が本心かどうかを推し量るのに数秒迷った。
それくらい麻与香の目は本気の色を帯びていたのだ。
だが瞬時にしてその色は姿をひそめ、いつもの妖しげな輝きが麻与香の瞳に戻ってくる。
麻与香の話が事実だとして、
笥村聖が何故姿を消したのか、今の段階ではその理由は分からない。
だが、自分だったら。もしも自分が笥村聖なら。
J は考えた。
一度麻与香の手の内から逃れた後に、再びこの女の愛の元に戻りたいと思うだろうか。
勿論、答えは NO だ。
今こうして対面しているだけでも、すぐにこの場から逃げ出して
この女の酷薄な瞳に映る自分を消してしまいたい気分になるのだから。
→ ACT 2-7 へ