厄介な。
至極厄介な、と J は心から自分の不運を呪った。
その厄介事を携えて午前11時前に事務所を訪れた当の依頼人は、優雅に腰を下ろしている。
爪の傷を気にしながら女神然として。
女神? いや、厄病神の間違いだ。
J は心の中で毒づいた。
「……からかいに来ただけなら質が悪いよ、麻与香」
「あら、からかうだけならハコムラの名前なんか出す必要ないでしょ」
「昔のあんたは冗談一つ言うにしても、
必要がないほど度が過ぎることを平気で言い出す女だったからね」
「あら、昔のこと、覚えててくれたのね。嬉しいわ」
別に相手を喜ばせるために言ったわけではない J の言葉に、麻与香はゆっくりと微笑んだ。
麻与香が微笑む度に J は気が重くなる。
これではカレッジにいた時とまるきり変わらない。
麻与香のペースに J が振り回されているだけである。
「じゃあ聞くけどさ……あんたの亭主は 『本当に』 いなくなったっての?」
「本当も何も、どこ探したって影さえ見付からないわ。消えたって言った方がいいわね」
「消えた……ね。家出でもしたんじゃないの、薄情な女房に愛想つかして」
「まさか」
麻与香は男なら誰でも心が揺らぐような妖婦の微笑みを浮かべた。
「あのひとがあたしから離れるわけはないわ」
「逆はあっても?」
「それはもっと有り得ない話よ」
皮肉のつもりで言ったJの言葉を、麻与香はきっぱりと否定した。
「あたしはあの人を愛しているわ。たとえ 『ハコムラ』 の名前がなくても」
「……」
麻与香の嘘の上手さは、カレッジ時代から経験済みの J である。
その J でさえ、
『夫を愛している』 という今の麻与香の言葉が本心かどうかを推し量るのに数秒迷った。
それくらい麻与香の目は本気の色を帯びていたのだ。
だが瞬時にしてその色は姿をひそめ、いつもの妖しげな輝きが麻与香の瞳に戻ってくる。
麻与香の話が事実だとして、
笥村聖が何故姿を消したのか、今の段階ではその理由は分からない。
だが、自分だったら。もしも自分が笥村聖なら。
J は考えた。
一度麻与香の手の内から逃れた後に、再びこの女の愛の元に戻りたいと思うだろうか。
勿論、答えは NO だ。
今こうして対面しているだけでも、すぐにこの場から逃げ出して
この女の酷薄な瞳に映る自分を消してしまいたい気分になるのだから。
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