J は数本目の煙草に手を延ばした。
麻与香が言葉を続ける。
「亭主がいなくなったことは、当然ハコムラの中でもトップ・シークレットなの」
「そりゃそうだろう。何といっても、ニホンの政財界を背負って立つ男の行方不明だもの。
逃げた女房の捜索願いを警察に出すのと同じ訳にはいかないだろうし。でも、だったら」
きつい目で J は正面から麻与香を見据えた。
「何故ウチに? センターエリアには優秀な諜報機関が山ほどあるだろうに。
それを無視して、繁盛してない寂れたオフィスを訪れたのは、なんでだ?
それに、他にも疑問がある」
「拝聴するわ。どうぞ」
あくまでも涼しげな表情を美貌に乗せて、麻与香は楽しげに J と視線を合わせた。
一瞬くじけそうになった J だが、何とか言葉を続ける。
「亭主がいなくなったのは7月半ばだって言ったよね。なのに、今は10月の終わり。
この時間差は何なのさ。その数ヶ月間、あんたは何をしていたのか、それが分からない。
それから、もう一つ……愛する男の姿が消えたのに、あんた、何でそんなに落ち着いてるんだ?」
たたみ掛けるように問いただす J に、やはり麻与香は微笑んでいる。
「成程ね。聞きたいのはそれだけ?」
「今のところは」
「そう。じゃあ、まず最初と2つめの質問には一緒に答えるわね。
勿論、幾つかの機関には捜査を依頼したわ。
いなくなってから数ヶ月は、そちらの方で亭主を探してもらっていたの。
でも、有能という評判の割には、結果が出なくてね。
大した成果も挙げないくせに、捜査機関の延長を申し出てきたから、切ったのよ」
その挙句に、J の元を訪れた、というわけである。
普通に考えれば、優秀な機関とやらと J の事務所を比較した時に、
捜査を進める上で取ることができる手段や権力は、恐らく天と地ぐらいに開きがあるだろう。
それなのに、である。
どう考えても、訪れる順番が違うのではないか、と J は考えた。
と言っても、決して真っ先に訪れてほしかった、ということではないが。
「それに、余り複数の機関に手を広げるわけにもいかないでしょ。
秘密を知る人間が増えれば、秘密が漏れる確率も高くなるわ」
麻与香は付け加えた。
「それで、最後の質問だけど」
麻与香は続けた。
「あたし、落ち着いているわけじゃないわ。そう見えるだけよ」
「……」
嘘のうまい女。昔の麻与香はそうだった。今は?
J は麻与香の答えの真偽を図りかねた。
今、この女が口にした答えの数々の中で、事実は幾つあるのだろう。
あるいは、全てが出まかせか。
黙り込む J の姿に、今度は麻与香の方が探るような目を向けて笑っている。
→ ACT 2-9 へ
とりあえず、麻与香の言葉が嘘か本心かは置いておくとして、
J は一応『何でも屋』的なスタンスを取り戻し、麻与香に幾つか質問を始めた。
「……で、亭主がいなくなったってのは、いつから」
「そうねぇ……」
麻与香は涼しげに言った。まるで飼っている熱帯魚の健康状態を聞かれたかのようだ。
「ここ3、4ヶ月ってところかしら」
「3、4ヶ月……3ヶ月と4ヶ月じゃエラく差がある。いつ消えたのかもはっきり判らないってこと?」
「ふふ、もっと正確に言えば夏の初め頃よ。7月半ばね」
「丸々3ヶ月半か。……よくもそんな長い間表沙汰にならなかったもんだ。
世界を手玉に取るハコムラの総帥がいなくても、
実は世の中すべて事もなし、ってところか。皮肉なもんだ」
「主人の補佐をしているスタッフが優秀でね。
最初のうちは替え玉 - ダブル - を使って何とかなってたのよ。
ウチの亭主、表メディアには滅多に顔を出さないから」
笥村聖のメディア嫌いについては、J も何かの雑誌で読んだことがあった。
知名度の割には、テレビを始め、あらゆる媒体での露出度は極めて低い。
そのことが逆に笥村聖のカリスマ性を高めているフシもある。
「でも、そろそろ限界」
麻与香はため息をついて見せた。
「どうやら、スペルの連中が胡散臭く思い始めているらしくって」
スペル。正式にはスペル・コーポレーション。その名は J も最近よく耳にしていた。
ハコムラに次ぐ勢いを持つ外資系の新進企業である。
ハコムラの傘下に入ることを良しとせず、
己の器量だけでハコムラ印の世の中に斬り込んでいこうという、
その心意気は見上げたものだと J は思うが、
いかんせんトップとの差があり過ぎて、二の足を踏んでいる、というのが実情だろう。
「どうも連中、最近ハコムラの周辺を嗅ぎ回っているみたいなのよね。
何を嗅ぎつけたのかは知らないけど」
「そんな状況だったら、あんたがノコノコとダウンエリアにやってきて、
ウチの事務所に顔を出すのはマズいんじゃないの? しかも、たった一人で。
どう見ても、怪しさ満載だけど」
「大丈夫よ。尾行はまいたから」
尾行がいたのか。
J は、初手から避けられない厄介事の匂いを衝き付けられた気がして、さらに気が滅入った。
「護衛もいるし、車は少し離れた場所に止めたから、
アンタの事務所が割れる心配はないと思うわ」
分かってない、この女。
麻与香の自信に満ちた言葉に、今度は J がため息をつく番だった。
たとえ、どんなに身分や素性を隠そうと、
モノトーンの街の中では、麻与香の美貌はどぎつい原色さながらに目立つこと、この上ない。
鐘を鳴らして居場所を知らせながら歩いているようなものだ。
もしも麻与香の懸念が真実だとしたら、
スペルの連中とやらが、この事務所を突き止めるのも、そう先のことではないかもしれない。
そして、依頼を受ける受けないに関わらず、
自分は遅からず面倒な事に巻き込まれることになるのではないか?
J の憂鬱のゲージは、頂点の少し手前まで上がりつつあった。
→ ACT 2-8 へ
厄介な。
至極厄介な、と J は心から自分の不運を呪った。
その厄介事を携えて午前11時前に事務所を訪れた当の依頼人は、優雅に腰を下ろしている。
爪の傷を気にしながら女神然として。
女神? いや、厄病神の間違いだ。
J は心の中で毒づいた。
「……からかいに来ただけなら質が悪いよ、麻与香」
「あら、からかうだけならハコムラの名前なんか出す必要ないでしょ」
「昔のあんたは冗談一つ言うにしても、
必要がないほど度が過ぎることを平気で言い出す女だったからね」
「あら、昔のこと、覚えててくれたのね。嬉しいわ」
別に相手を喜ばせるために言ったわけではない J の言葉に、麻与香はゆっくりと微笑んだ。
麻与香が微笑む度に J は気が重くなる。
これではカレッジにいた時とまるきり変わらない。
麻与香のペースに J が振り回されているだけである。
「じゃあ聞くけどさ……あんたの亭主は 『本当に』 いなくなったっての?」
「本当も何も、どこ探したって影さえ見付からないわ。消えたって言った方がいいわね」
「消えた……ね。家出でもしたんじゃないの、薄情な女房に愛想つかして」
「まさか」
麻与香は男なら誰でも心が揺らぐような妖婦の微笑みを浮かべた。
「あのひとがあたしから離れるわけはないわ」
「逆はあっても?」
「それはもっと有り得ない話よ」
皮肉のつもりで言ったJの言葉を、麻与香はきっぱりと否定した。
「あたしはあの人を愛しているわ。たとえ 『ハコムラ』 の名前がなくても」
「……」
麻与香の嘘の上手さは、カレッジ時代から経験済みの J である。
その J でさえ、
『夫を愛している』 という今の麻与香の言葉が本心かどうかを推し量るのに数秒迷った。
それくらい麻与香の目は本気の色を帯びていたのだ。
だが瞬時にしてその色は姿をひそめ、いつもの妖しげな輝きが麻与香の瞳に戻ってくる。
麻与香の話が事実だとして、
笥村聖が何故姿を消したのか、今の段階ではその理由は分からない。
だが、自分だったら。もしも自分が笥村聖なら。
J は考えた。
一度麻与香の手の内から逃れた後に、再びこの女の愛の元に戻りたいと思うだろうか。
勿論、答えは NO だ。
今こうして対面しているだけでも、すぐにこの場から逃げ出して
この女の酷薄な瞳に映る自分を消してしまいたい気分になるのだから。
→ ACT 2-7 へ
ハコムラ・コンツェルンの総帥、笥村聖。
その存在は、現在ニホンに住み着く在りと在る人間たちにとって様々な影響をもたらしていた。
政治、経済面においては言うまでもなく、その力は文化、科学に至るまで広く及んでいる。
『大災厄』 後の世の中で、元々は単なる重機メーカーの一つに過ぎなかったハコムラが
次第に各種産業部門に手を伸ばし、勢力を広げ始めたのは、今から200年程前。
そして、小国ニホンの全土が死に物狂いで 『大災厄』 以前の世界復興に取り組んでいた中で
最も成功したのがハコムラだった。
現在では、ニホン最多の企業を独占し、もはや揺るぎない基盤を造り上げている。
ニホンがネオ・ファイブの一つに名を連ねることができたのは、
ハコムラの存在によるところが大きいのは周知の事実である。
笥村聖はその5代目総帥にあたる。
先代から受け継いだ資産を飛躍的に増大させたことで、
今や他者の追随を許さない政財界の雄として君臨している。
以前、J が退屈しのぎに目にした雑誌のコラム欄で、
とある社会学者は、笥村聖の存在を一つの 『文明』 とまで称していた。
何を大仰な、とその時の J は思ったものだが、
その意見は万民にとって否定しがたい要素も多分に含んでいることは、J も認めざるを得なかった。
その学者は様々なメディアを通じて断言して憚らなかった。
『かの統治者の名前は生まれ出た極東の地を確実に抜け出し、
今や全世界を覆わんばかりの帝国の代名詞となるに至った。
かような人物の損失がこの先この国を訪れる不運があったならば
我々は少なからず打撃を受けることは必至である。
仮にその打撃から復興する機会に恵まれたとしても、
以前の世界とは比類すべくもない無秩序と混乱が世界中に蔓延する結果となるであろう』
この男が笥村聖の強烈な信奉者であったことは誰もが認めるところであり、
男の馬鹿げた評価が彼の盲目的な信仰からきていることは明らかであった。
科学者の言葉の8割方は差し引くとしても、残りの2割を否定することは誰にもできなかった。
今のニホンの有り様を実際に目の当たりにすれば。
以前、笥村聖という人間について、諛左が J に漏らした言葉がある。
『ハコムラ・コンツェルンの総帥、笥村聖は金の力で全てを自分の手中にした。
あの男は表の世界で目についたもの全てにハコムラの烙印を押し、
それで世の中を良いように回している気になっている、ただの目立ちたがり屋にすぎん』
成程、諛左らしい言い回しだと J は思った。
そして、ついでのように諛左は付け加えた。
『奴が死んだら? 別に世の中は何も変わらない。
ハコムラの名が他の名称に取って変わるだけのことさ』
社会学者が発した陶酔的な意見よりは余程理にかなっている、と J は思ったものだ。
その 『目立ちたがり屋』 を捜してほしい。
それが、突然降って湧いた麻与香の依頼だった。
→ ACT 2-6 へ
「天下のハコムラ総帥夫人が、何の依頼か知らないけれど
こんなうらぶれた 『何でも屋』 の事務所にやってくるなんて、正直恐れ多くてね」
「うらぶれた、ねえ……」
麻与香は部屋の中を改めて見渡した。
遠慮も何もあったものではない麻与香の視線に眺め回されるだけで、
普段は気にならない部屋の狭さや、恐らく前の住人が残した壁の穴やシミなどが
あっという間に、惨めで風采の上がらない事務所の実態を浮き彫りにしてしまう。
というよりも、麻与香の存在そのものが、この部屋に似つかわしくないのだ。
色鮮やかなこの女がいるだけで、いつもの事務所が妙にかすんでしまう。
それが J には不愉快だった。実に。
胸中穏やかならない J に追い討ちをかけるように、麻与香がぽつりと呟く。
「確かに繁盛してるとは思えないわね」
「余計なお世話だ。今のあたしには、こういう物件で充分なの。特に不満はありません」
「そう? 好きでやってるならいいんだけど」
「好きでやってるんです。放っとけ、他人の労働環境」
J はじろりと麻与香を睨んだ。
「麻与香。あんた、人の事務所の品定めしに来たの?」
「そうじゃないけど、カレッジ以来、久しぶりに会うアンタだもの。
どんな暮らしをしてるのか、気になるじゃない?」
「気にしなくていいから。あたしの貧相な生活話は、もうおしまい」
「あら、そう? じゃあ、カレッジの思い出話でもする?」
「絶対しません」
「冷たいわね」
「仕事の話を」
「もう少し別の話、しましょうよ」
「麻与香」
忍耐という言葉は、まさに今、自分が置かれている状況のことを言うのだろう。
J は今すぐ事務所から飛び出してしまいたい気持ちを何とか抑えた。
「あんたが、ここに来た目的は、何?」
「もちろん、仕事の依頼よ。一応」
「じゃあ、その話をしてもらいたいんだけど」
「そんなに急がなくてもいいじゃない」
「麻与香っ」
「分かったわよ。つまんないわね」
ようやく麻与香は依頼人らしいポーズに移っていった。
「じゃあ、仕事の話だけど……アンタに頼みたいのは、人捜しよ」
それまでの他愛もない会話と違って、麻与香の言葉は端的だった。
挑むような麻与香の視線を一度受け止め、J は少し苛立たしげに目を逸らした。
「捜すって、誰を」
「ヒジリ」
J の目が、文字通り丸くなる。
「……は?」
J は自分が聞き間違えたのではないかと思った。
何故なら、たった今、耳にした名前は、確か……。
だが、麻与香は J を真正面から見据え、ゆっくりと頷いた。
「そうよ」
何か文句でもあるの、と言いたげな麻与香の瞳が狐のように性悪な光を放った。
「亭主を探して欲しいのよ。笥村聖を」
→ ACT 2-5 へ
「いまも黒が好きなのね」
黒いシャツに黒い革のパンツという J のいでたちに目を走らせた麻与香が尋ねる。
「相変わらず似合ってるわよ。ホント、昔と変わらないわね」
「ああそう」
J は素っ気なく返事をした。
しかし、麻与香の質問は J の答えを待たない。
「ねえ、アンタ、今でもワインが一番好きなの?
今でもローラーブレードのレースが好きなの?
今でも車に乗るのが嫌いなの?
今でも寒い夜に窓を開けて月を見るのが好きなの?
今でも地図見るのが苦手なの?
ねえ、どうなの?」
「……」
麻与香のトークは止まらない。
この女こそ、本当に昔と変わらない。
特に、こういうところ。人の話を聞こうともせずに喋り続けるところ。
J はただ黙って麻与香が話すに任せていた。
それはカレッジ時代と同じく、J と麻与香の間で交わされる不自然な会話の光景だった。
「ねえ、それから……。
アンタ、まだ 『お父さん』 のコト、嫌いなの?」
「……」
問うと同時に、麻与香の表情には一瞬だけ意地の悪さが加わり、
それにもかかわらず一層際立つ美貌が J に向かって探るような笑みを飛ばしていた。
頑なに無表情を作っていた J だったが、その時だけ眉根を寄せて、ふと顔をしかめる。
今も昔も、この女は聞かれたくないことを平気で尋ねてくる。
いや、むしろ、相手 が話したくないことだからこそ、
ことさらに聞き出そうとする邪な意志すら感じられる。
こういうところも、昔のままだ。
J は一層仏頂面を決め込んだ。
その憮然とした表情を麻与香は面白そうに見つめている。
「……面白くないって顔してるわ」
「してるよ」
J はきっぱりと言った。
「今、あたしがどうしてるとか何してるとか、そゆコトはどうでもいいから。
別に聞いて面白い話でもないだろうし。
それよりも、話のネタになりそうな人生送ってんのは、むしろ、あんたの方だろう」
2、3度煙草の煙を吐いて、J はようやく気を取り直した。
「しがないダウンエリアの一住人と違って、
笥村麻与香、旧姓・耶律麻与香の動向は今やニホン人のほとんどが注目している。
なにしろ天下のハコムラ・コンツェルンの話題はあらゆるメディアでことあるごとに持ち上がるから」
J の言葉に含まれる皮肉の空気を正確に読み取り、麻与香は少し笑った。
→ ACT 2-4 へ