「ところでさ」
J は諛左をちらりと見て尋ねた。
「こんなヤマ、どっから引っ張ってきたの」
「ん?」
何のことだ、と言いたげな諛左の瞳が J を見返した。
「とぼけるんじゃないよ、諛左。
ウチみたいな事務所に、天下のハコムラから話が舞い込むこと自体がおかしい。
お前……またミョーなところから仕入れてきたんじゃないだろうね」
「それは企業秘密だ」
ふざけんな。
雇い主が知らない企業秘密なんてあるか。
J は思ったが、口には出さない。
『まともな雇用主がいる、まともな企業なら、ないだろうな』
冷たい口調でそんな台詞が返ってくるに違いないからだ。
それにしても、笥村麻与香とは。
J は腕組みをして天井を仰いだ。
灰色にくすんだ打ちっぱなしのコンクリートに、ところどころ変色したシミが見える。
いつもは気にならないが、今日の J にはそのシミが何故か疎ましく感じられた。
「 J 」
見るからに気が乗らない表情を浮かべる J に、諛左が声をかける。
「網にかかれば何でも魚、だぞ」
「……」
要するに、仕事の選り好みをするな、と言いたいのだろう。古い諺だ。
だが、かかった魚が毒々しい色の鱗と棘のある背びれを持っていたら?
食べれば病院行きになること間違いない毒魚だったら?
漁師だってきっと躊躇するに違いない。
それ以前に、選り好みをさせてもらえない立場の J にとっては、意味のない喩えである。
『ハコムラ』 という名前が問題なのではない。
『笥村麻与香』 が問題なのだ。
少なくとも、J 個人にとっては。
J はため息を一つついてカップを手にとると、残っていたコーヒーを一気に流し込んだ。
気のせいか、胃の辺りが重い。
カップを干すか干さないかの内に、再び千代子が現れた。
「笥村様がお見えになりました」
あくまで事務的な口調が、緑青色の目の光を伴って J の返答を待っている。
J はすぐには返事をせずに、傍らの諛左へと視線を泳がせた。
予測していたかのように諛左がそっぽを向く。
J は壁にかかっている時計に目をやった。
10時半をもう少しで回ろうとしている。
「予定より30分前か。昔は時間にルーズな女だったのに」
「懐かしいオトモダチに早く会いたいんだろう」
「うるさい」
軽く諛左を睨むと、J はため息を一つついて千代子に答えた。
「……通して」
「承知しました」
J は覚悟を決めた。
- ACT 1 - END
→ ACT 2-1 へ
J が2歳年上の麻与香と初めて出会ったのは、カレッジに入ってからの事だ。
その後、麻与香が卒業して
兼ねてより予定されていたハコムラ・コンツェルンの総帥夫人に納まるまで、
J にとって不本意なことこの上ない麻与香との親交は、ほぼ2年間続いたことになる。
『結局』
笥村聖との婚約が報道された翌日、麻与香と交わした言葉を J は思い出した。
『あんたは楽に人生を送る方法を手に入れたわけだ、麻与香』
『楽ってこともないと思うわよ。
これからコンツェルンに群がるハイエナを相手にしていかなきゃならないんだから』
麻与香は笑っていた。
人並み外れた美貌が麻与香の嘲るような微笑みに紛れる。
それがひどく残酷に見えたことを J は覚えていた。
J の記憶の中で、それが麻与香と交わした最後の会話だった。
「……どうした、J 」
諛左の氷の声が J を現実に引き戻した。
「懐かしい名前を聞いて思い出話でも浮かんだか」
「そんないいもんか」
J は緩慢に首を振った。
「あたしがあの女と仲良しだったとでも思ってんの?」
「さあね。どこかキレた人間同士、さぞ気が合ってたんじゃないのか」
J は諛左の二度目の皮肉を無視して、その日何本目かの煙草に苛だたしげに火を点ける。
渦巻く煙の中に麻与香の顔が嘲るように浮かんでいた。
諛左に言われるまでもない。
麻与香の名前は記憶の呪文を解き、J 自身が忘れていた昔の自分を思い起こさせた。
思い出したくないあれこれが頭の中に浮かんでは消えていく。
J は無意識のうちに右手の薬指を親指で弾いていた。
弾かれた指には板金の装飾品が鈍く光っている。
指輪ではない。
メッキをした丸い薄金を指に合わせて巻き付けただけの飾りだった。
表面には荒い線で何かの模様が打ち付けられている。
華奢な薬指の第二関節を覆わんばかりに光を放っているこの指飾りを J は外したことがない。
その指を弾くのは、J がよくやる癖の一つだった。
そんな J の様子を、煙草をくゆらせながら諛左は黙って見ている。
感情を控えた視線が相変わらず冷たい。
ふと気配を感じた J が顔を上げると、目の前にコーヒーを運んできた千代子が立っていた。
この女は立ち居振る舞いすら無声映画のように静かで
それでいて存在感は人並み以上にある。
無言でトレイをテーブルの上に置き、無言で部屋を出てく。
千代子の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを眺めながら、J はカップに手を触れた。
コーヒーの苦さが、起きてからワインと煙草の煙しか口にしていない J の身体に染み渡った。
→ ACT 1-16 へ
「よりによって、なんて依頼を持ってくるんだ、諛左。麻与香だって? 全く……」
眉間に指を当てて顔をしかめる J を無視して諛左は言葉を続けた。
「旧姓、耶津(ヤリツ)麻与香。27歳。ニホンのTKポリス・シティに生れる。
現状と違って 『裕福』 とは無縁の幼年時代を過ごす。
両親は麻与香が9歳の時に事故で死亡。
以後、父親の義理の弟の世話になる。義理の叔父の名は……」
「知ってる。鳥飼那音(トリガイ・ナオト)だろ」
J は憮然として口を挟んだ。
「若くて金持ち。『いかにも』 って感じのヤバそうな男だった。当時はね。
ついでに言えば、チビで童顔」
「さすがに記憶力はいいな」
「今まで忘れてたさ。というか、思い出させるなよ」
諛左は肩を竦め、言葉を続ける。
「その鳥飼がどんな素性でどんな風に成り上がったのかは余り知られちゃいない。
麻与香の実父と共同で事業を興したらしいが、その経営はうまくいっていなかったようだ。
兄弟仲は極めて空々しい間柄だった。
鳥飼と違って、父親の方はまったくの堅気で、
方針の違いから口論は日常茶飯事だったというのが当時の仕事相手の意見だ」
「麻与香の両親の死因だって本当に事故かどうか怪しいもんだね」
「という噂も当時はあったらしいな。
裏の世界に手を染めて成り上がり続けた鳥飼だが、
麻与香の結婚によってコンツェルン内部での株主というポジションを得た。
育ての親に対する麻与香の感謝の念か、
または単に那音の方から取り入っただけなのかは知らないが、
成り上がりもここまでくると一つの才能だな」
「そんな話に興味はないよ」
J は面倒そうに頭を振った。
「あたしが知ってるのは、
そのヤバい男に育てられた麻与香は、どっかのネジが一本外れちまったってことだけ。
麻与香に言わせりゃ 『那音には何から何まで教わった』 らしいけど」
「何を教わったのかは怪しいが、彼女自身の頭脳は相当なもんだったようだな。
ジュニア・スクール、ハイ・スクールともに五指に入る成績を通し、特待生として学費免除。
その上、飛び石でセントラル・カレッジへ進級。たいしたもんだ」
諛左の言葉に皮肉の色が浮かんだ。
「どこかで聞いた話だと思わないか、J 」
J はちらりと目の前にいる男に視線を投げた。
そして、すぐに反らす。
「それから?」
「それから? その先はお前の方が詳しいだろう?
何しろキャンパスでの 『オトモダチ』 だったんだからな」
「……」
押し黙って J は諛左を軽く睨んだ。
自分の中で、否応無しに当時の記憶が呼び覚まされていくのを、J は感じていた。
→ ACT 1-15 へ
諛左は胡乱な目で、煙草に火をつける J を見ていたが、
やがて、その目の前に書類の束を幾つか無造作に放り投げた。
しかし J は目を通す素振りも見せない。
暫くの間、煙草の煙が空中に描く流線型の動きを目で追っている。
その視線が諛左のそれとぶつかった。
J は飽いた玩具を見る子供のような目付きで諛左を見た。
同様の視線が、諛左の黒い目から返ってきて J を突き刺す。
「依頼人って?」
J は金属性の灰皿で煙草の火を消すと、小さく欠伸をしてようやく口を開いた。
「まず、読め。そこに全部書いてある」
「メンドくさいよ」
書類に手をつけようとしない J を無視して、諛左は言葉を続けた。
「依頼人は女。名前は笥村麻与香(ハコムラ・マヨカ)。27歳」
長い髪を退屈気味に弄んでいた J が、手の動きを止めた。
「……いま何つった?」
「依頼人は女」
「そのあと」
「27歳」
「……真ん中だ、真ん中」
「依頼人は女。名前は笥村麻与香。27歳」
諛左は全く同じ言葉を繰り返した。
几帳面なのか単なる嫌がらせなのかは迷うところだが、多分後者だろうと J は確信している。
「世情に興味がないお前も、この名前を知らないとは言わせんぞ、J」
「……ハコムラ………ハコムラ・マヨカ」
J は思わず頭をかかえた。
「……ハコムラ・コンツェルンの麻与香か……!」
知る知らないどころではなかった。
今やハコムラ・コンツェルンがニホンの政財界に及ぼす影響力については
誰もが知るところである。
混乱の世の中で、ニホンがネオ・セブンと称される代表格にまでのし上がった裏には
ハコムラ・コンツェルンの雄・笥村聖(ハコムラ・ヒジリ) の存在があった。
そして、聖は8年前に3番目の妻と死に別れ、
20も年の離れた4人目の美貌の妻を手に入れた。
それが麻与香である。
権力者とその若く美しい妻の物語は当時の世間を大いに騒がせたものだ。
だが、実は J はそれ以前から麻与香と面識があった。
あまり思い出したくない記憶である。
→ ACT 1-14 へ
諛左。
厄介な、そして時と場合によっては無制限に危険になれる男だろうと、しばしば J は思う。
穏やかな時ですら、何を考えているのか分からない常に冷静なその視線。
それは、時々薄情な光を帯びて見る者を突き刺す。
黒いのに、まるで氷のように感じるのはきっとその光のせいだろう。
獰猛な獣が獲物を狙って密やかに木の陰に隠れ待つ。
そんな秘めた狂暴さが諛左には付きまとっていた。
顔の造り自体は整っているだけに、剣のある表情が一層際立って見える。
諛左はいつも人を小馬鹿にしたような笑いを浮かべて人を見る。
J はそれが気に入らない。
冷笑、というやつ。
その笑みとともに、今まで何度この男に鼻先であしらわれたことか。
事務所の主である J の方が立場的には上なのだ。
しかし、この男にはそんな意識はさらさらない。
J を平然と 「お前」 呼ばわりするのはフォンでの会話の通りである。
尊敬しろとは言わないが、せめて他人を見下すのはやめてもらいたいものだ。
折につけて J は思う。
この男とは毎日のように顔を付き合わせている J だが、
しかし、いまだにパートナーとして認めるのには抵抗があった。
非従順という点では誰にも引けを取らない男なのだ。
J は少し不機嫌の色を帯びている表情を隠そうともせず、ゆっくりとデスクに歩み寄った。
「似合うよ、諛左。そうやってると、まるであんたがオフィスのボスみたい」
「……」
諛左は黙って机から立ち上がった。
その鉄面皮からは相変わらず感情は読めない。
J は肩をすくめてデスクに近付いた。
すれ違いざま、ふと顔をしかめた諛左が J の腕をとり、その歩みを止める。
怪訝な表情で振り向いた J の顎をとると、諛左は顔を近づけた。
そのまま J の口元で、クン、と鼻を二、三度ひくつかせて呟く。
「お前……一杯空けてきたな」
しまった。
至近距離以上に近いところから一対の黒い瞳に睨まれた J は、ついと目をそらした。
傍から見れば、口説き口説かれの体勢に見える2人の姿だったが、
交わしている言葉と漂う空気は、甘さとは程遠い。
「……何のことかな」
「誤魔化すな。シャワーを浴びただけじゃ呼吸の匂いまでは消せない。
安物のワインの匂いはな」
こいつは犬か。
J は心の中で毒づいた。
もしも諛左並みの嗅覚を持つ人間が警察にいれば、
飲酒運転の取り締まり件数は今よりも飛躍的に増えるに違いない。
「仕事前は飲むなと、あれ程言っているだろう」
「……ちょっとだけだよ」
J は顎に触れている諛左の手を迷惑そうに振り払った。
諛左の小言は続く。
「ちょっともたくさんも同じことだ。
アルコールが多少なりとも脳の働きを鈍くするのは証明されている」
相変わらず、諛左の言葉は理屈めいていて、容赦ない。
J は諛左の言葉を無視して、デスクの向こう側にある椅子に深々と身を沈めた。
→ ACT 1-13 へ
千代子は顔に余り表情を出さない女だった。
寡黙で、余計なことには口を挟まず、言われたことはソツなくこなす。
時間にも忠実で、毎朝9時には部屋を出て、階下の事務所に姿を現す。
その上、記憶力の良いところも気に入って J は千代子を使っていた。
世の中には、ひがな一日口を動かしていなければ気が済まない女が氾濫している。
そんな中で、千代子は極上品だった。
素性がどうあれ、その点だけは間違いない。
J は通りに面した窓ガラスから、朝起きた時と同じように外の景色を改めて眺めた。
当たり前だが、4階から見るよりも人々の表情が近い。
J は理由もなくため息をついた。
オフィスに顔を出すと否応なく思い知らされる。
また、一日が始まったことを。
その思いがどうしようもなく J をウンザリとさせるのだ。
奥にもう一部屋あることを考えると、
ビルの外観から想像するよりも事務所の中は意外に広い。
事務所を訪れた依頼人との話は、大体奥で行われる。
今、諛左が待っている筈の部屋だ。
そして今日の11時頃に、その部屋で新たな依頼人と語り合うことになっている。
その予定は、先刻諛左に聞かされた通りである。
J はもう一度、聞こえるか聞こえないかのため息をついて、奥へと足を進めた。
千代子の言葉通り、諛左は煙草を吸って J を待っていた。
部屋の一番奥に設置えられた大きな木製のデスクに腰掛けている。
黒い瞳が、入ってくる雇い主の姿を無言で迎えた。
実のところ、千代子と同様に J はこの男のことをよくは知らない。
『大災厄』 時代が過ぎてしばらくした後、
バラバラになった世界各地では内紛、独立などの争いが日常化した。
いわゆる 『小競り合い時代』 の到来である。
そして、ニホンから遠く離れた地においては、その混乱は今もなお続き、
少年であった諛左は彼の父に連れられて、
いまだ内乱の火がくすぶる海の向こうの国へ渡ったのだという。
他の多くの人々が報酬を求めて同じ行動を取ったように。
恐らく、父親は戦地において傭兵 -マセナリィ- として過ごしていたのだろう。
そこで J の父親と知り合ったという話だった。
諛左が今、J の事務所で雇われているのは、J の父親が絡んでいるためだ。
しかし、J 自身はまったく預かり知らぬ話であり、
自分の父親と諛左との間にどういう経緯があったのか不明だし、それ以前に興味もなかった。
同様に、諛左の前身や経歴などにも J は関心がなかった。
否。
正直に言うと、関心がないわけではない。
しかし、殊更に知ろうとする J の好奇心も諛左に関しては鳴りを潜めていた。
聞かなくても、諛左の醸し出す雰囲気から想像はつく。
元・マセナリィ。
少年時代を戦地で過ごした人間は、必ずと言っていいほど辿る道。
恐らくは、諛左の父と同じ道。
J はそう確信している。
さほど真っ当に生きているとは言いがたい J の目から見ても、
堅気とは程遠い空気をまとう男だった。
→ ACT 1-12 へ