諛左は胡乱な目で、煙草に火をつける J を見ていたが、
やがて、その目の前に書類の束を幾つか無造作に放り投げた。
しかし J は目を通す素振りも見せない。
暫くの間、煙草の煙が空中に描く流線型の動きを目で追っている。
その視線が諛左のそれとぶつかった。
J は飽いた玩具を見る子供のような目付きで諛左を見た。
同様の視線が、諛左の黒い目から返ってきて J を突き刺す。
「依頼人って?」
J は金属性の灰皿で煙草の火を消すと、小さく欠伸をしてようやく口を開いた。
「まず、読め。そこに全部書いてある」
「メンドくさいよ」
書類に手をつけようとしない J を無視して、諛左は言葉を続けた。
「依頼人は女。名前は笥村麻与香(ハコムラ・マヨカ)。27歳」
長い髪を退屈気味に弄んでいた J が、手の動きを止めた。
「……いま何つった?」
「依頼人は女」
「そのあと」
「27歳」
「……真ん中だ、真ん中」
「依頼人は女。名前は笥村麻与香。27歳」
諛左は全く同じ言葉を繰り返した。
几帳面なのか単なる嫌がらせなのかは迷うところだが、多分後者だろうと J は確信している。
「世情に興味がないお前も、この名前を知らないとは言わせんぞ、J」
「……ハコムラ………ハコムラ・マヨカ」
J は思わず頭をかかえた。
「……ハコムラ・コンツェルンの麻与香か……!」
知る知らないどころではなかった。
今やハコムラ・コンツェルンがニホンの政財界に及ぼす影響力については
誰もが知るところである。
混乱の世の中で、ニホンがネオ・セブンと称される代表格にまでのし上がった裏には
ハコムラ・コンツェルンの雄・笥村聖(ハコムラ・ヒジリ) の存在があった。
そして、聖は8年前に3番目の妻と死に別れ、
20も年の離れた4人目の美貌の妻を手に入れた。
それが麻与香である。
権力者とその若く美しい妻の物語は当時の世間を大いに騒がせたものだ。
だが、実は J はそれ以前から麻与香と面識があった。
あまり思い出したくない記憶である。
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