城では、サフィラの婚礼の準備が滞りなく進められていた。
さぞや反発するであろうと王が予期し恐れていたのに反して、意外にもサフィラの態度は静かなものだった。王、王妃と全く口を利かなくなってしまったことは別として、侍女のトリビア、リヴィールが不審に思う程、サフィラは大人しかった。
付け焼き刃にも似た礼儀作法の練習、ウェディング・ドレスの仮縫い、歌、踊りの特訓、全ての事をサフィラは黙って、言われるがままにこなしていった。
大抵の人間は、サフィラのこの反応に驚いたが、どんなに男勝りの格好をしていたところで、所詮は娘、年頃になってようやく失われていた少女らしさが戻ってきたのだろう、という意見に落ち着いた。そう言いながらも、皆の心に一抹の不安がないわけではなかったが。
もしマティロウサがそんなサフィラの様子を聞いたら、鼻を鳴らしてこう言ったことであろう。
「ふん、あの子がそんなしおらしいタマなもんかい。逃げ出すスキを狙ってるだけだろうよ」
実際、隣国の王子タウケーンとの婚約が知らされた時から、サフィラは本気で城を壊して逃げ出してやろうかと考えた事もあった。
ヴェサニールの世継ぎとして生まれ、いつの日か統治者となり、この国を統べる覚悟はサフィラにもあったが、結婚という計画はサフィラの頭の中から抜け落ちていた。
考えてもみなかったことだった。しかし、よく考えれば、あって当然の話である。
フィランデの王子を婿にもらって、ゆくゆくはサフィラと二人でヴェサニールを治めていく。
となると、王子は未来の王となるわけである。
確かに、フィランデ側としては、おいしい話かもしれない。
実際、ヴェサニールの国の王位は世襲を基本としているが、必ずしも源を同じくする血筋の者が受け継いできたわけではない。
しかも、この結婚話は単なる政略結婚ではない。
今のところ、ヴェサニールは隣国フィランデと姻戚関係を作らなくてはならない理由は取り立ててないし、外交上、フィランデもそれは同様である。
要するに、今のままではまともな結婚は望めないであろう二人を娶せ、合法的に片付けようという二国の暗黙の了解が、この縁談の底に流れているのである。
こんなふうにいかにも厄介者扱いされて、それでも黙って両親の命令に従うほど、サフィラは寛大で物分かりの良い娘ではなかったのだ。当然ながら。
本当に逃げ出したらどうなるだろうか。サフィラは考えた。
結婚式までまだ間がある時に騒ぎを起こすのはまずいだろう。逃げるなら式の直前がいい。
いや、直前といわず、式の途中で姿をくらますのが、一番効果的なのではないか?
いつまでも来ない花嫁を待って、式場でぼんやりと突っ立っているタウケーン王子や、自分の父親の姿を思い浮かべると、ふさいだサフィラの気分も少しは良くなるというものだった。
そういうわけで、結婚式が行われるまでの間、心の中にさまざまな計画を秘めながら 「不承不承ながらも諦めた花嫁役」を演じてきたのである。
「そういえば、サフィラ様」
いよいよ式も半月後と迫ったとある日の午後。
サフィラの衣装の着替えを手伝いながら、トリビアが言った。
「明日、フィランデから正式に御使者様がいらっしゃるそうですわ。なんでも、花婿であるタウケーン王子からサフィラ様への贈り物を届けに参られるとか。さぞ美しい銀星玉ですわよ、きっと」
「銀星玉? 何だそれ」
「あら、サフィラ様、クェイト様がフィランデ国についてお話をなさった時に、言ってらしたじゃありませんか」 トリヴィアが大きな目をくるくるさせて言う。
「昔からフィランデの王族の方々は、その貴い血筋を現わすために、数ある宝石の中でも最も高貴と称される銀星玉の装飾品を身に着けておいでですのよ。サフィラ様も今度新たに向こうの王族の一員となられるのですから、婚姻の贈り物としてこれほど相応しい品もございませんでしょう?」
「ああ、そう言えばそんな話も聞いたような」
本当は聞いたことすら思い出せないサフィラだったが、適当にトリヴィアに相槌を打ってみせる。
「しっかりなさってくださいな、サフィラ様。結婚なさるのは貴方なんですから」
「そんな念は押さなくていい」
「でも、もし本当に銀星玉をいただかれたら、私達にも見せてくださいましね」
「そんな物欲しくはないがな、私は。そうだ、もし貰ったら、お前たちにくれてやろう」
「結婚なさるのはサフィラ様です。何度も同じ事を言わせないで下さいませ。侍女の私たちが頂いてどうするんですか」
サフィラの髪を梳きながら、きっぱりと言い放つリヴィールに、サフィラがため息をつく。
「そうは言ってもな、リヴィール。全ての事が自分の意に染まぬ方向へと向かっているのを目の当たりにするのは気が滅入る。しかも自分以外のほぼ全ての人間はそれを喜んでいるんだぞ」
「あら。ご結婚の覚悟をお決めになったのではなかったんですの?」
「覚悟は決めたが、だからといって結婚したいわけではない。だが」
サフィラはすっくと立ち上がり、部屋の中をうろうろと歩き出した。侍女達が、あらまあじっとしていてくださいな、と言いながらその後をついてまわる。
「だが、どんなに理不尽で、小心物のくせに強引で、愛妻家と見えて実際のところは恐妻家、自分勝手で、我儘で、見栄っ張りな父親でも、親は親だ。駄々をこねて困らせるのも大人げがない。例えどんなに理不尽で、強引で、自分勝手で、我儘な命令であろうとも」
「結構、根に持っていらっしゃるんですのね」
「当たり前だ」
→ 第二章 兆候 2 へ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その老いた旅人は、自らの足取りの不確かさにすら気付かぬ様子で、ヴェサニール公国の裏に位置する『彼方森』の外れをゆらゆらと彷徨っていた。
もう幾年の旅の世を重ねてきたのか、ただ、老人の跡形もないまでにすり切れた旅装束と革靴、そして伸び放題の白髪と薄い髭だけが、それを教えてくれた。
異様な輝きを双眸に湛え、人が見たなら直ぐにその老人が正気を失ってしまっていることに気づいただろう。しきりに独り言を呟いては、肩から下げた麻袋を強く押さえ、まるでそれが口を利き、返事をするとでも言いたげに話しかける。
「もう直ぐだな……」
老人は歩みを止めて、袋を目の高さまで持ち上げると、震える手で口紐を解いた。
恐る恐る中を覗き込み、そして、まるで忌むべき物を目にしたかのように嫌悪も露わに目を眇めた。
「もう直ぐ、この森を抜ければ、私を自由にしてするのだな……?」
狂人特有の熱に浮かされたような口調で、老人は袋に、というよりは、袋の中身に向かって囁きかけた。嘲るように、それでも、何かを恐れるように。
「よくもこんな長い間、私を捕らえておけたものだな……大したもんだ、え、そうだろ?」
突然老人は笑い出した。咳き込みにも似た引きつった笑い声が木々に響く。
年を経た面相が醜く歪んだ。
「だが、もう直ぐだ。もう直ぐ、お前から離れられる」
老人はくくっと喉を鳴らして笑った。
「私の次は一体誰を虜にする気だ、うん?誰を破滅させるつもりだ、え?」
笑い声が次第に高く、ますます狂喜じみてきて、辺りの静寂な空気を震わせた。
旅人は笑い続けた。
もし聞く者がいたなら、思わず身の毛をよだたせたであろう、物狂おしい笑いだった。
笑い出したのと同じくらい突然に、老人は口を閉ざした。
ほとんど乱暴と言えるような仕種で袋の口を閉め、鬱蒼とした森の終わりと知れる、陽射しを通した木々の切れ目を目指して、再び歩き始めた。
「もう少しだ……。あの明るい所へ行けば、もう……」
虚ろに響く掠れ声を薄暗い森の中に残し、老人はゆっくりと、危うく、おぼつかない足取りで、ただただ歩き続けた。
(第一章・完)
→ 第二章 兆候 1 へ
サフィラは黙っていた。
何も言わなかった。身動きもしなかった。
余りに静かだった。
静かだったために両親は結婚する本人であるサフィラの心境を推し量ることを忘れていた。
まるで自分たちが再び式を上げるような騒ぎである。
「……ません」
黙っていたサフィラがようやく口を開く。
微かに声が震えて聞こえるのは、言うまでもなく怒髪が天を突いているせいである。
つまり、強烈に腹を立てていたのである。
盛り上がっていた王と王妃は、サフィラの言葉が聞き取れず、
「ん? 何かな、サフィ……」 と、尋ね返す。
王の言葉が言い終わらぬうちに、サフィラは声を大にして同じ言葉を繰り返していた。
「承服できませんっ。絶対、絶対、ぜぇったいに私は認めませんっ。誰が認めるもんか。縁談? 冗談じゃない。私はまだ15ですよ? いや、そんなことはどうでもいい。フィランデの王子? そんなあからさまな政略結婚、本当に冗談じゃありませんよ。結婚? 婚姻? 喜ばしい? めでたいと思っているのは父上と母上だけでしょう。何度も言いますが、冗談じゃない!」
「だから冗談じゃないんですよ」
さすがに、娘の剣幕に真顔に戻った王妃はやんわりと言った。
「私達は勿論、フィランデの王も既に乗り気です。こちらが言い出したことなのですから、今更取り止めてくれと言うわけにはいかないのですよ、サフィラ。内緒にしておいたのは、お前の気を乱すまいと考慮して」
「事を円滑に進めようと考慮して、と聞こえますが」
「いえ、別にそういうわけでは」
「誰が何と言おうと、当人である私がはっきりと拒否しているのをお忘れなく。ああ、親子の断絶は下々の世の習いとばかり考えていましたが、まさかこの我が身にもふりかかってくるとは……」
サフィラはぼそりと付け加えた。
「いざとなったら私の全身全霊を傾けて、実力行使で拒絶します」
サフィラの言葉に、思わず王が悲鳴を上げる。
「サ、サフィラ、城を破壊してはならんぞっ」
「……そこまでしませんが」
「ともかく」 なだめるように、しかしきっぱりとした口調で王妃は言った。
「これはもう決まってしまったことなのです。さっきお前は未だ15だと言っていましたが、私はその年にお前を生んだのです。ですから結婚には十分適齢期ですよ。それに、政略結婚は姫君の常。私も同じように親の言われるまま結婚を言い渡されて、お父様のもとへ嫁いできたのです。私だって最初は、見ず知らずの男性と一緒に暮らすなど嫌で嫌でたまりませんでしたよ」
「……お前、そんなに嫌がってたなんて、わしは初耳だぞ」
「あら、ものの例えですわよ、ものの。そういうこともある、という話ですわ。……貴方、そんな悲しい目をなさらないで」
「だってお前……」
「お取り込み中、失礼ですが」
ほんの一瞬、存在を忘れられたサフィラが、疲れたように二人に声を掛けた。
「母上と父上の馴れ染めは結構。生憎、私は母上のように素直に親の言う事を聞き入れる、という芸当は到底出来ない質です。そのことはお二人が一番よく御存じだと思っておりましたが」
「それは知っておる。知り過ぎている程よっく知っておるつもりだ、うむ」
「そんなに強調せずとも結構です」
「フィランデの王様は良い方ですよ。何も不安に思うことはありません」
とって付けたような王妃の言葉に、サフィラはあからさまな疑いの目を向けた。
「……父上、母上。私が何も知らないと思ってらっしゃるのなら大間違いですよ。あのフィランデのタウケーン王子の噂を」
サフィラの言葉に、突然王の態度がそわそわとしだした。
妃も困ったようにあらぬ方向に目を向ける。
「何のことかな、ん?」
「おとぼけでない。街に下りた時に西からの旅人や商人からよく聞いています。どうしようもない放蕩息子らしいですね、タウケーン王子というのは。宝物蔵の中身は無断で拝借するわ、怪しげな輩に混じって悪さはするわ、
しかも城に仕える侍女で王子の手がついていないのは、60近い小間使い頭の婆様ぐらいしかいないそうじゃないですか。そういう救いがたい男の下へ嫁に行けと、本気でそう仰せなのでしたら、城の一つぐらい破壊してさしあげても、まだ足りないくらいです。たとえ私じゃなくったってそうするでしょう」
「そんなことするのはお前くらいのものです」
と、后が口をはさみかけたが、サフィラはそれを遮って言葉を続けた。
「確かに、そんなどうしようもない王子の他には、私みたいに男か女かも分からない、育ち損ないの王女もどきの貰い手はないだろう、とお考えになるのは尤もな話です。どうせフィランデ側だって、これ幸いとばかりにタウケーン王子を押し付けてきたに違いない。三人も王子がいるんだから、一人くらいそこら辺の小国にでもくれてやれってなもんでしょう。だからって厄介者扱いされて片付けられるんじゃ、片付けられる方はたまったもんじゃありません。向こうだって、そう、タウケーン王子だってきっと嫌がっているに決まってる」
「いや、ものすごく乗り気だそうじゃ」
「そう、すごく乗り気で……はい?」
サフィラは眉をひそめ、王がここぞとばかりに言葉を引き継いだ。
「王子はものすごく乗り気らしいぞ。フィランデの王がそう書いてよこした」
「我が子かわいやの王の言葉では信用できませんね」
「信用のおける奴じゃ。保証する。それに……まあ、お前が今言ったタウケーン王子の噂話の全てを否定はせん。だが、それ程ひどい人間ではない、と言う事も付け加えておかねばならぬ。噂には尾ひれがつくものじゃ。それに、なかなかの美男子だぞ。お前だって今は少年のように見えるといっても、それなりの格好をすれば大層美しい……と思う。たぶん」
王は幾分自信なげに言った。
「ともかく、似合いの一対になるじゃろうて。年齢も25。15のお前と不釣合な年ではあるまいが」
「大いに不釣合です。似合いの一対? 何度も言いますが、冗談じゃない。ともかく、私は絶対にそんな放蕩王子なんかとは……」
「さっきも言ったように」
ようやく君主らしい威厳を取り戻してサフィラの言葉を途中で遮ると、王は有無を言わさぬ調子で重々しく言い放った。
「式まであと一か月。招待状の手配、晩餐の用意、衣装の準備、一か月の間にやらねばならぬことは山のようにある。お前も然り、じゃ、サフィラ。魔道なんぞに気を取られず、ドレスを着てもつまづかぬくらいには歩けるようになっておけ」
「父上っ」
「トリビアとリヴィールにもよく言っときますからね。これから忙しくなると思いますから、あの二人にもがんばってもらわないと」
サフィラの叫びも聞こえぬ風に、二人は、とにかく早くこの場を去ろうという様子を隠しもせず玉座から立ち上がり、戸口へと向かった。きっぱりとこう言い残すことを忘れずに。
「お前はフィランデのタウケーン王子と結婚する。そうと決めたら絶対にそうじゃ。例え城が破壊されようと、わしはこの話を進める。……じゃが、本当に破壊するなよ」
王と王妃は 『王の間』 から去り、一時はどうなるかと息を飲んでこの親子劇を見守っていた廷臣達も落ちつかなげにそそくさと王等に続き、後にはサフィラ一人が取り残された。
呆然とした表情から覚めたサフィラは、皆が消えたドアに向かって城も崩れよと言わんばかりの大声で叫んだ。
「父上の大馬鹿者ー!」
当然これは王本人の耳にも届いた。
翌日、城下の街の至る所に公布板が設けられた。
『ここに当国第一王女サフィラ・アーロン・ヴェサニリアと
フィランデ国第三王子タウケーン・ノアル・リオイド・フィランデとの
婚約を公示するものである。
これは両国の友好の礎ともなる、極めて重要かつ
喜ばしい縁談であって……』
これを読んで人知れず涙する娘が少なからずいた、という。
→ 第一章・ヴェサニールの魔道騎士 11 へ
「実はね、サフィラ。お父様は一月程前から隣国フィランデの王に、ある私信を密かにお出しになっていたのです」
「私信? 何の」
「縁談です」
サフィラは后の言葉の意味を、一瞬考えた。
「縁談? それは……まさか父上の?」
「何故そうなる! わしが重婚してどうするのじゃ!」 父王は声を大にした。
「何を考えとる、お前は」
「父上の私信というから、もしかしたらと思ったまで。じゃあ……まさか母上の?」
「ますますそんな訳がなかろうが!」
勿論サフィラだってそんな訳がないことぐらい重々承知である。
しかし、先程感じた嫌な予感が、サフィラに話の核心をそらすように強いているのだ。
それを知ってか知らずか、后が猫なで声で続ける。
「サフィラ、私とお父様は極めて円満です。私たちの縁談ではないし、勿論そこにいるクェイドの再婚話でもありません」
お后様、な、何をいきなり、と王の傍らで赤面したクェイドを無視して后は続けた。
「今この城で縁談が最も似合う年頃の人間と言えば」
「なるほど、トリビアかリヴィールですね」 サフィラは后の言葉を引き継いだ。
「あの二人には良い嫁ぎ先を見つけてやらねばと、常々私も思って…」
「それも違います」
あくまで話をそらそうとするサフィラに、后は断固としたように言い放った。
「お前の縁談です」
サフィラが何か言うよりも早く、ここまで話せば後は同じだと思ったのか、后は火がついたように一気に話を押し進めた。
「つまりお前にふさわしい良い婿としてフィランデの王子を選び、国王に向けて手紙を送ったのです。私は反対したのですよ、私はね。まだ15になったばかりだから早すぎると。ところがお父様ときたら『ただでさえ変り者の娘なのに、この上年をくってしまったらそれこそ貰い手もなくなりかねない。仮にも一国の王女が行かず後家なんて体裁が悪すぎる。だから早いうちに片付けてしまわないと』 などと情ないことを言い出すものだから」
「お前、何もそういうことまでこの場で持ち出さなくても」
「子供は父親の本音を知っておいた方がいいんです。それでね、サフィラ、仕方なく私も黙っていたんですよ。そして、そうこうするうちに、ついにフィランデの方から使者が……」
「先程話した使者じゃ」 王が口をはさむ。
「そう、先程の使者です。その使者がフィランデの王直々の手による正式な書状を持ってきたのです。『フィランデ第三王子タウケーンとの婚姻を認める』 と」
「つまり今日この日より、我がヴェサニールとフィランデは姻戚関係と相成ったわけだ。二国にとってこれほど喜ばしいことがあろうか。いや、ない。わしはフィランデの王を知っておるがなかなか良い奴で、若い頃はよく共に狩りに出かけたり剣試合をしたりと、それはもう……」
「貴方、それはいいから。というわけでサフィラ、貴方に一言も言わなかったのは悪いと思いましたが、言うと絶対に反対するとお父様が言うもので」
「またそうやってわしのせいにする。サフィラの耳に入ったら魔道で城を壊されかねない、と言ったのは、この母のほうだぞ」
「それはともかく」 と后は咳払いをした。
「そういうことで、ギリギリ直前まで黙っていようということにしたのです」
「うむ。式は来月じゃ。あと一ヵ月で全ての準備を整えねばならん。忙しい月になりそうじゃ」
妙にうきうきと王が言った。后もそれに同調する。
「そうですわね、招待するお客様のリストを作らなくてはならないし、当日の料理、それから、何よりもサフィラのウェディング・ドレスも作らせなくては」
「来月というのは少し早すぎたかもしれんな。なにしろフィランデの国王は結構気の早い奴で、思ったがすぐ行動しなくては気がすまないという男だからな」
「貴方と同じじゃありませんの」
「いやあ」
始めの深刻な様相はどこへやら、いつの間にか二人は一ヵ月後に来る娘の晴れ舞台を心に思い描き、自分勝手に盛り上がっていた。
そしてやたらと浮き立っていたために肝心のことを忘れていた。
つまり、目の前の娘の存在である。
→ 第一章・ヴェサニールの魔道騎士 10 へ
『王の間』 はヴェサニール城でも最大の広間で、奥行きの深さはさることながら、その遥かに高い天蓋が堂々たる威圧感を持って床上の人々を見下していた。
部屋全体はそれほど華美な造りを呈してはおらず、王城の中央の間としてはむしろ地味な方ではあったが、一国の主が控えるに相応しい重厚な調度品や装飾が適度に空間を飾り、訪れた者の心を恭しくさせるには充分だった。
閉鎖された空間が苦手な王の意向に従って、三方の壁には無数の窓が作られており、位置が高くなるにつれて窓の大きさが広がっていくので、下から見上げる者の目にはどの窓も一様の大きさであるように映った。
残る一方の壁には歴代の王の名を美々しく綴った薄青い石板が一面を覆っており、窓から差し込む日の光がそれに反射して不思議な色の光の帯が広間の中ほどに浮び上っている。
石板を背にして、漆黒の天鵞絨を貼った玉座が二つ並んでいた。
ヴェサニール国王とその后のためのものである。
高い背もたれや大きく張り出した腕の部分は大粒の碧玉で縁どられ、時折石板から反射した光を更に映し取って深い海のような青緑に色を弾いていた。
各国からの使者がヴェサニールを訪ねてきた場合、王と王后はこの『王の間』でその者たちに会うのが常となっていた。
その日トリビアとリヴィールが噂していた通り、確かに王の様子は妙だった。
城を抜け出したサフィラを目の前にして、いつも飛び出す第一声である
「またやりおったな、サフィラ」
の代わりに王の口から出た言葉は、
「おお、戻ったか。疲れたであろう。掛けるがよい」
である。
あまつさえいそいそと椅子を勧める始末で、例のない父親の反応にサフィラはかすかな不審の念を抱いた。王の側で母后が妙に落ち着かなげに夫と娘の顔色を交互に見比べているのにも、サフィラは気にかかった。
何かある。
当然の如くサフィラの胸中の不審は大きくなっていった。
よくよく気付いてみれば、浮き足立っているのは王と后だけではない。
侍従のクェイトも奇妙な面持ちで二人の傍らに控えている。
その表情はといえば、歓喜と憂慮が同居しているように見える。
喜ぶべきことがあるにはあるのだが手放しで喜ぶわけにはいかない、という複雑な自らの心境を持て余しているといったふうな様子である。
この部屋に居合わせる全ての人間が (入り口のところに立っている扉番の二人の少年までもが)そういう態度で控えていた。
勘が良くなくては魔道騎士はつとまらない。
ましてこのあからさまな緊張感が漂う場の中、サフィラが不審の念を感じなかったとしたら騎士の資格はないと言うべきであろう。姉妹侍女の大仰な話し振りを差し引いてもこの雰囲気は怪しすぎる。
サフィラの疑わしげな視線を避けるかのように王は王座の前を行きつ戻りつしては、なかなか話を切り出そうとしない。今一つ落ち着かないといったふうである。
「父上がお呼びだと聞いたので参上したのですが」
幾分強い口調でサフィラは言った。
どう振舞ってよいか分からない時はいつもサフィラは強い態度に出ることにしていた。
この時もそうだった。
「ああ、そう、そうだったな、うむ。うむ、うむ」
そして娘に強い態度に出られると決まって弱腰になってしまうのが父王だった。
サフィラが王女らしからぬ振舞いをし、魔道騎士になることを結局認めてしまったのも、その娘への気弱さが災いしたと言えよう。
そして更に付け加えるならば、不思議なことに王がおたおたし始めると、逆に態度が毅然としてくるのは后の方である。この時も、言葉を出し渋っている夫の姿を見兼ねて、はっきりとした調子で口を開いたのは母親の后だった。
「言い淀んでどうするのです。貴方が言えないのなら私から言いますよ」
「そうは言ってもどう切り出したらよいものか」
「どう切り出したところでサフィラにとっては同じ事。話をしてもいないのに娘の反応ばかり先読みしても意味がないでしょう。仕方がないから私の口から言いますわ、よろしいですわね」
「う、うむ……お前、時々とても頼もしいな」
「貴方が時々とても頼りないだけですわ」
「た、頼りないって、お前」
「夫婦の掛け合いはそこまでにしていただきたい」
幾分冷めた口調でサフィラが言葉を投げる。
「話があるなら迅速かつ明瞭に、さらに簡潔にお願いいたします」
「そうですね。さて、サフィラ」
后はおもむろに娘の方を向き、玉座から下りてサフィラに近付いた。
「では、迅速かつ明瞭、簡潔に言いましょう。実は先程隣国のフィランデから使者が一人見えました」
「フィランデ? ……緑の服の?」
サフィラはおうむ返しに言った。后が怪訝な顔をする。
「はい?」
「いえ、こちらの事」
トリビアのいい加減な憶測が当たっていたと知るとリヴィールはどんな顔をするだろうか。
サフィラはどうでもいいようなことを考えながら、后の言葉を促した。
「それで? そのフィランデの使者とやらが一体どんな知らせを持ってきたというんです。私に関係があるんですか」
「実は……」
后は微かに言葉を切った。
サフィラは何となく嫌な予感がした。
→ 第一章・ヴェサニールの魔道騎士 9 へ
サフィラは馬の手綱を馬舎の番人に渡して、今では毎日の日課とも言える王の呼び出しを予想しながら、自分の部屋へと向かった。
今頃は侍従が恭しく王の御前で敬礼してこう言っているところだろう。
「御主人様。サフィラ王女が今お戻りになりました」
ところがその日はいつもと様子が違っていた。
いつまでたっても侍従は現れず、珍しいこともあるものだとサフィラは半ば腑に落ちない面持ちで自分の部屋の扉に手を掛けた。
「まあ、お帰りなさいませ、サフィラ様」
扉を開けた途端、けたたましくも礼儀正しくサフィラを迎えたのは、侍女の双子姉妹トリビアとリヴィールである。明るい空色のメイド用ドレスをばたつかせながら二人はサフィラに駆けよった。
「今日はいつもよりお早いお帰りでしたのね」
サフィラの肩からマントを取り外しながら、妹の方のリヴィールが尋ねた。
「うん? そうだな。魔女殿のご機嫌を損ねそうになったので、早めに退散したんだ」
「そんなこと、どうでもよろしいですわ。それより」
姉のトリビアが運んできた新しい衣装を椅子の上に置くと、サフィラにずいっと近寄り小声で言った。
「それより王様がお呼びですのよ」
「父上が?」
サフィラはがっかりしたように寝台の上に腰を下ろした。
「あーあ、クェイトの爺様がいつまでたっても呼びにこないから、今日は説教なしだと思ったのに」
クェイトとは例の忠義一途の老侍従の名前である。
「爺様、倒れたのか? それとも頭の血管でも切れたか? いると欝陶しいけど、いないとそれはそれでつまらん。あいつの 『王がお呼びです』 が聞けないと城に帰った気がしないな」
「呑気なことを。クェイトさんはいつも通り、必要以上にお元気ですわ、サフィラ様。ね、お姉さま」
「ええ、そうですの。いえ、実は王様直々のお達示ですのよ。サフィラ様がお帰りになったらすぐに王様にお顔をお見せになるようにって」
「それが不思議なんですの」 リヴィールが一段と声をひそめて囁いた。
「いつもだったら、サフィラ様がこっそり城をお出になると、まあ王様の不機嫌なことといったらもう手の付けようがないほどですのに、今日に限って、ね、お姉さま」
「そう、今日に限って、これがまたえらく様子が違っていらっしゃるものだから、あたくしたち二人、一体どうなさったのかしらって先程も話しておりましたのよ」
「そうそう。心ここにあらずっていう感じで、妙にソワソワなさって。それでいて時折思い出したようにニコニコなさって、いつものご不興ぶりはすっかり影をひそめて。ね、お姉さま」
「そうなんですの。そうかと思えば、いきなりムッツリと難しいお顔をなすって、何か考え込まれたり。きっと何かフクザツな思いが心の内におありに違いありませんわ」
「ソワソワしてニコニコしてムッツリ…。我が父ながら不気味だな。近頃の陽気がついに頭にきたか」
「その言い様では、王様がお可哀相ですわ、サフィラ様」一応、姉の方がサフィラをたしなめる。
「だって、あの父上だぞ。訳もなく様子が変わる筈もないだろう。何か心当たりは……」
「それそれ、そのことなんですが」
サフィラに言葉を続ける暇を与えず、ひたすら二人の姉妹侍女は喋り続けた。
「妹が今日、サフィラ様が城を出たすぐ後でどこぞの国のお使者らしき人を見たと申しますの」
「ほんのすぐ後でしたのよ。窓からサフィラ様を見送って、こう、わたくしが一度外へ背を向け、ふと何気なく振り返った時にそのお使者の姿が見えましたの。丁度サフィラ様とサリナス様が行かれたのとは逆の方角から」
「きっとその方が何かそのフクザツな知らせを持っていらしたに違いありませんわ」
「それでね、お姉さまったら、そのお使者がフィランデの国の方だ、なんて自分が見てもいないのにそう言い張るんですのよ」
「だって、リヴィール、あなたその方が緑の色の衣装を着てらしたって言ったじゃないの。フィランデは森の国よ。森の国の人間が緑を着てどこがおかしいっていうの?」
「森の人々だからって緑ばかり着ているとは限りませんわよ、お姉さま。緑を好むなら草原の民だって同じですわ」
「でもあの街道はフィランデからアクウィラへと続いてこの国ヴェサニールを通っているのよ。お使者がいらっしゃったのはフィランデの方角だったんでしょ?」
「フィランデの向う側にだって国はありますわ。フィランデからとは限りません」
「リヴィール、あなたこそまるで分っているような言い方をするじゃないの」
「あら、そんなことありませんわ、ねぇ、サフィラ様、どう思います?」
二人は答えを求めるようにサフィラに目をやった。
「要するに」
二人の会話が跡切れるのを待っていたサフィラが、疲れたように頭に手をやって口を開いた。
「要するに、どこぞの国から使者が来て、それが緑の服を着ていて、今日の父上の様子が不可解で、私はその父上に呼ばれているんだな」
トリビアとリヴィールはお互いの顔を見合わせ、サフィラの方に目を戻すと言った。
「要するに、そういうことですわ、サフィラ様」
話の長い侍女というのも考え物かもしれない。
部屋を出て王の間に向かいながらサフィラは心の内で思った。
しかも、似たような顔つきの二人が交互に話すものだから、聞いている方は少なからず混乱する。この姉妹侍女と言葉をかわす度にサフィラが幾度ともなく思うことである。
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