麻与香はよく喋った。
彼女自身のこと。
両親の死後に自分を育てた血のつながらない叔父のこと。
幼い頃のこと。
人生のこと。
とにかく話のネタはつきなかった。
そして、語り終えた後、決まって J に同じことを尋ねるのだ。
「アンタは、どうだったの?」 と。
J の方は何も語らなかった。
語る必要がないと思ったからだ。
黙っている J にしばらく目をやった後、麻与香は再び話し出す。
エレメンタリー・スクールからジュニア・ハイ、カレッジに至るまで彼女が歩いてきた道を。
ハイスクール時代に 『お遊び』 で海外に2年程とどまっていたことを。
それがなければ、もっと早くカレッジに入学できたのだと麻与香はつまらなさそうに言った。
「でも、そうしていたら、アンタと会えなかったかもね、フウノ」
眩暈を起こせずにはいられない麻与香の言葉である。
J にとって耐えがたい 『交流』 は、このようなペースでおよそ2年近く続いた。
そして進級の時期を迎える頃。
カレッジだけでなく、世間全体を沸かせる 『ちょっとしたニュース』 が発表された。
ニホンに冠たるハコムラ・コンツェルン総帥の笥村聖と耶律麻与香の婚約である。
『結局、あんたは楽に人生を送る方法を手に入れたわけだ、麻与香』
そう、これが麻与香と交わした最後の言葉。
8年前の麻与香の姿と共に、J の記憶に残っている棘のようなメモリーチップだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カチャ…という硬質な音が、8年前から現在へと唐突に J の意識を引き戻した。
客人が去ったのを見計らって千代子がカップを下げにきた姿が J の目に入る。
机の上にある二つのカップは、片方が空、もう一方は口も付けられていない。
ここのコーヒーは、やはり麻与香の嗜好に合わなかったのか。
どうでもいいことを J は考えた。
カップを下げて部屋を出る千代子と入れ替わりに、諛左の姿がドアの向こうから現わる。
擦れ違いざまに千代子にコーヒーを頼むと、諛左は J に目を向けた。
「どうだった、同窓会は。盛り上がったか?」
「……」
明らかに面白がっている諛左の表情を、J はきつい目で睨んだ。
→ ACT 2-19 へ
先日、友人達と越後湯沢の温泉に行ってきました。
温泉、気持ちよかったです。
そばが美味かったです。
昭和博物館(だったかな?)、おもしろかったです。
総じて、楽しかったです……というような感想を書きたいわけではありません。
いや、温泉自体は良かったんですけど。
目的地へ向かう途中で、ちょっと面白いことがあり、
そっちの方がインパクト強かったので、それを書こうと思ったわけで。
当日、出発前の集合地で。
「高速道路調べておいたから、この通りに行けば大丈夫」と、
友人A子さんが、自信ありげに運転担当者に地図を渡しーの、
他のメンバーは特に疑問もなく、車に乗り込みーの。
いざ、出発。
金沢から北陸道に入り、しばらく行ってから
ナビをしていた友人B子さんが、A子さんの地図を見ながら、
「あ、上越で上信越道にチェンジです」
見ると、看板には 「長野 上信越道」 てなことが書いてあり。
普段は高速道路をめったに使わないメンバーばかりなので、
この時点では、誰も異変に気づかず、
「へえ、新潟に行くのに長野を経由するんだー。そんな道なんだー」と
無邪気に思って、皆で車の中で騒いでいました。これが第一の敗因。
地図を作ってきたA子さんは、特にはしゃいでいて
「向こうに着いたら、おやき、食べたいー」 なんて言ってました。
その時、全員が心の中で思いました。
(おやき……?)
(新潟の名産品に、おやきって入ってたっけ?)
(笹だんごなら聞いたことあるけど……)
そう、その時点で誰かが心の内に沸き起こった素朴な疑問を口にしていれば、
この先にくる厄介は避けられたかもしれません。
でも、皆なんとなく、(まあ、新潟にもあるんだろうな、おやき)的な解釈に落ち着き、
誰も口を挟まなかったのが、第二の敗因。
やがて、ナビのB子さんが次第に無口になり、
運転役のC子さんが、その気配に不安を感じたらしく、さりげに確認。
「道、これでいいんだよね?」
「……」
B子さんは無言のまま、地図を凝視。
「ねえねえ」
「……私たち、長野の中心に向かって進んでますけど」
「え?」
「これ、新潟に行く道じゃないのでは……」
それを聞いたA子さん、
「そんなことないっ。あたし、昨日一生懸命調べたし!」
とムキになる。
そこで高速の表示が、無情にも
『 東京まで ○○km 』
静まり返る車内。
「……東京だってよ」
新潟に向かっている筈なのに、何故、日本の首都へ? 迂回するにも程がある。
そこから、大騒ぎです。
とりあえず、途中のSAに入って、地図を再検討。
「あたし、調べたよー!」と言い張るA子さんが差し出した地図の上で
赤々と丸で囲まれていた地名は……。
『 野沢 』。
「あれ?」
そこにきて、ようやく自分のミスに気づいたA子さん。
私たちが向かっているのは、新潟の湯沢。
A子さんがルートを調べたのは、長野の野沢。
要するに、A子さんのあり得ない勘違い。
「……てめー、それでさっき、おやきが食べたいって言ってたんかい!」
「高速が一本違う!」
「どーすんだっ、今来た道を、また戻るんかい!」
「おやきとか、言ってる場合じゃねー!」
……と騒がしいこと、この上ない。
何しろ、道に詳しいメンバーは一人もいないので、皆、青ざめてしまってパニック状態です。
すると、運転役のC子さんが、
たまたまそのSAで休憩していた高速バスの運転手さんに聞いてきてくれて
それによると、ここから上越まで戻るよりも、
藤岡まで行って関越道に乗って、群馬を抜けた方が早い、とのこと。
高速バスのドライバーはすごいです。
さすがです。
それを聞いて、皆、それまでの不安が一気に吹き飛び、
「よし、これからは、高速で道を間違えたら、高速バスのおじさん達に聞こう!」
……と、はき違えた決意をして再び、高速道路へ戻ったのでした。
途中、現地で落ち合う筈の友人に遅れる旨を電話して。
何しろ、予定よりも3時間以上過ぎてましたから。
「あのねー、ゴメン、まだ高速なんだけど、もう少しかかりそう」
『今、どこ走ってんの』
「えっとね……群馬」
『……は!?』
驚くのも無理はない、マイフレンド。
石川県から新潟に向かう途中で、群馬にいるワケがない。何故、いる。
フツーはそう思います。
そして、一行は無事、新潟に到着したのでした。
必要以上に疲れ果てて……。
教訓。
「大丈夫だから!」と言われたことを、そのまま鵜呑みにしてはいけません。
まあ、地図を調べてきたA子さんにルートを任せっきりだった
私たちにも責任はあるんですが。
というわけで、道が不得手な旅行者にはよくある、ちょっとしたアクシデントでした。
麻与香の口調は訳もなく J の胸の中に反感の念を呼び起こした。
「ハグれてるようには見えないね。取り巻き連中が今のあんたの台詞を聞いたらどう思うか」
「フウノ、あんな連中とツルんで、あたしが何の得をすると思うの?
ちやほやされた女王様扱いを無邪気に嬉しがってるとでも?
あたし、そんなに馬鹿馬鹿しい女に見える?」
J は思わず麻与香を見た。
美しい顔を歪めて嘲笑うかのような表情は、それまで J が見たことのないものだった。
無情にも自分の崇拝者たちを本心から蔑んでいる。
その挙句に、自分に興味を抱いたのか、この女は。
J の皮膚の上をさざなみのような感触が軽く走りぬけた。
あの時と同じように鳥肌が立っている。
J は、少なくとも自分にとっては不毛に思えるこの会話を打ち切るように言った。
「ハグれてるっていうんなら、それでいい。
だからって、あたしに付きまとわないでほしいね。さっきも言ったけど、そういうの、迷惑」
「それはできないわねぇ」
当たり前のように答える麻与香。
「だって、あたしはもうアンタに興味を持ってしまったんだもの。
それに気づいてしまったんだもの。
だから、アンタも気づくべきだわ。あたしにね。絶対気づかせてあげる」
「……」
だからそれが迷惑なのだ、と連呼する気力を J は失いつつあった。
クモの糸がゆっくりと自分の周りに張り巡らされようとしていることを、本能的に悟った。
思った通り、耶律麻与香は厄介な女だった。
どんなに J が麻与香を避けようと、この女には関係ない。
麻与香の方が J への執着を解かない限り、この女は J から離れようとしないだろう。
「とにかく、もうあたしに近付かないで」
辛うじてその言葉だけを伝えると、J は返事を待たずに麻与香に背を向けた。
麻与香の気配を振り切るように歩き出す J に、
「だから、それは無理よ」
と、事も無げに言ってのけた。
その麻与香の口調は憎らしいほど涼しげだった。
そして宣言通り、麻与香は J に付きまとい続けた。
カレッジの人々は、麻与香という鮮やかな光に目が眩んでいた。
しかし今になってようやく、
半年程前に15歳で入学した、もう一人の学生の存在を思い出したようだった。
2人は、入学した時とは少し異なる意味で再び注目の的となった。
それも J にとっては煩わしかった。
→ ACT 2-18 へ
麻与香は言った。
「あたし? あたしはフツーよ。ただ他の人間よりも少しばかり自分の武器になるものが多いだけ。
でも、フウノは違うわね。あたしも他人も持ってないものを持っている」
「……」
「ねえ、 『フウノ』 ってニホンの苗字でしょ? あたしの名前もそうだけど」
「なんでそんなこと聞くのさ」
「アンタに興味があるって、さっき言ったじゃない」
「あんたには関係ないよ」
あらゆる人間の興味を引きつける威力を持つ女。
その女が、こともあろうに自分に興味を持っている。
そう考えただけで J は気が滅入った。
ハッキリ言って、迷惑だった。麻与香にもそう言った。
「迷惑なんて言わないでよ」
言われた麻与香は J に顔を近づけた。
艶やかな香りが J の嗅覚を刺激する。
「あたしね、正直言って他人に関心を持ったことなんかないのよ。
だって興味深い人間なんてこれまで一人もいなかったもの。
でも、覚えてる? この前アンタとすれ違いざまに目が合ったこと」
覚えていたかったわけではないが、忘れてはいなかった。
そう、あの時だ。
J の足が竦んだあの瞬間。
「あの時にね、気付いたのよ。フウノの周りを囲んでる空気に」
「空気?」
「そう。あたし、アンタから目が離せなかったわ。
その空気の正体を見定めてやろうと思ったのに。
でも分からなかった。それから興味がわいたのよ」
2人の人間の視線がかち合った瞬間。
あの瞬間から、J は麻与香を避け、麻与香は J に執着し始めた。
でも、何故。
J はいよいよ不可解の虜となった。
「そうね。何でかしら。あたしなりに考えてはみたのよ。
ぱっと見には、ただの小娘なのに、何があたしの気にかかるのか……。
最初はね、アンタがいつでも誰といてもハグれてるところだと思ったわ」
「ハグれてる?」
思わず J が聞き返す。
「そうよ。あんたは世の中にウンザリしてる。疎ましくてしょうがない。
だから人の中にはいられない。
そういう人間って自然と群れから外されるもんだけど、あんたは好きで自分から外れてる。
ガキのくせにね。でも、そういう心境って誰にでもあるものだわ。あたしにもね」
「あんたにも? そういうのって、あんたとは無縁の心境に思えるけど」
J は言い切った。
その口調には、冗談じゃない、というJの思いがありありと浮かんでいる。
「あんたのどこがハグれてるって言うのさ?」
「ハグれてんのよ」
妙に断定的な調子で麻与香は言い切った。
→ ACT 2-17 へ
毎日毎日、麻与香は J の姿を見かけるたびに近寄ってきた。
一方的に他愛もない話題を振りまき、一方的に J を質問攻めにする。
その答えも待たずに一方的に去っていく。
翌日になれば、また同じことが繰り返される。
まるで毎朝、鳥カゴの中の鳥に語りかけ、言葉を教えでもするような調子で。
何なんだ、この女。
麻与香の態度は当然 J の反感を誘った。
毎日同じ人物に話しかけて、それを100日続ければ望みがかなう、という迷信の類だろうか。
まさかそんな、と思いつつ、そういう馬鹿げたことまで考えてしまう J であった。
そういう状態が半月以上も続いたある日。
不可解さから逃れたい一心で、J はついに麻与香に尋ねた。
「あのさ」
「何?」
麻与香の声が蠱惑的に響く。
「これって、一体何のゲーム?」
J の質問に、麻与香はすぐには答えなかった。
目の前で悪魔的な微笑が浮かんでいる。
「やっと聞いたわね」
してやったり、という表情が麻与香の美貌を支配していた。
J は尋ねたことをすぐに後悔した。
「実はちょっとした賭けをしていたのよ」
「賭け?」
あからさまに不愉快さを浮かべた表情で J は麻与香を見据えた。
それに対して、当の麻与香は口の端を少し上げて、もう一度笑って見せた。
「そうよ。ま、賭けって言っても、あたしが勝手に自分相手に賭けてただけの話なんだけど」
「何、それ」
「率直に言うとね、あたし、アンタに興味があるのよ、フウノ」
麻与香はそのまま口を閉ざして J の反応を待った。
J が黙ったままでいるつもりなのを見て取ると、小さく息をついて言葉を続ける。
「フウノ。アンタってさ、フツーの顔してカレッジなんか通ってるけど
どっかフツーじゃないってコトに自分で気付いてる?」
「……」
「ああ、言っとくけど 『フツーじゃない』 っていうのは、
『おかしい』 とか 『変』 とかいうイミじゃないから。
そうねえ……『他の連中と違う』 っていう表現の方が近いかしら」
思いもよらない麻与香の台詞が J を驚かせた。
たった今自分が言われた言葉は、そっくりそのまま麻与香の方にこそ当てはまるだろうに。
そう伝えると、麻与香はもう一度笑った。
→ ACT 2-16 へ
キャンパス内を颯爽と歩いていた麻与香の姿は今でも J の脳裏に焼き付いている。
特異な存在だった。
男の目を引くには充分すぎるほどの美貌を持つ女。
しかし、彼女自身は特定の相手を作ることもなく、取り巻きに囲まれるに任せていた。
女王様気取りだ、まるで。
ちやほやされて舞い上がっているだけの女。つまらない。
遠巻きに麻与香の姿を見る度に J は思ったものだ。
J は他人と一緒にいることが苦手で、単独行動を取ることが多かった。
それ故に麻与香の女王ぶりは、いっそう胡散臭く思えた。
ある時、J はさざめきながら構内を歩く麻与香の集団とすれ違った。
そのために、いつもより近くで彼女を観察する機会に恵まれた。
J 自身は特にその気もなく通り過ぎ、何気なく目を麻与香に向けた。
J はふと気が付いた。
まわりに群がる連中の浮かれた表情とは対称的に、麻与香の目は冷ややかだった。
長い睫に隠れた瞳に、疎ましげな色が浮かんでいるのが見えた。
その瞬間、麻与香も J を見た。
2人の目が合った。
麻与香は J を見つめた。
長い時間が経ったような気がした。
そして次の瞬間、麻与香は J に向かって婉然と微笑みかけたのだ。
麻与香の笑顔は、J の歩みを凍りつかせた。
鳥肌が立った。
何故かは分からない。
だが、本能的に、そして瞬時に J は悟った。
まるでクモのようだ。この麻与香という女。
その目だけで、蝶を絡めとるように人を捕まえる。
たった今、自分自身の足を竦ませたように。
J は視線を無理矢理麻与香から引き剥がし、足早にその場を去った。
背後に麻与香の目が突き刺さっているのが痛いほど感じられた。
あの女には極力近寄らないようにしようと、J は思った。
近付けば近付くほど、目に見えないクモの糸で身動きが取れなくなりそうな気がした。
しかし、J の決心はいともたやすく裏切られた。
翌日、J に言葉をかけてきたのは、麻与香の方だった。
「ねえ、フウノ」
麻与香は J に呼びかけた。
その翌日も、そしてその翌日も。
視線が合ったあの日を境に、麻与香は日を置かずに J に話しかけてくるようになったのだ。
→ ACT 2-15 へ