「あー、なんだ、その」
アリヲの指摘に対して、何と答えたものかと J が言い淀んでいると、
まるでタイミングを見計らったように、
2人の目の前に2枚のプレートが無造作に投げ出された。
無口な店主の料理が完成したらしい。
「来た来たーっ」
無邪気な歓声を上げるアリヲの関心は、既に J から離れているようだ。
ほっとしたような、それでいて問題をうやむやにしてしまったような、
複雑な気分の J だったが、
やる気のない自らの口癖に関しては、できるだけ今後は気をつけるようにしよう、と
(少なくとも、これから前向きな人生を送るべきアリヲの前では、の話だが)
J にしては殊勝なことを考えながら、アリヲに倣ってハシを取った。
気を取り直した J が視線を落としたプレートの上では、
つぶしたジャガイモの中に肉の破片らしきものと野菜屑が溺れていた。
上からはソースらしき液体が申し訳程度にかかっている。
見た目には少しグロテスクな、得体の知れない料理、いや物体である。
その物体が、今まさに 『さあ食え』 とばかりに2人の前で食べられるのを待っている。
ワカツが作る物を初めて目にした客は、大抵の場合、軽い抵抗感を覚える。
手間がかかってないから、当然安い。
だが、見てくれが悪すぎるのだ。
J もアリオももう慣れていたが、
ごく普通に店で出されるような料理を想像してきた客にとっては
実際に目の前に出されたものを見て、
これなら家に帰って、美味くも不味くもない女房の手料理を食べる方がマシだ、と
後悔する人間も少なくはないだろう。
だが、何故か味は悪くないのだ。
むしろ良いと言える。
それが J には不思議でならない。
こんなに不細工な料理なのに、何故。
無愛想で無口な店主が、
以前はセンターエリアの高級レストランで働いていたことがある、という
まことしやかな噂を J は耳にしたことがある。
この店を訪れた時に、たまたま居合わせた客の一人が、こっそりと教えてくれたのだ。
『何でも、コレが原因で』 と、その客は小指を立てて見せた。
『その店にいられなくなったらしいぜ。オーナーの女に手でも出したのかね』
屋台通りでワカツと軒を連ねている隣店の主人は、こうも言っていた。
『高級店かどうかは知らないけどね、センターにいたのは確からしい。
女がらみというよりも、自分が作った料理を食通ぶったヤツにけなされて、
大ゲンカして店を辞めたって話だけど。あいつ、結構プライド高いからね』
この男は比較的ワカツと親しい間柄だが、
それでも本人に直接聞いたわけではなく、噂と想像による意見である。
ワカツという人間に関しては、この他にも様々な憶測が飛び交っているが、
センターエリアで料理人をしていた、という点だけは共通している。
見た目の悪さに反して予想外に美味い料理のことを思えば、
あながち偽りではないだろう、と J は思っている。
それ程の男が何故、ダウンエリアの片隅で
流行っているとはいえない屋台を細々と営んでいるのか、と思わなくもないが、
華やかなセンター族を離れてダウナーズに落ち着く人間は意外と多いのだ。
ワカツもその一人なのだろう。
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「金持ちとか、貧乏とか、そういうハナシはやめよう、アリヲ。
気分が落ち込んでくるから」
「誰もビンボーの話なんか、してないじゃない」
「いいから、他の記事を読みなさい」
「自分が見たい、って言ったくせに」
「充分見ました。でも、見たからって、自分が金持ちになれるわけでもないし。
バカバカしい気分になっただけだった」
そう言って、J はデイリーペーパーをアリヲに押しやった。
金回りのいい人間の話は、J の気分をロー状態にする。
それだけではない。
無責任な記者が書きたてた記事は、
事務所に帰るまで考えないようにしよう、と J が心に決めていたハコムラの依頼の件を
否応なしに思い出させ、J の気分に更に追い討ちをかけていた。
世界的な億万長者の行方捜し。
なんて面倒な、なんて憂鬱な仕事。
まあ、仕方がないか。
J はため息をついた。
800万であろうと、それ以下であろうと、仕事は仕事に違いない。
何でも屋を自負する立場としては、
納得ずくではないが、一度引き受けてしまったからには断るわけにはいかない。
小姑のようにうるさい諛左なら、きっとそう言うだろう。
しかし、J の言葉に対して、唇をとがらせたアリヲは他のページを広げながら、
まったく別の感想を口にした。
「J ってさ、いつもそゆコトばっかり言ってるよね」
「え?」 J は虚を突かれたような表情をする。
「だってさ」 アリヲは言葉を続ける。
「『バカバカしい』 とか、『メンドくさい』 とか、『つまらない』 とか、『タイクツだ』 とか、
聞いてるとさ、結構テンション低い台詞ばかりじゃない」
「……そ、そうかな?」
「そうだよ。前向きなコトを言ってる J って、見たことないもんね」
「もんね、って、お前、そんなことは……」
ないだろう、と言いかけて、J は口を閉ざした。
思い当たるフシは大有りである。
怠惰を身上とする J にとって、覇気のかけらもない台詞はすでに呼吸に等しい。
しかし、それをアリヲに指摘されるのは、J にとってなかなか辛いものがある。
アリヲの口振りは決して非難めいたものではなく、
どちらかというと、むしろ感心しているような調子さえ感じられ、
だからこそ、さらりと聞き逃すことができない。
「怒っちゃった?」 言葉に詰まった J に、アリヲは少しだけ顔を曇らせ心配そうに尋ねた。
「いや、怒ってはいないよ……まあ、いいんだけどさ、別に」
「あ、それもよく言うよね」
「え」
「その 『別にどうでもいい』 っていう台詞。
ホントは、どうでもいい、なんて思ってなさそうなのに、そゆコト言っちゃうよね。
どうでもよくなければ、そんなふうに言わなくてもいいのに。
それって、やっぱりメンドくさいから?」
「……」
多少のことでは動じない J だが、
自分の半分近い年齢の少年にこういうことを言われると、さすがに鼻白んでしまう。
しかも、その言い分が当たっているから尚更である。
アリヲの言葉に、予想外に自分がショックを受けていること自体がショックだった。
たかが12歳の少年。しかし侮りがたい。
周囲の大人達が子供を見るよりも遥かに冷静に、子供達は大人達を観察している。
責めるわけでもなく、
純粋に疑問符を顔に浮かべながら尋ねてくるアリヲの視線が、J には痛い。
→ ACT 5-15 へ
頭上からの灯りで手元が暗くならないよう気をつけながら、
J は紙面に書かれた文字に目を走らせた。
それは、エウロペの経済誌が毎年行っている個人総資産ランキングの統計を元に、
デイリーペーパーの記者が来年度の結果を予想したものだった。
記事の傍らには、つらつらと人名が書かれた順位表があり、
いわゆる世界中の億万長者の資産額、国籍などが上位から順に記されている。
「ほら、ここ。ハコムラヒジリって書いてある。14位だってさ」
アリヲが指差した先に、J も 「笥村聖」 の名を見つけた。
「資産額2兆イェン以上、だってさ」 アリヲが続ける。
「2兆って、お札にしたらどのくらいの量なんだろう。なんか多すぎてピンとこないね」
「少なくとも、この店の屋根に」 J が頭上を見上げる。
「それだけの金を積み上げたら、間違いなく重みでつぶれる」
J の勝手な想像に、調理中のワカツがジロリと視線を向ける。
アリヲと違って、笥村一族の資産額に J は今さら何の感慨も抱きはしなかったが、
それよりも、世の中には笥村以上の富を持つ人間が少なからず存在する、という事実に
むしろ興味を覚えた。
「ハコムラ以上の金持ちが13人もいるのか……バケモノだな」
隣にいるアリヲに言い聞かせているようで、どこか独り言めいたその言葉は
呆れたような響きを含んでいた。
ニホン人としては最高位だが、それでも14位。
やはり世の中は広いのだ。
ハコムラ、ハコムラと騒いでいるのは、結局のところ
千切れた世界の中の、ほんの狭いエリアの住人、つまりニホン人だけなのかもしれない。
勿論14位といっても、その資産額は J の生涯所得など及びもつかない金額である。
それだけ裕福であれば、笥村聖の捜索のために妻の麻与香が持参した
800万イェン・プラスアルファという金額も、この一族にとっては雀の涙以下なのだろう。
「何だかなあ……」 J はため息をついた。
「どうしたの、J 」 げんなりとした J の表情に、アリヲが不思議そうに尋ねる。
「いや、何と言うか……こういうのを見ると
フツーに稼いで、フツーに暮らしていくのが、すごくバカバカしく思えてくるんだよね」
そう呟いた J は、先ほど通り抜けてきた路地の様子を思い出していた。
そして、今にもつぶれそうなワカツの店を眺め、再び 紙面の 番付表に目を戻す。
この暮らしぶりの差は何なんだろう。
同じ世界で、同じ時代に、同じように生を受けた筈なのに。
今の世の中、『公平』 という言葉は、辞書の中にしか存在しないらしい。
「ボクたちとは世界が違うんだよ、こういう人たちは」 大人ぶった口調で、アリヲが言う。
「でも、父さんがよく言ってる。
お金を持ってたって、ロクなことがないって。
それに、お金をたくさん持ってる人には、ロクな人間がいないって」
子供に何を言い聞かせているんだ、あの親父は。
半ば呆れ顔の J だが、アリヲの父親の意見が全面的に正しいという訳ではない。
かといって、あながちハズれてもいない。
J としては大いに賛成したいところだ。
結局のところ、よほどのことがない限り、
富というものは既に富む者の周囲に集まり続けるのだろう。
それがロクな人間であろうと、なかろうと。
困ったものだ。
そして、持たざる者としては、そういう人種とは、あまり付き合わない方が賢明だ。
少なくとも、J はそう考えている。
長者番付に名を連ねる一族の人間、
つまり笥村麻与香は、本意ではないにしろ J の古くからの知り合いだが、
金と暇に飽かせて散々あの女に振り回されたカレッジ時代のことを思い出すと、
今でも J は気が滅入るのだ。
→ ACT 5-14 へ
外見だけで判断すると、ワカツは30代に見える。
この街には掃いて捨てるほどいる正体不明の人々と同様、
ワカツも、名前以外は出生も素性も明らかではない男だった。
長い茶色の髪を後ろで束ね、額にはバンダナ。
鳶色がかった目は細く、骨ばった顔は全体的にあっさりとしていたが、
うっすらと無精髭を生やしているせいで、何とかメリハリがついている。
店に現れた J とアリヲを一目見て、ワカツは何を言うでもなく店内を見渡した。
空いているところに座れ、という意味らしい。
いつもお決まりの動作だ。
だが、いつ訪れても空き席に困らないこの店にとっては
それは無意味な仕草だ、といつも J は思っている。
店の数少ない常連である2人は、いつも食べるものが決まっている。
と言うよりも、一日に出されるメニュー自体が1つしかない。
その日の気分によって食べたいものを選ぶなどという余地がないのが
ワカツの店の特徴といえば、特徴であった。
J とアリヲが訪れた今も、当然ワカツは何も尋ねず、
まだ席にもついていない2人を尻目に早速料理に取りかかる。
愛想がないだけでなく、この男は口数も極端に少ないのだ。
何しろ、客に 「いらっしゃい」 すら言わないのだから。
ワカツの店で常連になり得るのは、
このような客商売にあるまじき店主の態度や、選択肢のない食事に対して、
寛容あるいは無頓着でいられる性分の人間だけである。
2人のように。
カウンターの裏でコンロに火を点けて、ワカツが何やら調理している間、
アリヲはカウンターの端に投げ出されていたデイリーペーパーを手に取った。
日付は2日前。
恐らく客が持ち込んで、そのまま置き捨てていったものだろう。
「ワカツ、電気つけるよ。ちょっと暗くて読めないや」
そう訴えたアリヲに、ワカツはやはり無言で頷いた。
天井には電線で吊るしただけの電灯が幾つか並んでいて、
アリヲは勝手知ったる、というふうに、宙にぶら下がっている紐を引いた。
途端に店内が明るくなり、それに比例して入り口から覗く外の景色が暗さを増す。
時折、電灯の明度がすっと弱まることがあったが、
それは近隣の店で電力を共有しているせいである。
電力会社からの供給電力は少ない上に電気代もバカにならないので、
この辺りの店や屋台は、自家発電による電力を共同利用しているのだ。
J の隣では、アリヲがデイリーペーパーを目の前に広げて、
その細かな文字を順に追っている。
活字好きの少年は、書物であろうと新聞であろうと、
文字が書いてあるものさえ見つけたら、それを読まずにはいられないようだ。
「何かオモシロそうな記事、載ってるか?」
煙草を取り出して火を点けながら、J が尋ねた。
「えっとね、そうだなあ……」
紙面を吟味するようにアリヲが目を落とした。
「『衛星回収率、年内3割超えの予定。二次利用の見通し難航』 だって」
アリヲは見出しの大きな文字だけを拾い、声に出して読んだ。
普段から文字に親しんでいるだけあって、
大人向けに書かれた複雑なニホン語も難なく読めるらしい。
「他には?」
「『人間クローン解禁に関する修正案提出。いまだ残る根強い倫理問題』」
「他」
「『エウロペ声楽界の至宝マノン・デ・オッツェル、来春ニホンで初リサイタル開催決定』」
「……」
J は少し考えるような表情を浮かべたが、すぐにそれを煙草の煙の陰に追いやった。
「他は?」
「『来年度の世界長者番付、ニホンの雄・笥村聖氏の順位は?』」
「……ちょっと見せてみ」
初めて興味を惹かれたように、J が横から紙面を覗き込む。
→ ACT 5-13 へ
「誰かが見てた」
「え」 と、アリヲがぎくりとした表情を浮かべる。
「……と思ったんだけど、違ったみたいだ」
「やめてよ、こんな所でそゆコト言うの」
アリヲは J の背中にしがみつかんばかりになって言った。
どうやら本気で怯えているようである。
感受性が強いこの少年は、ささいな不安や恐怖に対しても敏感なのだ。
「ホントに怖がりだね、お前は」 と、呆れたような J。
「しっかりしなさい、男の子」
「だって、この道さ、何かちょっとコワくない?」
J が嗅ぎ取った路地の鬱気を、アリヲもしっかり感じているようだ。
路上に目を走らせ、見えない人影を探すように四方を見回している。
「夜にはゼッタイ通りたくないよね、ここ」
「お前の嫌いなユーレイとかオバケとかも出そうだしな。
……さっきあたしが感じた視線の主、実は人間じゃなかったら、どうする?」
「だから、そういうコト言わないでってば」 アリヲがムキになる。
「第一、オバケがこんな明るい時間に出るわけないよ」
「出ることも、あるカモよ」 低い声音で J が脅すように言った。
「やめなって、もう」
アリヲは軽く J を睨み、少しムッとした口調で J の手を引っ張り、ぐいぐいと先に進んだ。
こんなふうにアリヲが J に揶揄されるのはよくあることで、
アリヲの方も真剣に怒っているわけではないが、やはり愉快な気分ではないらしい。
「ほら、早く行こうよ。もうすぐ屋台通りに出るんだから」
アリヲの言葉通り、数秒後ようやく2人は路地から抜け出すことができた。
どちらからともなく、ホッと息をつく。
アリヲのように恐怖心を感じていたわけではないが、
路地裏の独特な閉塞感には、J もウンザリしていたのだ。
2人が出たのは、先ほどまで歩いていた表通りよりも狭い道だが、
たった今通り抜けてきた空間と比較すれば、充分広く、そして充分活気があった。
屋台通り。
その名の通り、大小の屋台を中心として、様々な出店が建ち並ぶ通りである。
時間帯によっては、表通りより通行人が多いこともあるが、
ちょうど混み合う時間よりも少し早めの今は、予想外に賑わいが少ない。
J とアリヲは、雑多な屋台の並びから目指す一軒を選んで足を向けた。
バラックに近いその店は、今にも傾きそうな店構えを呈していた。
錆び付いて、ところどころ穴の空いたトタン板をなけなしの屋根代わりにしている。
四方を囲むのも、これまたどこで拾ってきたのか、というようなベニヤ板で、
一つの空間としては成り立っているが、およそ店とは言いがたい外観である。
元の色が判らなくなるほどペンキの薄れた壁の文字は、辛うじて 『…カツ』 と読める。
元々は 『ワカツ』 と書いてあったらしい。
この店の主人の名前であり、店の名でもある。
月日が経つ内に色あせてしまったようだが、
店主が直そうともしないから、ずっと 『…カツ』 になっている。
勿論、道行く人間が気にする筈もないので、これからもこのままに違いない。
扉のない吹きさらしの入り口を入れば、外観よりも広く感じられる店内が待ち受けている。
だが、実際に広いわけではなく、単に物がないからそんな印象を与えるだけである。
席はカウンターのみ。古びた椅子が不揃いな間隔で並んでいる。
カウンターの向こうでは、様々な調理器具が並んだ棚を背景に
無愛想な男が一人、煙草をふかしながら立っていた。
主人のワカツである。
→ ACT 5-12 へ
道端では、古びて傷だらけのブリキのゴミ缶や、積み上げられた空の木箱、
一体いつから放り出されているのか判らないほどボロボロになった段ボールなどが
雑多に地面を侵食している。
それを左右に避けながら、2人は路地を通り抜けていった。
道の途中にある家の前では、2匹の猫が気だるそうに地面に寝そべっている。
J とアリヲの姿を見ても、逃げようともしない。
打ち捨てられた空き缶が J の足に触れて地面を転がり、
その硬質な音に、猫はぴくりと身体を起こしたが、
自分達に害はないことを見て取ると、また元の姿勢に戻って迷惑そうにヒゲを振るわせた。
同じ音を聞きつけたのか、家の窓からは外を覗き込む顔が見え隠れする。
住人達の顔に、どこか頑なで、そのくせ何かを諦めたような表情が浮かんでみえるのは、
決して気のせいではないだろう、と J は思う。
警戒心、不信感、倦怠感、etc. etc.……。
裏通りに追いやられた人間だけが持つ、負に近い感情。
彼らにとっては、目の前を通り過ぎるだけの人間ですら余所者なのだ。
その感情が、他人を拒絶する雰囲気を細い路地に育んでいる。
ふてぶてしいのは、猫だけだ。
治安が悪いわけではない。
だが、空気の流れと人の意識が合い混ざって滞っている、暗い陰りのようなスポット。
ダウンエリアにはそういう路地裏が無数にあり、さほど珍しくもない筈なのだが、
路地に漂う雰囲気に飲まれたのか、いつの間にか J とアリヲは無口になっていた。
そして、少しばかり足取りが急ぎになる。
この細い空間をできるだけ早く抜けたい、という思いが、そうさせているようだ。
何度も通ったことがあるとはいえ、アリヲはこの道を嫌っている。
J と一緒の時ならともかく、一人では決して足を踏み入れようとしない。
やはり、ここに流れる独特の空気や暗さが苦手なのだ。
負の空気に対する子供ならではの恐れを抱くアリヲとは別に、
J は J で、ここを通り過ぎる度に思い知らされるのだ。
街にも陰影があることを。
それは街に住みつく人間達の人生と一致することを。
その事実が、J の倦怠を無意識のうちに増していく。
ようやく路地の終点近くまでたどり着いた時、
ふと、J は背後に何かの気配を感じ、足を止めた。
誰かに、見られているような気がした。
「どうしたのさ、J」
突然止まった J に、アリヲが心細そうな声をかける。
「うん……ちょっと」
そう答えながら、J は後ろを振り返った。
その黒い目が、たった今歩いてきた狭い道を睨んでいる。
J の視界に、放り出されたゴミや、先ほど目にした猫が大きく欠伸をしている姿が映る。
しかし、それ以外には特に注意を引くようなものは見当たらない。
既に遠くなった路地の入り口で、大通りを行く人影が一瞬だけ通り過ぎていく。
動くものといえば、それぐらいだった。
気のせいか。
J は周囲を改めて眺め回した。
あるいは、J が感じたのは路地裏の住人達の排他的な視線だったのかもしれない。
久しぶりに通ったせいか、閉塞感あふれる路地の空気に、
J 自身、少しばかり神経過敏になっているようだった。
「ねえ何なの、J」
アリヲが声を潜めて、もう一度尋ねた。
J の背後から顔だけ出して、キョロキョロと辺りの様子を伺っている。
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