あの車。あれは確か。
J の記憶がフラッシュバックする。
耳障りなエンジン音に眉をひそめているうちに、
心のはるか奥底に鎖をつけて沈めておいた記憶の一つが、不本意ながら甦る。
まさか、ね。
J は記憶を打ち消そうとした。
だって今、目の前にある車は、自分が覚えているものとは型が違う。
きっと別物だ。
しかし、品のない赤い光沢は、否応なしに J に誰かを思い出させた。
モノトーンの街で悪目立ちしている、軽薄で趣味の悪い、この車。
甦った記憶は、カレッジの学生だった当時のものだ。
意に反して麻与香と行動を共にすることが多かった、あの頃。
派手な赤い車がカレッジの門前で、誰かを待ち受けるようにしょっちゅう止まっていた。
今みたいに、エンジンをかけたまま。
麻与香はその車を見つけると、いつも手を振って車中の人間に呼びかけていた。
『ナオト』 と。
しかし、J は記憶に逆らって、自分の感情に素直に従うことにした。
クラクションを無視して踵を返し、車のことなど目にも入らぬ、とでも言いたげに
アリヲの手をつかんで歩き出そうとする。
その途端、
「フウノ、フウノだろ?」
背後から男の声が飛んできて J の耳に突き刺さった。
「……」
当たっても嬉しくない予感、むしろ当たると腹立たしい、というのは確かにあるもので、
今の J の心境が、まさにそれだった。
聞き覚えのある声。
不愉快な記憶とつながる、軽い声。
J は声を振り払うかのように、歩く速度を1割増し早めた。
「ちょ、ちょっと、フウノ、フウノったら」
車のドアが開く音がして、声の主は少し慌てたように再度呼びかけた。
明らかに J に向かって投げかけられたその声に、アリヲがつい振り返る。
「……ねえ、J。なんか呼ばれてんじゃない?」
「気のせいだろう。ほら、前見て歩く」
「うん、でもさ、あの人が」
「いいから」
さらに強く手を引く J だが、背後の声を気にするアリヲの歩調は自然と緩やかになり、
小走りに近付いてきた男に、結局2人は追いつかれてしまった。
「ちょっと、待てったら……フ、フウノ、歩くの、早いって」
男は息を切らせて、2人の前に回りこむ。
紺のラージ・スーツに濃い緑のネクタイ。
目はサングラスで隠れていて見えない。
「挨拶ぐらいしてくれたっていいじゃねえの、フウノ」
男は呼吸を落ち着けると、甘えるような、くだけた口調で J に話しかけた。
薄らと生えた無精髭は、男が喋るたびに口と一緒に蠢いている。
にやけた表情は、確かに J の記憶にある昔のままだった。
出会いたくない人間というのは、人生の一定期間中に重なって現れるものらしい。
J はため息をついた。
麻与香といい、笥村家の番犬(何という名前だったか忘れたが)といい、
最近出くわしたのは、どれも遠慮したい人種ばかりだ。
そして、今、もう一人。
J はウンザリした表情を隠そうともせず、舌打ちした。
「……相変わらずセンスの悪い服だな、鳥飼那音(トリガイ・ナオト)。」
血のつながらない、麻与香の叔父。
鳥飼那音との、それが8年ぶりの再会だった。
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