サフィラは視線をテーブルの上に落とした。
薬草茶の湯気が音もなくサフィラの目の前まで忍び寄ってくる。重く疲れた頭の中で鐘楼の鐘が鳴り響いているような気がした。
「頭が、痛い……」
「どうしたんだい、一体。……シヴィ、何が起こったのさ?」
マティロウサは助けを求めるように老いた魔法使いの方を向いた。常ならぬサフィラの様子に、いつもの口の悪さは鳴りを潜め、さすがの魔女も気遣わしげな色を面に浮かべていた。
老シヴィは何も言わず、すっと立ち上がると手を延ばしてサフィラの青ざめた額に触れた。
柔らかな陽射しにも似た暖かさがサフィラの中に広がり、頭の中に立ち込めていた雲が少しづつ晴れていくような気分をサフィラは味わった。
「……だいぶ良くなった。ありがとう、老シヴィ」
言葉通り顔色が良くなったサフィラは、老シヴィに微笑みかけた。
マティロウサがふっと息を大きくついた。
「やれやれ、癒しの魔法かい。一体何を癒したんだい?」
「なに、大したことはない。悪い夢を見ただけじゃよ、なあ」
「夢?」 サフィラは物問いたげな瞳を老人に向けた。老シヴィは静かにそれを見返す。
「あれは、夢か? 夢なら何を意味する?」
「さあのぅ」
老シヴィは再び腰を下ろしてアサリィ茶を一口啜った。微かに寄せた眉根が老人の悲しげな心情を現していた。
「夢は、夢じゃよ」
「でも」
「夢ってのは何のことだい?」 マティロウサが焦れったそうに口を挟んで、サフィラの言葉を遮った。
「一体どんな夢をご覧だっていうのさ。私の家の中で私に分からない話をしないどくれよ」
老シヴィは途端に元の穏やかで楽しげな表情を取り戻し、アサリィ茶を飲み干すと茶碗をマティロウサの胸元へと突き付けた。
「ほれ、話題から仲間外れにされたもんで、機嫌が悪いと見える。お茶のお代わりを」
「自分でお注ぎ。いい年して何が 『仲間外れ』 だい」
「年の事を言ったら、お前さんだって同じ様な立場にいるじゃろうが」
「言っとくけど、私ゃあんたよりか百年程も若いんだからね」
「魔法使いの身にとっては、百年といってもそう長い時間じゃなかろうが」
「いちいち気に入らないことばかり並べ立てて、この爺さんは。大体ねえ…」
「マティロウサ」
二人の魔法使いの間に不穏な空気が上り始めた時、唐突にサフィラが口を開いた。
「サリナスの所に顔を出してくるよ」
「え? でもお前……」
「マティロウサに会わなかったのと同じくらい会ってない。サリナスが城へ出入りするのを父上が禁止してしまったからね」
「そうか……でも」 心持ち心配そうにマティロウサが尋ねる。
「もう具合は大丈夫なのかい? 顔色はもういいみたいだけど」
「うん、もう良くなった。後でまたサリナスと一緒に寄るよ。そうだ、そういえば、借りていた古文書も返さなきゃね。借りっ放しだったからな」
「ああ……あれのことか」
一瞬、老魔女の表情が強張る。その目がちらりと老シヴィの方へと走ったのをサフィラは気付かず、言葉を続けた。
「大事な書き物なんだろう? あんなに旧いんだから」
「そうだね……そろそろ、あれが要り用な時期かもしれないね。今、サリナスのところに?」
「ああ、サリナスに渡しておいたんだ。あいつ、読めたかな? あの古文書はかなり手強いぞ。解読には手間が掛かるだろうな」
「お前がそう思ってるんじゃ、あの子にとってもたやすいとは言えないだろうさね」
マティロウサは素直に認めた。
はっきりと口に出しこそはしないが、サリナスより七才も年下のサフィラの方が、サリナスよりも能力的に上を占めていることを、この魔女は密かに感じ取っていた。
立ち上がりかけたサフィラを、マティロウサが思い出したように引き止めた。
「ああ、そうだ、サフィラ。サリナスのとこから戻ってくる時に、クワシアの実を少し分けて貰ってきておくれ。丁度、切らしてるんだよ」
「分かった。他に用はない?」
「そうだね、できればガネッシャの干したやつも」
「クワシアとガネッシャね」
どちらも魔道に携わる上では欠かせない植物である。
サフィラは確かめるようにその名を口に出してみて、そして挨拶もそこそこに、それでも何やら物問いたげに老シヴィの方へちらりと目をやったが口には出さず、老人に向かって軽く頭を下げると朱鷺色のマントを翻らせて、マティロウサの住家を後にした。
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