序章・谷
黒の魔法使いがいた。
裾まで流れるゆったりとゆるやかな長衣は黒。
風にとかれてなびく髪も黒。
幾星霜もの時を眺めてきた双の瞳も黒。
手に持つハリトゥサの木で造った竪琴の色までが、夜を映しとったような黒であった。
今、魔法使いは、その闇の瞳をはるかに遠い空に向けて、険しく切り立った崖の頂にたたずみ、静かに風に吹かれていた。
目の前には、崖と崖にはさまれた小さな谷が開けている。
銀の糸の束にも似た川の流れにそって、緑色の大きな敷物めいた草原のところどころに、白い石で作られた家々が立ち並んでいる様子が、まるで投げ落とされた小石の群れに見えた。
空気がゆらゆらと揺らぎ、魔法使いの長く美しい黒髪が、それ自身風と化したかのように優美な肢体の回りを舞う。
彼は身動きもしない。
まるでこの世の果てを見極めようとでもしているかのように、その目は厳しい色を帯びていた。
空は、紗のヴェールで覆ったように憂欝な輝きを投げかけ、日の光は厚い雲の向こうに隠されて地上までは届かない。
風の音は、妙に禍々しい響きを含んでいた。
ブールの花も咲こうという今時分、このような強い風が谷に吹きつけるなど例のないことであった。
風の精は気まぐれだが、そればかりが理由ではないことを魔法使いは知っていた。
一体。
魔法使いはいつも心に浮かぶ問いを、再び頭の中にめぐらせた。
一体どれだけの時間が目の前を通り過ぎていっただろう。
どれだけの間、自分は待ち続けていたのだろう。
あの古の日々から、一体幾多の月日を自分は重ねてきたのだろうか。
谷に流れる時間について、たとえ大地と同じほどに齢を重ねた魔法使いといえども、定かに言い表わすことは困難だった。谷は人間界の介入を許さぬ魔法使いたちの集い場であり、彼等にとっては、時の観念は必ずしも必要ではなかった。悠久の月日を生きる彼等は、その存在自体が 『時』 であったし、また 『歴史』 であり、『現実』 であったからだ。
それゆえ、谷では時の流れすらが曖昧で鷹揚だった。
だが、今、黒の魔法使いは確実に、迫りつつある『時』をその身に感じていた。
満ちる。
ゆうるりと時が満ちていく。あの遥か遠い日に約束された運命。
そして、目覚める。
人も。水晶も。
魔法使いはしなやかな指に力を込め、触れた黒い竪琴の糸がかすかに弾けて快い音を響かせた。その音色にふと我に返った魔法使いは、呪縛からようやく解放されたかのように青ざめた顔で二、三度頭を振った。
長い指が竪琴の弦を一本づつなぞり、いつの間にか魔法使いは普段から弾きなれた古の詩の旋律を奏でていた。
最初は戸惑っていたような弦の響きも、次第に力強さを増していく。
そして魔法使いが竪琴を爪弾いている間は、風の勢いも少しは弱まっているかのようだった。
竪琴の上を白い指が軽やかに動き、その一つ一つの動きが美しいメロディを作り上げては夢のような旋律を生み出していた。
突然、音の流れが外れる。
「!」
魔法使いは指先に小さいが鋭い痛みを感じて反射的に竪琴から手を引いた。
弦が古くなっていたのだろうか、小さな傷が指先で血を流していた。
魔法使いはかすかに苦笑して、唇でそっと傷口に触れた。
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