収穫の時節を迎え、ヴェサニールではその時期特有の薄い雲が空を覆って強い日の光を和らげ、この国に住む人々にとってはしのぎやすい毎日が続いていた。
領地の大半がなだらかな丘陵地と森からなる内陸の小国ヴェサニールでは、生活の糧はほとんどが畑で作られる穀物などから得られていた。
人々は穏やかで、よく働き、素朴ではあったが豊かな暮らしを送っていた。
緑の草原が広々と広がる中を、国を二つに分けるかのように一本の大きな街道が抜け、ヴェサニールの裏にある彼方森から隣国に続く山の中までをほぼ一直線に貫いていた。
海側の隣国アクウィラは大国であり、また豊かな商業国でもあったので、山部から街道を通ってアクウィラへと旅をする者も少なくなく、通り道に位置するヴェサニールは、旅人たちの一夜の宿を提供するにはもってこいの土地だった。
街道から伸びている幾筋もの脇道の中に、ヴェサニールの王族が住む城へと続く道があった。
その道は他の道よりも幾分美しい敷石が敷きつめられていたので、国の民はもちろん、旅人でも容易にそれと知ることができた。
道は少し傾斜した丘の面をゆるやかに上り、堂々たる構えの石造りの門へと続いている。
門の向こうには同じく磨き上げられた石を積んで造られた城が、一番高い丘の上からその領地を見下ろしているかのように位置していた。城は華麗ではなかったが、時代の流れをくぐり抜けてきたものだけが持ちうる、重々しく荘厳な風合いを見る者の目に映し出していた。
ひづめの音が響き、今その城から二頭の馬が並足で駆け出してきた。
どちらも見事な馬で一頭は黒く、もう一頭は栗毛で、いずれも人が騎していた。
二頭の馬とその主が駆けていく背後で、城の窓から一人の娘が身を乗り出すようにして何か叫んでいる。栗毛に乗った一人はためらうように振り返ったが、もう一方の黒馬の乗り手はそれさえもせずに街道へと下りていった。止まりかけた方も、やがて首をすくめてその後を追った。
娘はまだ叫んでいた。
「王様にお叱りを受けても知りませんからね、サフィラ様!」
その声を背にした黒馬の乗り手は小さく舌を出した。悪戯っぽい表情がその顔に浮かんでいる。
15、6ほどの年であろうか。
子供とも大人とも、また少女とも少年ともつかない体が馬の上で飛び跳ねる。
風に流れる黒い髪が日の光を吸って揺らめき、一瞬明るい茶色に輝いてみえた。
栗毛の乗り手はその片割れよりもいくらか年上で、これも見事な黒髪を肩へと流した青年だった。
ヴェサニールの民ならば、一点の白斑もない闇夜のような黒馬と、額に星に似た白い徴を帯びている栗毛の馬を見れば、その乗り手がサフィラとサリナスの二人であると気付くのに幾らの時間もかからなかった。
そして、こんな風に二人が出掛ける時、行き場所はたいてい街道の外れにあるマティロウサの家と決まっている、ということも知っていた。
力強いひづめの音と、外で働く娘たちが騒ぎたてる声を耳にするだけで、家の中に居ながらにして二人が城下に降りてきたことを知る者も多かった。
サフィラはヴェサニール国王の第一子にして唯一の後継者であった。
本来ならば、王たる者の責任と義務を教え込まれ、他国との交流、国としての今後の在り方などなど、次期統率者として語り部たちの教える必要な知識に身を傾け、良き長となるべく精進しなくてはならない立場にある。
しかし、いつの頃からか魔道の類に興味を持ち始め、本来の帝王学はそこそこに、暇さえあれば怪しげな古文書やら、詩を書き記した紙片やら、今はもう使われなくなった古い呪文を連ねた茶色い羊紙皮やら、見たこともないような花をつける不思議な香草やらを集めてきては、熱心に何かを書き取ったり暗唱したりしていた。
そして、それはそのまま父親である国王の悩みの種となった。
国王はサフィラとは全く反対の心を持つ人間だった。
彼はおよそ魔道めいた事に関しては信頼というものを預けたことがなかった。
彼は幻や意味不明の呪文よりも自分の目で見聞きし、自分の手で触れ、自分の舌で味わった物のみを圧倒的に信じる種類の人間で、魔道はもとより 『魔法使い』 『魔女』 という者の存在をも容易に認めようとはしなかった。
王にとって自分の跡継ぎが、よりにもよって魔道にうつつを抜かしているという事実は耐え難いものであったが、さらに困ったことには、王はサフィラに大変甘かったのだ。
ほんの子供の興味半分に過ぎないだろうと、幼い我が子可愛さに望むままに与えていくうちに子供はすっかり道にはまりこみ、今となっては王が何を言おうと、どう脅そうと、どんなに叱りつけようと従いもしない。
それどころか両親も知らぬうちに、魔道を極めんとする者なら誰もが目指す 『魔道騎士』 の資格をこっそり取ってしまい、王を天地が逆さ返るくらいに憤慨させたのは、まだほんの二ヵ月前のことである。
あの女がそそのかしたのだ。
王は頭痛の種となっているサフィラのことを考えるたびに、さらにその種となったと信じて疑わない人物のことを思い出す。
きっとそうだ。あの魔女、マティロウサ。それにあの若造もだ。
気安くサフィラに取り入る、あの青二才。
あれらが寄ってたかってサフィラを魔道漬けにしてしまいおった。
魔女の所へ行くのを禁じなくてはならない、と王はことあるごとに思う。
そして、あの若造の城への出入りも。
しかし、何年も前から心に抱いているその決意を、サフィラ可愛さにいまだに実行したことがない王である。
ところが、常日頃そういう不機嫌な心持ちを抱いているはずの王が、この日サフィラがまた城を抜け出してマティロウサの所へ行ったと聞き、サフィラの待女を務める双子の姉妹、トリビアとリヴィールを呼びつけて型通りの説教を一通り並べはしたものの、その様子はいつもとは少し違っていた。
王の表情は二人をなじる言葉ほどには刺々しくはなく、どことなくうわの空のように見えた。
より重大な事が王の頭の中を占めていて、それ以外のことには関わっていられないといった様子ですらあった。
王の御前を下がった後、二人の娘は申し合せたように額を寄せた。
妹のリヴィールがすかさず姉に尋ねる。
「いつもよりお小言が短かったような気がするのはあたしの気のせいかしら」
「いいえ」 姉のトリビアがきっぱりと答えた。
「確かに短かったわね。それに、何となく顔がゆるんでらしたわよ、王様。何か良いことでもおありになったのかしら。サフィラ様が城を抜け出したっていうのに」
「そういえば、サフィラ様が城を出られたちょっと後に、どこかのお使者が馬で乗り入れてこられるのを見たけれど」 と、リヴィール。
さきほど窓から叫んでいたのはリヴィールの方である。
「何か良い知らせでも届いたのかしら」
「サフィラ様へのお怒りも消えちゃうような知らせ? それって、よほどの朗報だわね」
二人の姉妹は自分と似た相手の顔を互いに見合わせ、元来のお喋り好きと推測癖をここぞとばかりに発揮しながら、控えの間へと消えていった。
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