魔女の家は相変らず陰のある佇まいだった。
サフィラとサリナスは馬を家の前の杭につなぐと、勝手知ったるというふうに薄暗い部屋の中を進み、一段と暗い奥の部屋に通じる入口にたどりついた。
木製の扉が金属のように黒く艶光りし、重々しく二人の前に立ちはだかっていた。
「お入り」
サフィラがドアを押し開けようとする前に、中から乾いた声が響いた。
サフィラが取手に手をやると、錆びついた蝶番がきしんで独特の音を立てる。
部屋の中には、色々な魔法薬の匂いが混ざり合って、馴れない者だったら幻覚でも起こしかねないほどに濃い空気が漂っていた。
四方を棚で囲まれた狭い部屋の中心には、古い大きな机がその場のほとんどの空間を独占するかのように据えられている。その上には開きかけの分厚い本、真っ直ぐに伸ばした羊紙皮などがあふれかえり、他に物を置こうにもわずかな隙間さえも空いていなかった。
その机の向こう側に、人影が一つ見えた。
細い蝋燭の明りの中、年降りた魔女の顔が浮び上っている。
「城を抜け出す癖というのも困り物だね。また王の機嫌が悪くなる」
干からびてはいるが静かで威圧的な声が小さな部屋に響く。
二百とも三百とも言われる年月を経てきた魔女は居るだけで相手を圧する。
その前では人は皆赤子も同然だった。
マティロウサは大儀そうに椅子から立ち上がると蝋燭を吹き消した。
あっという間に部屋に闇が訪れ、サフィラとサリナスが立っている入口から外の光が差し込んで二人の長い影を床の上に落とした。
「あの気短かな王が、よくもお前さまの好き勝手にさせているもんだね。え、そうだろ? 日がな一日魔道に明け暮れ、怪しげな魔女の家に入りびたり……」
マティロウサはぶつぶつと文句を言いながら足速に部屋の外へと滑り出て、壁を埋めている大小様々な戸棚の一つの前に立って小さな扉をそっと開けた。その拍子に、薄暗がりの中でもはっきり分るほどに古ぼけた一枚の羊紙皮が、ひらひらと地面に落ちる。
マティロウサは眉をひそめてそれを拾い上げ、言葉を続けた。
「お前さまに魔道を手ほどきしたのも私、魔道騎士の称号を与えたのもこの私。王が私のことをどう思ってるか計らずとも知れるってもんだ。お后が取りなしてくださってるから、まだいいようなものの……でなかったら今頃ヴェサニールには住んでいないだろうさ」
「それ何の巻き物?」
マティロウサがたった今拾い上げた羊紙皮を指差してサフィラが尋ねた。
マティロウサの額に皺が増える。
「お前さま、相変らず人の話をお聞きでないね」
「聞いてるって。で、それ何?」
どうにも聞いているとは思えないサフィラの態度に、わずマティロウサは眉間を押えた。
それを見てサリナスが笑った。
「サフィラの大雑把な性格を一番よく知ってるのはあなただと思っていたが、マティロウサ」
「皮肉かい」
むっつりと魔女が答えた。
「冗談ごとではないんだよ。何といっても今お前と私の目の前にいるのは、この国の世継ぎの君なんだからね、サリナス」
「だから、世継ぎとか王女とか言うのはもうやめてくれ」
うんざりしたようにサフィラは唸った。
一介の魔道騎士として人生を過ごしていく、という王族にとってこれ以上ないほど不可能な願いを持つサフィラにとって、『跡継ぎ』とか『世継ぎ』などという肩書きは邪魔者以外の何者でもなく、できることならそれらすべてを投げ出してしまいたかった。
できるはずもない、と分かってはいたが。
「望んでそう生まれてきたわけではない、と開き直るつもりはないよ。生まれに負わされた責任から逃れるつもりもない。しかし、この身がまだ自由であるうちは、いかなる物事に自分の心が従事しようと誰に非難できようか……と、後の世の語り部たちは私のことを語るだろう。古の賢人リードの残した辞世の言葉に勝るとも劣らない」
「恐れ多い引き合いを出すんじゃないよ。まったく不遜な」
マティロウサは不機嫌な声で呟いた。
水汲みから帰ってきたウィルヴァンナが、隣の部屋で瓶に水を空けている音が聞こえてくる。
しばらくその音に耳を傾けていた魔女は、サフィラを見て大袈裟にため息をつき、こう言った。
「やっぱり15の子供、しかも 『王女』 なんかに称号を与えちまったのは無茶だったかねぇ……」
サフィラは15回目の誕生日を迎えたその日に魔道騎士の試問を受け、少なくとも一週間はかかると言われる問題をその半分の時間でやり遂げ、15になって四日目にはもう既に騎士の資格を許されていたという、前代未聞の魔道騎士である。
試問を受けることができるのは15の年から、しかも一度で合格するのは至難の技であるのにもかかわらず、である。
魔道騎士の仲間うちで 『あれは人間じゃない。15才で紫貝を手にするなんて』 と呆れ半分で囁かれるのも無理はない話である。
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