サフィラは女騎士に近づこうとしたが、ふと、あることに気づいて動きを止めた。
女騎士の優美な肢体の周囲に、何かがまとわりついている。
辺りを染める灰色の闇とは異なる、それよりも黒く、かすかな何か。
目を凝らせば、それはやわらかに女騎士を取り巻いて、それでいて決して自分からは離れようとしない煙のように蠢いていた。
それは幼い頃にサフィラが森の茂みを抜けたとき、いつのまにか全身を覆っていた蜘蛛の巣に似ていた。払っても払っても取り去ることができず、密着した糸の感触の気味悪さにぞっとした、あのときの蜘蛛の巣。
そのときと同じような、いや、それ以上の悪寒が、ぞくり、とサフィラの背筋に走る。
今、女騎士を取り巻いている糸には不愉快さを上回るほどの忌まわしさが感じられた。
再びサフィラの顔を見た女騎士は、その表情に浮かぶ困惑とかすかな嫌悪に気づいたようだった。
……その目にどのように映ったかは知らぬが……
女騎士が語る。
……お前の心に結んだ心象こそが、今の私の姿
……目覚めてからずっと
……私は……
女騎士は気鬱な様子で自らの身体を覆う糸をゆっくりと振り払ったが、一度離れた後も糸は再び縒り集まり、騎士の身体に付着する。一瞬サフィラにはそれがか細い鎖のように見えた。
囚われているのか。
サフィラは唐突に思った。
身を覆う糸は女騎士をこの灰色の闇に絡め取っておくためのもので、騎士はそれから逃れることができないのではないか。
だが縛めだとしたら何のために。
この輝かしい女騎士を捕らえておこうとしているのは、一体何者なのだろう。
少しずつ、女騎士の姿がサフィラの視界の中でぼやけていく。
目の前の像が消えてしまう前にサフィラは問うた。
「貴女は、誰だ」
……我が名は
女騎士がそう答える頃には輝ける姿はすでに灰色の闇と同化し、その場に佇んでいるのはサフィラのみとなった。騎士の凍えた声だけがサフィラの耳を打つ。
……セオフィラス
「セオ…フィ……」
たった今聞いた名を口に出して確認する前に、誰かに髪を後ろから引かれるようにサフィラの意識が遠のいていく。
周囲がぐるぐると回り、以前見た夢の引き際がそうであったように、急速にサフィラはその幻というには余りに現実感のある世界から離れていった。
飛び起きたサフィラは、しばらくの間、夢と現実の境界で漂っていたが、やがて自分が部屋の寝台の上にいることに気づいた。
いつの間にか眠ってしまったらしい。婚約式を終えたことで気が抜けたのだろうか。
窓の外に目を向けると、すでに陽は落ちてまばゆい昼の光は夜の闇と入れ替わっていた。
夢を見たような気がする。
胸の内にかすかな引っ掛かりを感じたサフィラは、まだすっきりしない頭で考えた。
とても印象的な、心に残るような夢を。
だが、サフィラが寝台のシーツや窓の外の空に意識を向けた途端、夢の世界とつながっていた細い糸は切れてしまったらしい。ささやかな余韻だけがサフィラの中に残っていた。
大事な夢だったのではないか。覚えておくべきだったのでは。
しかしすでに逃げ去った夢の後を追うことはできず、サフィラは頭を振ってその余韻を追い出した。
→ 第三章・悪巧み 7へ