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蝶になった夢を見るのは私か それとも 蝶の夢の中にいるのが私なのか 夢はうつつ うつつは夢


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事件を通じて何度か接する機会があった NO と J だが、
互いに相手を 『自分とは相容れない存在』 と認識するまで、時間はかからなかった。

考え方や立場の違いは元より、片や権力という名の圧力を容赦なく押し付け、
その一方は、それに対して頑固なまでに反発する。
気が合うはずもない2人である。

『いつか何かやらかす女』。

J に言わせれば傍迷惑この上ない、それが、NO が J に貼ったレッテルであった。

『だから、常に目を光らせておかなくてはならない。何かやらかす前に』。

NO がそう思うのは、正義感から……ではない。決して。
刑事のカンだ、と臆面もなく NO は言い切っている。

しかし、そうだろうか、と不二沢は思う。
そして、判っている。
NO は、単に気に入らないのだ。
自分を恐れない、従わない、そんな J が。

NO に反抗し続ける J は、不二沢にとってツワモノ以外の何者でもなかった。
用もないのにオフィスに顔を出し、数時間ゴロゴロしては
吸殻の山と悪意を残して帰っていくだけの NO に、
ひるむことなく暴言を投げつけ、果敢に遠ざけようとする J の態度は、賞賛に値した。
その率直さが羨ましくもあった。

勿論、そんな J の姿に、不二沢自身も一度はそうしてみたいものだ、
いや、せめて、J の百分の一でも万分の一でもいいから、
自らの上司に言いたいことをぶちまけてみたい、という
叶うはずもない儚い願望が重なっているのは言うまでもなかった。

しかし、今の自分には、できる限り当たり障りのない物腰で
緊張しながら NO の背後に立っているのが関の山である。
気短な上司の機嫌をこれ以上低下させないように。
謂われない八つ当たりを、可能な限り避ける術を駆使しながら。

Sigh.......
今度は NO に聞こえないように、不二沢はもう一度、ごくごく小さなため息をついた。


不二沢が自らの不幸を心のうちで嘆いている目前で、
NO は接客用のソファを1人で占領し、靴を履いたまま乱暴に足をテーブルに載せていた。
背後に控えている2人の部下の心中を察してやる気など全くなく、
左右交互に足を組み換えるたびに不安定に揺れるコーヒーカップの中身がこぼれようと
気にもかけていない。

千代子が運んできた4杯目のコーヒーを、たった今飲み干したところだった。
NO は軽い胸焼けを覚えながら、ひたすら目指す主を待ち続けていた。
目の前に置かれた灰皿には吸殻があふれ、テーブルの上にまでやわらかな灰を落としていた。
待っている時間の長さを告げるような積み上げられ方である。

不二沢が推し量るまでもなく、明らかに NO は苛立っていた。
人を待つのは嫌いなのだ。
時々小刻みに足を揺すって時計を見上げながら、煙草に火を付ける。
その動作の繰り返しである。

遅い。

NO は煙草の匂いが鼻の奥に染み付いているのを感じながら、
それでも新しい一本を取り出して火を点けた。
煙を吐き出しながら、無精髭が疎らに生えた顎を掻く。
首を巡らせて、年中消えない隈を貼り付けた目を、壁の時計に何度も向けた。

NO の人相の悪さは、NO 以外の誰もが認めている事実である。
数年前に妻子に逃げられ、荒んだ生活を送るようになってからは、さらにエスカレートした。
外見だけでなく精神的な面でも剣呑さに磨きがかかってきた。
ほぼ毎晩、正体がなくなるまで酔っ払い、
ついにはアルコールの匂いが体から抜けなくなった。
残り香だけで、NO の不在が判る。
署内では、そんな中傷めいた言葉まで飛び交っているほどだった。


→ ACT 6-7 へ

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強いて、そう強いて NO の認めるべきところを挙げるならば、
この男は決して誰にも媚びへつらったりしない。
相手の善悪に関わらず、自らを通す。

追従、という言葉は、NO とは無縁のものである。
それは不二沢も同意せざるを得ない点であった。
もっとも、それが長所となるか短所となるかは時と場合によるが、
それでも、平和的人間の極みである不二沢は、
NO なりに筋を通しているのだ、と肯定的に解釈するようにしていた。
肯定しておかないと、自分自身が切なすぎるからでもある。

このように、2人の部下が上司に対して尊敬を抱いているかどうかは、はなはだ疑問であった。
しかし、NO 自身は、明らかに彼らを有能な部下とは見なしていなかった。
いずれにしても、どちらの側も自分を (あるいは自分達を) 不幸だと考えているに違いない。

一生この男と付き合う訳ではないのだから。
結局、いつも不二沢は、そう結論付けることになる。
6年前にいきなり NO と出会ったように、数年後には NO と離れることもあるかもしれない。
そう考えて不二沢は自分自身を慰めるのだ。
それが、剃刀よりも薄い期待ではあると知りながら。

大きなため息が不二沢の口から漏れる。
それが聞こえたのか、NO は振り返って不二沢をじろりと睨み、
その視線に刺されて、不二沢は自らの不幸を省みる空しさを心の奥に追いやり、
現実の世界に、そう、コンクリート・グレイに包まれた事務所の中に意識を戻した。


NO が2人の部下を引き連れて、この事務所に乗り込んできたのは、今からおよそ3時間前。
つまり、約3時間、不二沢とショーンは
部下という分を弁えて上司の背後に付き従っているわけだが、
標準よりもやや太り気味の不二沢にとって、立ちっぱなしという体勢はなかなか辛い。
膝の痛みをどんよりと感じ、不二沢は微妙に重心を変えながら思った。

最近、また少し体重が増えたようだ。
何故だろう。
こんなに心労が続いているのだから、少しぐらい痩せる方向に行くのが当たり前ではないか。
それなのに。

不二沢は恨めしげな視線を天井に向け、
今すぐ胸元のポケットから胃薬を取り出し、目の前の冷めたコーヒーで流し込みたい、
という衝動を何とか抑えていた。

それにしても。

不二沢は、通りに面している背後のガラス窓をゆっくり振り返って外の景色に目をやった。
事務所の主は、いつ帰ってくるのだろう。
黒髪に黒い瞳の華奢な女性の姿を不二沢は脳裏に思い浮かべた。

今や、警察内外で NO を諌める人間は数少ない。
そして逆らう人間は、もっと少ない。
その希少な1人が、この事務所の主であり、
3人の招かざる客、
つまり、NO とその部下2人が3時間前から待ち続けている当人、J なのである。


NO と J が初めて出会ったのは、不二沢の記憶が正しければ、およそ4年前のことだ。
子供の虐待がらみの事件だった。

母親の暴力から子供を遠ざけて護ろうとした J。
我が子が誘拐された、と母親が警察に訴え、捜査にあたった NO。
事件そのものは、結果的に J の正当性が認められ、
母親は保護観察処分、1年前に離婚した父親が子供を引き取ることで収まった。

しかし J にとっては、
1人の険悪な警察官に目をつけられるハメになった記念すべき事件である。
そして、以降、J と NO は不本意ながら顔を合わせる機会が増えてしまった。


→ ACT 6-6 へ

上司の強固な主張に反して、ショーンは異動もなく、
NO 直属の部下として現在も勤務している。
NO に唯一勝利した (暴力という手段ではあったが) ショーンという人材に
上層部すら不可能だった NO の制御役を押し付けようとしたのではないか。
それが署内のまことしやかな噂だった。
毒をもって猛毒を制す、というところである。

しかし、それで NO が大人しく引っ込んだかというと、決してそうではない。
本来ショーンに向けられるべき怒りの矛先が、
ショーンの先輩である不二沢へ、すべて回ってきてしまったのである。
不二沢にとっては、降ってわいた不幸としか言いようがない。

いっそう過激さを増した NO の容赦ない言動。
必要以上に無口で何を考えているか判らない、突発的感情人間ショーン。
両者の間に挟まれ、かくして不二沢は、さらに胃を患わせることとなったのである。

やはり職を変えるべきか。
ついに先日、件の医者から 『胃に穴、空きかけてるよ。切るか?』 と宣告された。
歯に衣着せぬ医者の言葉は、ある意味ではありがたいが、やはり迷惑である。
これまでに何度も考えた 「辞職」 という二文字が、
再び不二沢の頭の中をチラチラとよぎり出す。

人間関係の摩擦。
絵に描いたような退職理由。
「警察官」 という職業に問題があるのではない。

……いや、待った。
不二沢は自問自答する。

それ以前に、自分は今の仕事が好きなのだろうか。
警察官にこだわる必要がないのなら、辞職の決意はつきやすい筈だ。
勿論、再就職はそう簡単なことではないだろうが。

不二沢は再びショーンに目をやった。
この男は、辞めたいと思ったことはないのだろうか。

ショーンが NO について不平不満を言っている光景を、不二沢はほとんど見たことがない。
あの事件で NO を殴り倒したことで、ショーンの中では一応の自己完結に至ったようだ。
NO に対して思うところがないわけではないだろうが、
年々、無口に磨きがかかっているショーンだから、その心情は掴みにくい。

新人の頃は、まだ少しは可愛げがあったのに。
無表情なショーンの横顔を見ながら、不二沢はまたもやため息をついた。

では、自分が新米の頃はどうだっただろう。
不二沢は、緊張と期待を抱いて所轄の警察署に初出勤した当時のことを思い出した。
今から考えてみると、あの頃も大変ではあったが今よりは数段も充実していたように思う。
自分の職業にも誇りを持っていた。

6年前から、自分の理想とする道から外れてしまったような気がする。
いや、道自身が歪んでしまったような。
NO の部下となったあの日から。
すべてを上司のせいにするのは気が引けるが、事実、不二沢にはそう思えて仕方がない。

無駄な努力かもしれない、と思いつつ、不二沢は不二沢なりに 上司を理解しようとし、
これまでに何度か NO の長所を見出そうとしたこともある。
しかし、これが面白いほど見つからない。

口は悪い。
自己顕示欲は強い。
癇癪持ちで短気でワガママ。
身勝手で強引。
理不尽で頑固。
他人の意見を聞かない。
相手と場合によっては、暴力も辞さない。
堅気の人間には手こそ上げないものの、権力を振りかざし、圧を掛けずにはいられない……。

NO の欠点を教えろと言われれば、きっと不二沢は誰よりも多く数え上げることができるだろう。


→ ACT 6-5 へ

そんな不二沢に吉報が届いたのは、2年前のことである。
NO の配下に、もう1人、部下が配属されることになった。

それが、今、自分の隣に立っているショーンである。
不二沢は横目でショーンを盗み見た。
見られた相手は、不二沢にちらりと視線を返したが、無言のまま、再び正面を向く。
うんざりしているようにも見えず、無表情な顔つきである。
 

ショーンはニホンと他国のハーフで、彫りの深い派手な顔立ちをしていた。
しかし、性格の方は外見に見事に反比例して、ごく地味である。
とにかく物静かで、いるのかいないのか判らない影のような男だった。
ボソボソと聞き取りにくい声で話すため他人との会話が続かない。
そのせいかどうかは不明だが、極端に口数が少ない。
今でこそ不二沢もショーンの言わんとすることを理解できるが、
当初は 「え? 何? え? え?」 と何度聞き返したか判らない。

「ショーンが口を開く時は、相棒の不二沢の通訳を必要とする」

署内では、そんなもっともらしい冗談まで飛び交った。
そんなショーンは、一部の女子職員の間では、ひそかな人気があり、
「彼が無口なのは、きっとシャイだから」 と噂されていることを、不二沢は別の同僚から聞いた。
だが、不二沢自身は、刑事としての洞察力や、相棒としての親近感を動員すればするほど、
ショーンをただの 『根が暗い人間』 としか思えない。

ショーンは、不二沢よりも2年ばかり刑事としての勤務年数が低い。
不二沢にとっては年齢的にも職務的にも後輩に当たる。
これまで自分1人で受けていた NO からの悪待遇も、
ショーンという対象が増えたことで半減する。
先輩としては不謹慎だが、単純にそう考えて不二沢は内心喜んだものだ。

しかし、予想通りに物事は立ち回らないものである。
不二沢がしみじみと実感するまで、そう時間がかからなかった。

普段は暗くて大人しいショーンだが、しかし、一度キレると手がつけられない状態になる。
それを不二沢が知ったのは、ショーンとともに行動するようになって間もない頃である。
そしてショーンの怒りを身を持って体験したのは、実は他ならぬ彼の上司である NO 自身であった。

ショーンの父親と兄は傭兵 -マセナリィ- だった。
父は、ここ50年間に起こった有名な内乱のうちの幾つかで活躍した強者であり、
兄は最近まで南国付近を根城にマセナリィとして活躍していた。
運悪く2人とも数年前にこの世を去っていたが、生前はかなりの殊勲を上げたらしい。
ショーンはそんな2人を心から尊敬していた。
それゆえ 「マセナリィ」 という職業自体に非常に好感を抱いている。

ところが、そんなショーンに反して、NO の方は大のマセナリィ嫌いで署内でも有名であった。

それは、たまたま上司と部下の間で交わされた他愛もない会話の中で起こった。
無遠慮にも NO が口にした
「マセナリィなんぞ、ただの人殺しだ」
という一言がショーンの逆鱗に触れてしまったのだ。

ショーンにとっては尊敬してやまない父親や兄そのものを 「人殺し」 と評されたも同然だった。
発作的に NO に飛びかかり、自らの上司を起き上がれなくなるまでに叩きのめしてしまったのだ。

「いやー、あれは凄かった」 後に不二沢が別の同僚に告白している。
「ショーンの目の色がカンペキ変わってて、俺も止めるのを躊躇ったくらいだ」

上司を再起不能寸前にまでしておきながら、
意外にもショーンの処置は停職処分という軽い沙汰で済まされた。
だからといって、NO 自身は部下から受けた屈辱とその処分に腹の内がおさまる筈はなかった。



→ ACT 6-4 へ

警察内部でも外の世界でもすこぶる悪評が高い NO には、目下2人の部下がいた。
その1人が不二沢である。
警察に務めて6年経つ。
金髪がかった明るい髪の色や、色白でぽっちゃりとした体付きが
見る者に 『仔豚』 を想像させて笑みを誘う、そんな男だった。
容貌もどことなくひょうきんで愛敬がある。

少し太り気味なことを除けば、血色のいい健康体に見える不二沢である。
しかし、NO の配下に回されて以来、神経性の胃炎に悩まさる日々が続いていた。
これは勿論、難事件や激務のせいでは決してなく、直属の上司に因るものである。
そういう意味では 「激務」 ではあったが。

不二沢は極めて平凡で常識派の男であり、
それは時に退屈さを伴う性分でもあるが、
取りあえずは慎ましやかな美点として他人も認めていた。
そんな彼にとって、NO の不遜で過激な言動に振り回されることは何よりも苦痛であった。
『何故そこまで?』 そう思うことはしょっちゅうであり、
しかも、上司の行動が 『何故』 という理由を伴うことは、ほとんどない。

とにかく、規格外の上司である。
元々はセンターエリアの本署勤務で、ある程度の実績を上げていた、と不二沢は聞いている。
しかし数年前、署内の汚職事件が原因となり、直接関わっていたわけではなかったが、
引責で否応なくダウンエリアの所轄署へ転属となった。
以降、NO の自暴的行動が始まることになる。

報告はしない。相談なく行動する。
上には反抗的、下には威圧的、気に入らない時は暴力的。
権力を笠に着て、無理を通して道理を無視する。
激しやすい性格ゆえに、行き過ぎた捜査を非難されることも少なくない……
というのは控えめな表現で、非難されないことは、ほとんどない。

NO の傍若無人ぶりが何故許されているのか。
それについては、様々な噂が飛び交っている。
腐っても鯛とはこのことで、本署時代のコネクションが NO を護っている。
あるいは、組織外で培った裏側の人脈が、無言のプレッシャーを与えている。
一番あり得ない (そして笑える) 理由としては、実はやんごとない出自だから、というものがある。
明らかに違う、と不二沢が確信している3番目の噂を除けば、
いずれも信憑性があるような、ないような、あやふやな流言ばかりである。
しかし、そのうちのどれかが当たっていたとしても、
NO の性格が改善されるわけではないので、憶測するだけ無駄なことであった。
 
上司だから耐えているのだ。
たえず、不二沢は自らに言い聞かせていた。
身分から言えば、到底逆らうことなど許されない。
たとえ、理不尽に小突かれたり罵倒されたりすることは日常茶飯事であっても、
挙げ句の果てに、
『いいよな、お前は。何の苦労も知らないツラして、ぶくぶく肥え太りやがってよ』 と
八つ当たりに近い言葉を被ることになっても。

不二沢は、目の前でふてぶてしく座る NO の後ろ姿に目をやりながら、小さくため息をついた。
『仕事、変えたら?』
検診の時に、かかり付けの医者が気の毒そうに、そう言ったことを不二沢は思い出す。
言われるまでもない。
尋常でないストレスに耐え切れずに辞めようと思ったことは何度もあった。

しかし、器用とは言いがたい自分には、他に何もできることはない。
手に職もない以上、再就職もままならないのは明らかだ。
上層部のお偉いさんならともかく、単なるヒラ刑事という経歴は、つぶしが利かないだろう。
それだけに、妻子や両親のことを考えると簡単に辞める決心もつかない。
そこまで考えて、結局、不二沢は書きかけた辞表を破り捨てるのだ。
耐えるのも、仕事の内、とは自分のためにある言葉なのかもしれない。
それが、今のところ不二沢の唯一の座右の銘であった。


→ ACT 6-3 へ

ACT 6  - Ill weeds grow apace...disorderly -



ガチャン!
陶器が強く触れ合う音がして、不二沢 (フジサワ) は反射的に背筋を伸ばした。
目の前のテーブルで、コーヒーカップが乱暴に皿に置かれた音である。

ああ、苛立っている。いつものことだけど。
不二沢の胃が、馴染みのある、ちくりとした痛みを覚えた。
話しかけられないのを良いことに、
つい今しがたまで、ぼんやりと取るに足らないことをあれこれ考えていた不二沢だったが、
その音で、頭の中を占めていた諸々が瞬時に消え去り、
入れ替わりで、今、自分が立っている場所がどこだったかを思い出す。

コンクリート・グレイに囲まれた空間。
部屋の隅に無造作に積み上げられた雑誌や書類。
片付いているように見えて、あるがままの場所に適当に置かれているだけの日用品。
壁にかかっている時計は、少し右に傾いている。角度にして5度くらい。
殺風景とまではいかないが、暖かみにあふれているとも言いがたい、
ここは J のオフィスである。

部屋の入り口近く、通りに面した大きな窓のすぐ傍らに、
不二沢はもう1人の同僚であるショーンとともに並んで立っていた。
そろそろ、部屋を換気した方がいいのではないか。
充満する煙草の煙に目をやりながら、不二沢は考えた。
煙と混じり合った、恐らく少し濃い目のコーヒーの香りが、不二沢の鼻をつく。
そして耳に響くのは、ライターをもてあそぶ、カチッ、カチッ……という音。

その音と、時計の分針が1分ごとに刻む音を除けば、部屋の中はひどく静かだった。
中央に設えられたテーブルの上にはコーヒーカップが3つ。
そのうち2つは、運ばれてきた時と同じ量のコーヒーを湛えたまま、手もつけられていない。
自分とショーンの分だ。
残る1つは、たった今、不機嫌そうに肩を怒らせながらソファに座る男に飲み干され、
音を立てて戻ってきたばかりだった。

不二沢はひそかな視線を男に向けた。
ブラシを入れ忘れたような、乱れた髪。
薄汚れたコート。
不二沢の位置から見る分には、冴えない男の後ろ姿以上の何者でもない。
しかし、正面から見た男の風貌は、それとは真逆であることを不二沢は知っている。
緑がかった瞳は落ち窪みながらも鋭く、容赦ない。
まばらに生えた無精ひげは、うらぶれた、というよりも野生的な凄みを感じさせる。
穏やかさとは無縁の男である。

不二沢からは見えないが、今、男は恐らく、
数十匹の苦虫を噛み潰して余りある程の表情を満面に浮かべているに違いない。
その苛立ちを示すがごとく、体は小刻みに揺れ、
靴を履いたままテーブルの上に投げ出された両足の爪先が、同じリズムで振動している。
他人の事務所を何の前触れもなく突然訪れ、このような無作法な姿勢でふんぞり返る姿は
客人としては決して誉められたものではないが、
不二沢にとっては (そして恐らく、事務所の主にとっても) いつものことなので、
注意を促す進言などは最初から諦めている。
 

男の名は、明日間濃 (アスマ・ノウ)。
巷では 『NO (ノー)』 の通り名の方が有名な、ダウンエリア D 区の所轄刑事である。


→ ACT 6-2 へ

プロフィール
HN:
J. MOON
性別:
女性
自己紹介:
本を読んだり、文を書いたり、写真を撮ったり、絵を描いたり、音楽を聴いたり…。いろいろなことをやってみたい今日この頃。
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