「『あれ』 には意志がある」
老いた魔女の物思いをよそに、シヴィは言葉を続けた。
「誰にも逆らいようがない、強大な意志じゃ。それを無視すれば、遅かれ早かれ悪しき 『魔』 によって誰にとっても酷いことが起こるじゃろう。今は大人しくしておるが、それは恐らく 『背負い手』 を見つけてしまったからじゃ」
「背負い手……」
マティロウサは眉間の皺を深めた。
『水晶』 の意志。
それは一人の男を操り、『背負い手』 として相応しい者の元へ己自身を運ばせた。
『背負い手』 に選ばれた者は『水晶』の気配を敏感に感じ取り、幻視を見た。
すなわち、それは……。
「やはりそれは……あの子だと?」
そう呟く魔女の言葉には苦いものがあった。
それを感じたシヴィは、少し表情を和らげて憐れむような目をした。
「なあ、マティロウサよ。お前様はさっき 『どうする?』 とわしに問うたが、わしにはどうにも出来ん。勿論、お前様にもな」
老人は言葉を切った。穏やかな双眸を心底苦しげな気配が一瞬よぎる。
「これから先、『あれ』 を運ぶ宿命を背負ったのは、お前様が愛してやまない幼い魔道騎士なんじゃ。それはもう」 老人は目を伏せた。「どうしようもない」
老人につられるように、老魔女も足元に視線を落とした。
無邪気で屈託ないサフィラの笑顔が魔女の脳裏に浮かぶ。
やがて魔女は、重い足取りで壁際の戸棚へと近づき、小さな取っ手を引き開けて中から筒状に丸められた一枚の羊皮紙を取り出した。
それは、以前サフィラとサリナスが興味を抱き、マティロウサの元から借り受けた例の羊皮紙である。結局、二人には読み解くことができずに返却し、サフィラの幻視のこともあってマティロウサはそのままそれを戸棚の奥にしまいこんでいたのだ。出してみるのは、それ以来初めてである。
「長生きするのも、考え物だね」
マティロウサは羊皮紙の紐を解きながら、ため息混じりに呟いた。そこにはシヴィに語りかけるというよりも、幾分自虐的な響きがあった。
「もしも、あと百年、いや五十年、たった一年でも早く寿命が来ていたなら、あたしもこんなことに出くわさずに済んだものを。長く生きれば生きるほど見届けなきゃいけないことが、この先もきっと増えていくに違いない。まったく嫌になる」
「それを言うたら、わしなんてどうなる」 シヴィの言葉には、いつものおどけた調子が戻っていた。
「わしはお前様より、どれだけも年上なんじゃぞ」
「お互いここまできたら、年上、年下なんて関係ないよ」
魔女や魔法使いは、老いてからの時間が長い。同じように老人の姿をしてはいるが、シヴィとマティロウサの年齢には数百年の隔たりがあるのだ。
関係大ありじゃ、と少しむっとするシヴィを目で制して、マティロウサは机の上でゆっくりと羊皮紙を広げた。
一瞬、鮮烈な魔法の輝きがマティロウサの目を刺す。たとえ魔女であっても古の息吹に満ちた魔法を目の前にしたときには、どこかしら厳粛な気分になる。
サリナスとサフィラを手こずらせた詩の文言は、マティロウサの節くれだった指になぞられて隠された魔法の封印を少しずつ露にしていった。
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