「……では、行くとするかの」 と、シヴィの声が響く。
「やれやれ、ようやく出発か」
しんみりした別れの雰囲気に少しばかり手持ち無沙汰だったタウケーン王子は、サフィラが用意したもう一頭の馬に身軽に乗り上げた。サフィラも騎乗の人となり、手綱を持つ両腕の間にシヴィがちょこんと同乗して小柄な身体を収める。
「寂しくなるな」
サリナスがサフィラに手を伸ばした。
サフィラが握り返したその手は、サリナスの誠実さそのものの温かさでサフィラの手を包む。いつまでも触れていたいという思いに駆られながら、私もだ、とだけサフィラは答えた。
「お元気で、サフィラ様」 今度はウィルヴァンナが華奢な手を差し伸べた。
「ウィーラも」 と、その手にサフィラが触れる。
しかし、その瞬間、ウィルヴァンナはびくりと身体を震わせて、サフィラの手を離した。
「どうした、ウィーラ」
怪訝な顔で尋ねるサフィラを前に、ウィルヴァンナは少し動揺したような表情を浮かべた。
「いえ」 ウィルヴァンナはぎこちない笑みを返した。
「……昨日、指に針を刺して……まだ少し痛むので」
「ああ、悪かった。傷に触ってしまったんだな。大丈夫?」
「え、ええ。ご心配なく……」
ウィルヴァンナは、もう一度笑って見せた。その背後でマティロウサが一瞬険しい表情を見せたが、誰もそれには気づかなかった。
「じゃあ、皆……元気で」
サフィラは馬上から立ち並ぶ人々を見回し、それだけ言うと、別れの余韻を振り切るように愛馬の手綱を引いた。カクトゥスが小さく鼻を鳴らしてゆっくりと歩み始め、タウケーンがその後に続く。
規則正しいひづめの音が響くにつれて、見送る人々が背後に遠ざかっていくのを意識しながら、サフィラは振り返りたいのを堪えて、ただ前だけを見つめていた。見送る側の人々は、二頭の馬が夜の帳の中に次第に姿を消していく様子を、言葉なく見つめていた。
そして、三人はヴェサニールを離れて旅する身となったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……何を見たんだい?」
サフィラ達が去った後、サリナスも自分の家に戻り、マティロウサの家はいつも通り魔女と魔女見習いの二人だけになった。疲れた顔をしてどっかりと椅子に座り込んだマティロウサは、そそくさと自分の部屋に戻ろうとするウィルヴァンナに、そう尋ねた。
老いた魔女の質問に、ウィルヴァンナはびくり、と立ち止まる。
「何を、とは……?」
「隠すんじゃないよ。あたしが気づかなかったとでも?」
「……」
「さっき、サフィラと握手したときに、お前、何かを見たんだろう?」
「……」
ウィルヴァンナはマティロウサを振り返った。その相貌は、心なしか青ざめている。
あのとき、サフィラの手に触れて、すぐに離したとき、とっさに思いついた出任せでその場を濁したウィルヴァンナだったが、やはりマティロウサの目は誤魔化せなかったようだ。
確かにウィルヴァンナは見たのだ。頭の中に浮かんだ、ある光景を。
「剣が……」
自分を見つめる魔女の強い視線に促されながら、ウィルヴァンナは口を開いた。
「剣が見えました……刃が赤く染まって、あれは……あれは血……」
ウィルヴァンナが遠い目をし始める。口調は次第に興奮したそれに変わっていく。それは、先読みの訓練をしているときにこの年若い魔女見習いがよく見せる姿だった。
マティロウサは黙っていた。その目は厳しく、険しい。
「剣を持っているのは、黒い影……人のような、そうでないような……その影の側に、あの方が倒れて……サフィラ様が…いえ、サフィラ様だけではなく、何人も……血が、あの方の身体を染めている……辺り一面、地面も、枯れた木の枝も、石塊も赤い……!」
最後は叫びにも似た声を上げ、ウィルヴァンナは目を閉じてその場にしゃがみこんだ。苦しげな荒い呼吸が部屋中に響く。
マティロウサは急いで立ち上がるとウィルヴァンナに歩み寄り、その額に指を押し当てた。
「忘れるんだよ……」 魔女の低い呟きがウィルヴァンナの耳に届く。
「お前が目にした光景を忘れるんだ……」
呪文にも似たマティロウサの言葉に、ウィルヴァンナはゆっくりと目を開けた。気遣わしげな魔女の顔が自分を覗き込んでいることに気づき、ウィルヴァンナは驚いて目を見張り、辺りを見回した。
「あ、あら……」
「大丈夫かい?」
「マティロウサ様、私、一体……?」
「……なに、ちょっとした立ち眩みだよ。ここしばらくバタバタしていたから、疲れが出たんだろう」
「立ち眩み……」
どこか腑に落ちない表情でウィルヴァンナが問い返す。
頭の芯がぼんやりしていて、よく思い出せない。
「もう休んだ方がいいね」 静かな口調でマティロウサが囁いた。
「休む……」
「そう、休むんだよ、部屋に戻って」
「部屋に……」 ウィルヴァンナは魔女に言われた通りの言葉を繰り返した。
「そう……ですわね……。私、もう、休みます……」
何事もなかったかのように、ウィルヴァンナは立ち上がると、眠るような表情でゆっくりと自室へ姿を消した。恐らく、明日の朝目覚めれば、今のことは何も覚えていないだろう。マティロウサの施した魔法によって。
ウィルヴァンナが扉を閉めるのを見届けると、一人になったマティロウサは再び椅子に座り直した。頭の中には、たった今ウィルヴァンナが口にした言葉がこびりついている。
若き魔女見習いの先読み。その能力は、シヴィも認めたほど高い。
だからこそ、ウィルヴァンナが見たという光景は、魔女の心をどんよりと暗く澱ませた。
果たして、その光景は現実となるべきものなのか。
あるいは、何らかを表わす抽象なのだろうか。
いずれにしても、サフィラを待ち受けるのは、安穏とは程遠い運命なのだ。マティロウサは改めてその事実を思い知らされ、思わず両手に顔を埋めた。
「どうか、無事で……」
マティロウサは手のひらの内側で声に出して呟いた。
そして、サフィラと別れたつい先ほど、当の本人にそう言ってやらなかったことをひどく後悔した。
言えなかったのだ。
本心では、決して行かせたくなかったのだから。
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