千代子は顔に余り表情を出さない女だった。
寡黙で、余計なことには口を挟まず、言われたことはソツなくこなす。
時間にも忠実で、毎朝9時には部屋を出て、階下の事務所に姿を現す。
その上、記憶力の良いところも気に入って J は千代子を使っていた。
世の中には、ひがな一日口を動かしていなければ気が済まない女が氾濫している。
そんな中で、千代子は極上品だった。
素性がどうあれ、その点だけは間違いない。
J は通りに面した窓ガラスから、朝起きた時と同じように外の景色を改めて眺めた。
当たり前だが、4階から見るよりも人々の表情が近い。
J は理由もなくため息をついた。
オフィスに顔を出すと否応なく思い知らされる。
また、一日が始まったことを。
その思いがどうしようもなく J をウンザリとさせるのだ。
奥にもう一部屋あることを考えると、
ビルの外観から想像するよりも事務所の中は意外に広い。
事務所を訪れた依頼人との話は、大体奥で行われる。
今、諛左が待っている筈の部屋だ。
そして今日の11時頃に、その部屋で新たな依頼人と語り合うことになっている。
その予定は、先刻諛左に聞かされた通りである。
J はもう一度、聞こえるか聞こえないかのため息をついて、奥へと足を進めた。
千代子の言葉通り、諛左は煙草を吸って J を待っていた。
部屋の一番奥に設置えられた大きな木製のデスクに腰掛けている。
黒い瞳が、入ってくる雇い主の姿を無言で迎えた。
実のところ、千代子と同様に J はこの男のことをよくは知らない。
『大災厄』 時代が過ぎてしばらくした後、
バラバラになった世界各地では内紛、独立などの争いが日常化した。
いわゆる 『小競り合い時代』 の到来である。
そして、ニホンから遠く離れた地においては、その混乱は今もなお続き、
少年であった諛左は彼の父に連れられて、
いまだ内乱の火がくすぶる海の向こうの国へ渡ったのだという。
他の多くの人々が報酬を求めて同じ行動を取ったように。
恐らく、父親は戦地において傭兵 -マセナリィ- として過ごしていたのだろう。
そこで J の父親と知り合ったという話だった。
諛左が今、J の事務所で雇われているのは、J の父親が絡んでいるためだ。
しかし、J 自身はまったく預かり知らぬ話であり、
自分の父親と諛左との間にどういう経緯があったのか不明だし、それ以前に興味もなかった。
同様に、諛左の前身や経歴などにも J は関心がなかった。
否。
正直に言うと、関心がないわけではない。
しかし、殊更に知ろうとする J の好奇心も諛左に関しては鳴りを潜めていた。
聞かなくても、諛左の醸し出す雰囲気から想像はつく。
元・マセナリィ。
少年時代を戦地で過ごした人間は、必ずと言っていいほど辿る道。
恐らくは、諛左の父と同じ道。
J はそう確信している。
さほど真っ当に生きているとは言いがたい J の目から見ても、
堅気とは程遠い空気をまとう男だった。
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