老人がダレックに来てからひと月ほど経ったある夜。
街の中で火事が起こった。
子供達が面白半分に起こした火が風に乗り、近くの家に飛び火したのだ。
知らせを聞いたサリナスの父は消火に加わるために急ぎ家を出て、騒ぎで目覚めたサリナスとサーレスも母親の 「家にいなさい」 という言葉を振り切って父の後を追った。
燃えているのが自分と仲の良い友人の家だと知ったとき、サリナスは周囲で 「まだ子どもが中に……」 と囁かれる言葉が気になり、物見高い人の間を潜り抜けてその一番前へ出た。
目の前で唸りをあげている巨大な炎の渦は、その熱気とともにサリナスの足をすくませた。
鍛冶場の火とは比べ物にならないほど激しい火だった。
大人たちが懸命に水をかけて火を消そうとしている姿がサリナスの目に入ったが、天を染めるほど舞い上がった凶悪な炎に対しては、何をしても無駄ではないかとさえ思った。
友人を助けたいという思いがありながら、サリナスはその場から動けずにいた。
そのとき、
「皆、下がれ」
という枯れた、しかし威厳のある声が辺りに響き、一瞬人々のざわめきが絶えた。
サリナスの目前にあの老人が立っていた。
「下がるのだ」
年降りた声に圧倒されるように、消火に当たっていた者も周りで見ていた者も、少しずつ老人を遠巻きにし始めた。
老人は周囲に人がいないことを確かめると、轟々と燃え盛る家の前で二言、三言小さく呟いた。
それはサリナスが今まで聞いたことのない不思議な語感の言葉だった。
突然、一陣の突風が人々の頭上を勢いよく吹きぬけ、煽られるように炎が舞った。人々は思わず声を上げて顔を覆ったが、サリナスは目を見開いて何が起こるのかを見守った。
炎の周囲を風が旋回していた。それはまるで透明な空気の壁のように炎を閉じ込め、やがて螺旋を描いて天へ向かって伸びていった。
風の動きに乗って少しずつ炎の塊が剥ぎ取られ、空に散っていく。
それが繰り返されるうちに、いつしか炎は勢いを失い、しばらくすると焼け崩れた柱や壁の下でくすぶる熾き火と白く立ち上る煙だけが残った。
人々は歓声を上げた。
逃げ遅れたサリナスの友人はすぐに救出された。
サリナスは駆け寄って泣きじゃくる友人を慰めながら、目は老人から離れなかった。
幾人かはすぐに残りの火を消しにかかり、幾人かは老人の周りに集まってその力を称え、それ以外の者達はたった今起こった出来事を興奮した顔で語り合った。
隣ではしゃぐ弟が人の群れに紛れないように手を握りながら、サリナスも弟と同じく気持ちが高ぶっていた。だが、同時に少なからぬショックも受けた。
もしも老人が魔道騎士ではなく一介の剣士に過ぎなかったら。
サリナスは考えた。
今、目の前にいる友人の命は助かっただろうか。
こんなにも素早く火を止めることができただろうか。
剣の腕前が多少立つとはいえ、自分は燃え盛る炎を目の前にしてただ足が竦んでいただけだ。子供だからという理由を除いたとしても、自分は老人のように一瞬で火を消して人を助けたりはできない。
サリナスはかつて父に問われた言葉を思い出した。
『何のために剣を?』
守るための剣。
でも、剣だけでは守れないこともある。
その夜、火事騒ぎが一段落した後、弟と二人で帰宅したサリナスは母親にひどく叱られ、すぐにシーツの中に追いやられた。
ベッドに横になりながらもサリナスはなかなか寝付けず、心の中は一つの言葉で一杯だった。
魔道騎士。
魔道騎士。
サリナスは小さな声で何度も呟いた。
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