実に久方ぶりに訪れた街は、道端に生えている草の一本一本までが、サフィラにとっては心地好かった。城の窓から嗅ぎとる空気とはまるで違う不思議な匂いが、街の中には漂っているような気さえした。
サフィラは上機嫌で馬を駆った。
ただ一つ気に入らない点といえば、サフィラが並足で通り過ぎる度に、道行く人々が、
「これはサフィラ様、この度はおめでとうございます」
「サフィラ様、御婚約おめでとうございます」
「この度は、本当におめでとうございます」
と、さも親しげに声を掛けては、その度にサフィラに不愉快な事実を思い出させることであった。
何がめでたいものかと大声でわめき散らすわけにもいかず、何より人々の純粋な祝福の言葉を聞き捨てることも出来ずに、サフィラは優雅に微笑んで感謝を表し、顔を強張らせながら街外れへと馬を急がせた。
ヴェサニールの善良な民人の数と同じほどの悪意のない祝福を受け、マティロウサの家に辿り着いた頃にはサフィラはすっかり精を使い果たし、杭に馬を繋ぐのもいい加減に古ぼけた扉を叩いた。
「まあ、サフィラ様」
窓から差す光の中で薬草を選り分けていたウィルヴァンナが、驚いたように椅子から立ち上がるとサフィラに駆け寄った。
「お久し振りですわ。もう随分長い間お顔を見ていないような気がします」
「実際長い間だったよ、ウィーラ。何ていったって、もう半月ぶりぐらいだからな」
「本当に」
答えながら、ウィルヴァンナは扉の向こうにもう一つの人影を探すように目をやったが、そこにサリナスがいないのを知ると、少しばかり表情を曇らせた。
「今日はお一人ですのね」
「ああ、うん、サリナスの所へは後で顔を出そうと思って。久し振りだから、まずマティロウサの顔に増えた皺の数を数えてやろうと思ってね」
「そうですの」
サフィラの冗談にお愛想程度の笑みを返し、一瞬大きく溜め息をつきそうになったウィルヴァンナは慌てて口元を押さえ、そして思い出したようにサフィラに笑顔を向けた。
「ああ、そういえば、サフィラ様、この度は……」
「『おめでとうございます』 なんて言う積もりだったら、頼むから止めてくれ。聞く気はないぞ」
ウィルヴァンナの言葉を急いで遮って、サフィラは言った。
「はっきり言って私はうんざりしている。もう一万回ほども聞かされた。いや、百万回だ。まったく、結婚のどこがめでたい? めでたくなんかあるか、そんなもの」
「相当お冠のご様子ですこと」
「そりゃもう、城中が結託して私の結婚を盛り立てようとしてるもんだから、こちらは苛々しっぱなしだ。父上は私の機嫌を取るか、さもなくば陳腐な文句で私を脅しにかかるし、母上は母上でいきなり態度が強くなって、あれこれ采配を奮っては、暇があれば花嫁の心得云々を講義しに毎晩部屋へと押し掛ける。はっきり言って、あの人は今は父上よりも怖いぞ。なにせ嫁ぐのが女の幸せ、と本気で思ってるような人だからな。女の一念は雨季の洪水よりも激しく強い。下手に逆らうとどうなるか。それに、忠義一筋の老いぼれ侍従や騒ぎが好きなお喋り侍女も加わって、ドレスの仕立てがどうだ、礼儀作法がどうだ、言葉遣いがどうだ、もうやいのやいの煩いったら! いっそ誰かと変わってやりたいよ」
「御苦労なさってるんですのね、サフィラ様」
一気にまくし立てたサフィラに向かって、同情するようにウィルヴァンナがやんわりと言った。
「苦労も何も……いや、愚痴を言ったって今更どうにもならん。それよりマティロウサはいる?」
「ええ、でも、今、丁度お客様が見えていて」
「客?」 驚いたようにサフィラは尋ねた。「客って、マティロウサに?」
「ええ。今、奥の部屋でお話しなさっておられますわ。何でも、かなり旧くからのお知り合いとか」
「ふーん。珍しいな、客なんて。どんな人?」
ウィルヴァンナが答えるよりも早く、奥の扉の向こうから魔女の嗄れた声がサフィラの耳を打った。
「魔白だね。お入り」
「客人がいるんじゃないのかい? 入っていいの?」
「おや、それでも 『遠慮』って言葉の意味を少しは覚えたらしいね」
「あいにく今はそんな憎まれを聞いたって動じるような心境じゃないのでね。『遠・慮』 なく入るから」
サフィラの皮肉めかした言葉に続いて重々しい悲鳴を上げて木の扉が開き、相変らずのすえた匂いが隙間から漂ってきてサフィラの鼻を突く。臘の溶ける音が静かに響いた。
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