部屋の中は暗かった。
開けた扉から隣室の光がさしこんでサフィラの背後を照らし、揺らめく影を床の上に落としている。
その部屋には、マティロウサが使うさまざまな道具や薬品が納められていた。何度も頁を繰られて茶色く変色した分厚い魔道書や、薬草の量を測るための古い天秤、ガラス瓶の中にぎっしり詰まった色とりどりの試薬、触れるとカサカサと音を立てる干からびた獣の皮、そんな類が所狭しとひしめき合っている。サフィラも何度か部屋の中で魔女の指導を受けたことがあった。
すべてサフィラも見慣れたものばかりだったが、それらには目もくれずサフィラは机の上に置かれている小さな箱を真っ直ぐ見据えた。
何の変哲もない木の小箱である。
だが、サフィラは感じ取っていた。
小箱の隙間から少しずつ染み出してくる 『何か』 を。
それは、気配であった。
サフィラにとってはすでに馴染みとなった、それでも得体の知れない、あの気配。
じわりじわりと小箱から滲み出て、机の上を這い、床に落ちてサフィラの足元へと忍び寄る。まるであふれた水が少しずつその面積を広げていくように。
声なき声が、またサフィラの耳を打つ。
それに呼ばれるように、招かれるように、サフィラは部屋の中へ足を進めた。
もはやサフィラはためらわなかった。
手の届くところまでたどり着くと、躊躇なく小箱に手を掛け、その蓋を開けた。
つややかな球体。
暗い部屋の中でも、それと分かるかすかな輝き。
そして、立ち上る目に見えない気。
小箱の中に納められているものを目にしたサフィラは、初めて見るにもかかわらず、何故か 『それ』 をよく見知っている既視感に襲われた。
灰色の靄を集めて透明な器の中に閉じ込めたような 『それ』。
そして、理解した。
自分が見る幻視の源は、これだったのだ。
同じ気配。
同じ圧迫感。
同じ妖しさ。
そして、同じ禍々しさ。
「……七と一つの」 サフィラは呟いた。「水晶……」
その言葉がまるで合図であったかのように。
突然、小箱の中から激しい大気の渦が逆巻いてサフィラに襲い掛かった。狭く小さな空間に無理やり閉じ込められていた突風が自由を得て荒れ狂うかのような勢いでそれはサフィラを取り囲んだ。
サフィラの耳元を轟音がよぎる。哄笑のようにも唸り声にようにも聞こえるその音の中に、依然と自分を呼ぶ例の声が現われては消える。
狂喜乱舞する風の真っ只中で立ち竦みながら、サフィラは少しずつ自分の視野がぼやけていくのを感じていた。
ああ、まただ。サフィラは思った。
幻視を見るときに必ず襲われる不可思議な感覚。
サフィラは思わず身構えた。
灰色の濃淡の闇。
幾筋も立ち上った靄。
見慣れた幻の世界。
だが、いつもならゆるゆると漂うだけの灰色の世界は、このときはまるで風の音と呼応するかのようにサフィラの傍らを通り過ぎていく。
雲が流れていくようだ。
あらゆるものが自分の視界を横切っていく中、ただなす術もなく立っているだけのサフィラはそんなことを考えた。しかし、過ぎ行く闇の気配はサフィラの意識を翻弄し、次第に増す目まぐるしさにサフィラは酔ったような感覚を覚えた。
一瞬、サフィラの目が闇以外のものを捉える。
女騎士の姿だった。
幻視というには余りにも鮮やかな余韻を残す、輝ける美貌の女性。その姿が灰色の闇とともに自分の横をすり抜けていったとき、思わずサフィラはそれを追って振り返った。
サフィラの目に映ったのは、女騎士の白い鎖帷子ではなく、老いた魔法使いの小柄な姿だった。
→ 第四章・伝説 17 へ
開けた扉から隣室の光がさしこんでサフィラの背後を照らし、揺らめく影を床の上に落としている。
その部屋には、マティロウサが使うさまざまな道具や薬品が納められていた。何度も頁を繰られて茶色く変色した分厚い魔道書や、薬草の量を測るための古い天秤、ガラス瓶の中にぎっしり詰まった色とりどりの試薬、触れるとカサカサと音を立てる干からびた獣の皮、そんな類が所狭しとひしめき合っている。サフィラも何度か部屋の中で魔女の指導を受けたことがあった。
すべてサフィラも見慣れたものばかりだったが、それらには目もくれずサフィラは机の上に置かれている小さな箱を真っ直ぐ見据えた。
何の変哲もない木の小箱である。
だが、サフィラは感じ取っていた。
小箱の隙間から少しずつ染み出してくる 『何か』 を。
それは、気配であった。
サフィラにとってはすでに馴染みとなった、それでも得体の知れない、あの気配。
じわりじわりと小箱から滲み出て、机の上を這い、床に落ちてサフィラの足元へと忍び寄る。まるであふれた水が少しずつその面積を広げていくように。
声なき声が、またサフィラの耳を打つ。
それに呼ばれるように、招かれるように、サフィラは部屋の中へ足を進めた。
もはやサフィラはためらわなかった。
手の届くところまでたどり着くと、躊躇なく小箱に手を掛け、その蓋を開けた。
つややかな球体。
暗い部屋の中でも、それと分かるかすかな輝き。
そして、立ち上る目に見えない気。
小箱の中に納められているものを目にしたサフィラは、初めて見るにもかかわらず、何故か 『それ』 をよく見知っている既視感に襲われた。
灰色の靄を集めて透明な器の中に閉じ込めたような 『それ』。
そして、理解した。
自分が見る幻視の源は、これだったのだ。
同じ気配。
同じ圧迫感。
同じ妖しさ。
そして、同じ禍々しさ。
「……七と一つの」 サフィラは呟いた。「水晶……」
その言葉がまるで合図であったかのように。
突然、小箱の中から激しい大気の渦が逆巻いてサフィラに襲い掛かった。狭く小さな空間に無理やり閉じ込められていた突風が自由を得て荒れ狂うかのような勢いでそれはサフィラを取り囲んだ。
サフィラの耳元を轟音がよぎる。哄笑のようにも唸り声にようにも聞こえるその音の中に、依然と自分を呼ぶ例の声が現われては消える。
狂喜乱舞する風の真っ只中で立ち竦みながら、サフィラは少しずつ自分の視野がぼやけていくのを感じていた。
ああ、まただ。サフィラは思った。
幻視を見るときに必ず襲われる不可思議な感覚。
サフィラは思わず身構えた。
灰色の濃淡の闇。
幾筋も立ち上った靄。
見慣れた幻の世界。
だが、いつもならゆるゆると漂うだけの灰色の世界は、このときはまるで風の音と呼応するかのようにサフィラの傍らを通り過ぎていく。
雲が流れていくようだ。
あらゆるものが自分の視界を横切っていく中、ただなす術もなく立っているだけのサフィラはそんなことを考えた。しかし、過ぎ行く闇の気配はサフィラの意識を翻弄し、次第に増す目まぐるしさにサフィラは酔ったような感覚を覚えた。
一瞬、サフィラの目が闇以外のものを捉える。
女騎士の姿だった。
幻視というには余りにも鮮やかな余韻を残す、輝ける美貌の女性。その姿が灰色の闇とともに自分の横をすり抜けていったとき、思わずサフィラはそれを追って振り返った。
サフィラの目に映ったのは、女騎士の白い鎖帷子ではなく、老いた魔法使いの小柄な姿だった。
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本を読んだり、文を書いたり、写真を撮ったり、絵を描いたり、音楽を聴いたり…。いろいろなことをやってみたい今日この頃。
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