先程の路地での一幕とは異なり、
今度は背後に明確な尾行者の存在を感じながら、J は歩き続けた。
男達と J との距離は、さほど離れていない。
夜の闇が自分達の存在を消してくれるとでも思ったのか、
男達の歩調も、夕暮れ時よりは大胆になったようだ。
事務所への帰路となるこの道には、
途中、空き地とも広場ともつかない、中途半端に開けた空間がある。
そこは周囲をボロボロの金網に囲まれていて、
中心には、いつの頃からか水が枯れてしまった噴水があった。
昼間なら、その縁に腰掛けた老人が他人の噂話に花を咲かせていたり、
噴き出し口に登って遊ぶ子供の姿をちらほらと見かける穏やかな場所なのだが、
夜も更ければ、ちょっとした犯罪の匂いが漂う危なげなスポットに変わる。
良識ある人々なら、進んで近寄ろうとはしないが、
誰も近寄らないからこそ、かえってある種の人間達を引き付ける場所でもある。
しかし、その夜はたった一人の人影すら見当たらなかった。
ただ、ポツンと灯された街灯が一本、
むしろ周囲の暗がりを浮き立たせて物寂しさを募っているだけだった。
ぶらぶらと歩いていた J は空き地までたどり着くと、
ふと立ち止まり、おもむろに噴水に足先を向けた。
ここまで来れば事務所はもう目と鼻の先なのだが、特に急ぐ素振りも見せない。
薄汚れた石造りの噴水は風化しかけて丸みを帯び、
噴き出すのを諦めてしまった地下水の代わりに
そこには、何日前かに降り注いだ雨水が溜まっていた。
暗さも手伝って、澱んだ水面の下は見えない。
棒か何かでかき回せば、
得体の知れないイキモノが浮かび上がってくるのではないか。
そんな不気味さを、J は見る度に感じてしまう。
コートが水に浸らないよう気をつけながら、J は噴水の縁に腰掛けた。
その拍子に、半分欠けた月を水面に見つけ、ふと J は空を見上げる。
いつの間に上がっていたのか、
周囲の屋根の波よりもほんの少し高い位置に、本物の月があった。
LUNA (月) は、LUNACY (狂気)に通じる。
そう聞いたのは、いつのことだったか。
J は煙草の煙と空の月を重ねながら、ぼんやりと考えた。
太古の時代、いわゆる 『大災厄』 よりも遥か以前、人々はそう信じていたという。
だが、今、J の目に映る月は、ただ静かに、
人々のため息よりも静かに光を地上に落としているだけの存在に過ぎなかった。
強いて言えば、半分だけ閉じた瞳のような。
冷めた視線で、アースの上を蠢く人々を眺めているような。
J は意識を地上に戻す。
さあ、どうしてくれる。
見えない尾行者に、心のうちで呼びかける。
今なら誰も見ていない。月の他には。
J がこの空き地で足を止めたのには、理由があった。
相手の思惑がどうであれ、人目がないこの場所であれば、
J に対して何らかのリアクションを仕掛けてくるのではないか、と踏んでの行動である。
多少荒っぽい場面に遭遇しそうな時に、
J はいつもこの薄暗く湿った場所を舞台に選ぶのだ。
何を探ろうとしているのか。
探るだけなのか。
あるいは、もっと辛辣な目的があるのか。
それとも、もしかしたら、尾行されているというのは J やあーちゃんの勘違いで、
たまたま道行きの方向が同じだっただけなのか (というのは、無理があるが)。
とにかく、J は噴水の側で相手の出方を待つことにしたのである。
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