それまで吸っていた煙草を消し、すぐに新しい一本を取り出して火をつける。
気が付けば、それが最後の一本だった。
空になった煙草の箱を握りつぶしてポケットに戻しながら、
せめて、これを吸い終わるまでに相手が動いてくれればいいが、と J は考えた。
しかし。
3分経過。
煙草が少しずつ短くなっていく。
J は噴水の縁をトントンと忙しなく指で叩いた。
その音が、辺りの静けさの中を遠慮がちに流れていく。
『忍耐』 と 『耐え忍ぶ』 という言葉は、同じ意味を持ちながら、
その2つに、明らかに異なるニュアンスを感じてしまうのは自分だけだろうか。
耐えることも忍ぶことも苦手な J は、ぼんやりと考える。
5分経過。
街灯の前を時折よぎる虫の影以外に、動くものはない。
だが、空き地の入り口には、姿は見せなくとも確かに人の気配がある。
奥床しいのか、シャイなのか。
だが、いずれも今の世の中では、美徳とされることはない。
そんなことを考えながら何もせずにただ待つだけの時間は、
決して長いものではなかったが、J の神経を次第に、そして確実に尖らせていく。
そして、7分を過ぎた頃。
ついに J は煙草を噴水の縁で乱暴にもみ消した。
一体、何をしている。
J は心の内で毒づいた。
尾けられている本人が、こんなに無防備に待ってやっているのに。
あんな時代錯誤な、さもありなん、と言わんばかりの格好で
金魚のフンのように人の後をウロウロと尾けまわしておきながら、
今この時に何の接触もしてこないとは。
ふざけている。
じっと待っていた自分がバカバカしく思えてくるじゃないか。
……本来、J はさほど性急な性分ではない。
むしろ、その逆と言える。
少なくとも、例えば人と待ち合わせなどをした際に、
相手が7分遅れたところで動じることはなかったし、
7分どころか、30分、場合によっては1時間待たされることになっても、
つらつらとどうでもよいことを考えたり、街行く人の姿を眺めたり、
J なりの時間の費やし方で、その場をやり過ごすことができる人間なのだ。
煙草さえ、あれば。
だが、この時の J の胸中では、
その頼みの綱の煙草が尽きたことへの喪失感が、ただならぬ程に膨れ上がり、
さらに、その影響で、思いのほか身にしみる外気の冷たさ、
薄汚れた噴水の水、静まり返った周囲の気配、
いや、それだけではない、冷めた光を放つ空の半月さえもが苛立たしく思え、
ここ数分間のうちに、寛大さや穏やかさとは無縁の心境になりつつあった。
こんなことなら、さっさと事務所に戻ればよかった、と J は後悔した。
そうすれば、今頃、新しい煙草の箱の封を切り、
快適とはいえないが、座りなれたソファに身を沈めて、
千代子が入れたコーヒーを飲みながら、くつろいでいられたものを。
そう考えれば考えるほど、J の不機嫌の低気圧は勢いを増していく。
『尾行された時は、撒く。それが一番賢いやり方だ』
パートナーの諛左が何かの折に言っていた台詞を、今更ながら J は思い出す。
『いちいち相手をしようとするから、
お前は荒事に巻き込まれる回数が増えるんだよ』
判ったか、この馬鹿、と言わんばかりの、
その時の諛左の表情までもが心に浮かび上がる。
あの男が言うことは、いつも間違っていない。
しかし、今は、それが正論であることすら、J の苛立ちに更に拍車をかけていた。
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