途端に。
風がやむ。
幻視が消える。
突然戻ってきた痛いほどの静寂がサフィラの耳を打つ。
心臓が波打っていた。激しい鼓動が息苦しさを呼んで、サフィラの呼吸が荒くなる。
サフィラはシヴィを、そしてその背後にいるマティロウサを見た。逆光となった大小二つの姿はただ暗く、二人の表情はサフィラの位置からは窺い知れない。
部屋の中は驚くほどに普段と変わらぬ様子を保っていた。吊るされた薬草も積み上げられた蔵書も何一つ微動だにしていない。
では、あの狂風も幻だったのか。
サフィラはつい先ほど自分を取り巻いていた風の生々しい感覚を思い出しながら、それでもまったく荒れていない部屋の置物達を見て、そう納得せざるを得なかった。
「大丈夫かの……?」 シヴィの声がした。
「いやはや何とも、大変な勢いじゃったな。さすがに古の魔法は荒々しい。太古の息吹そのものじゃ」
「では、あなたも今のを感じたのか? あの、風を?」
「あれを感じなかったとなれば、わしらは 『何が魔法使いだ、何が魔女だ』 と皆から石を投げられることになるじゃろうな」
なあマティロウサ、とシヴィは魔女の巨体を振り返った。マティロウサはそれには答えず、ただ深く長いため息で返す。
「じゃが、お前様にはいささかキツかったようじゃな。どれ、もう 『それ』 はしまうがよい」
シヴィに促されて、サフィラは蓋を開けたままの小箱に目をやった。
『それ』……『水晶』 は、相変わらず鈍い輝きを放っていた。サフィラは水晶をじっと見つめたが、不思議と畏れや不安はもう感じない。ただ、見ていると吸い込まれてしまいそうな感覚に襲われる。同時に、それでも見ていたい、と目が離せなくなるような妖しさが別の不安を呼びそうだった。
サフィラは急いで蓋を閉めた。
その場に留まっていると再び水晶の見せる幻に囚われそうな気がして、サフィラは小箱を振り返りもせずに部屋を出て扉を閉ざした。
元の部屋に戻ったサフィラはようやく気を緩め、壁に力なくもたれかかった。
ほらお飲み、とマティロウサが渡してくれたその日何杯めかのアサリィ茶は、飲み過ぎの感があるサフィラを少しうんざりさせたが、それでも口に含んでいくうちに気分が落ち着いていく。
シヴィは黙っていた。表情こそいつもの穏やかを取り戻していたが、決して自ら語らずにサフィラの方から口を開くのを待っているように見えた。
しかし、問いたいことは多々あるサフィラだったが、自分自身がまだ思い惑う部分も多いため尋ねるべき言葉が見つからないでいた。
目の前では相変わらずサリナスとタウケーンが気持ちよさそうに熟睡していた。
ああ、この二人がいたんだったと、今さらながらサフィラは思い出した。
二人の現実的な姿がサフィラを少しほっとさせる。どんな夢を見ているのか、タウケーンなどは眠りながら幸せそうに笑っていた。
夢。
唐突にサフィラは思い出した。
今日、まどろみとともにサフィラを訪れ、サフィラが捕まえる前に消え去った、あの夢。
先ほど水晶に魅せられた幻視が、忘れていた夢を呼び起こしたのだろうか。今になって鮮やかにサフィラの脳裏に浮かび上がってきた。
その中には、あの女騎士の姿もあった。
夢の中で白く輝く女騎士と交わした言葉が甦る。
受け入れろ
運命として
我が名は……
「……セオ…フィラス」
知らず知らず、サフィラは口に出して夢で聞いた名を呟いていた。確か、そんな名前だった。
シヴィがちらりとサフィラを見やる。「……それは 『七と一人の勇士』 の一人じゃな」
シヴィの言葉に、思わずサフィラは老魔法使いの顔を見た。そして、成程、とどこか諦めたような表情を浮かべてため息をつく。
「では……あれはやはり人ならぬ人だったのだな。あの輝かしい騎士は」
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