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マティロウサの住み家からかなり街中に入った所に、一件の小さな家がある。
魔道騎士サリナス・エナキムのねぐらである。
三年前、このヴェサニール公国に腰を落ち着けて以来、サリナスは当時空き家だったその家に住み着いて、ひたすら魔道に勤しんできた。
医師としての勤めも果たす魔道騎士にとって、この国は忙し過ぎるくらいの時間を彼に与えた。
サリナスだけでなく、この国の魔道騎士は皆そうである。魔女マティロウサの力を借りなくてはならないような大きな病、怪我は別として、ちょっとした治療を当てにする時には、街の人間は魔道騎士を訪ねるのが常となっていたからである。
火を扱っていて火傷を負った者、遊びに夢中になって石塀の上から誤って落ちた子供、季節柄の乾いた空気のせいで咳が止まらなくなった者など、患者は様々ではあるが、その数は相当なものであった。多い時で一日に十人よりも未だ沢山の人々が、魔道騎士の家の軒先を訪ねることがあるのだ。
しかし、その日は珍しく来訪者が少なく、サリナスは久し振りに落ち着いた気分で自分の為だけの午後の時間を過ごしていた。
丸い木のテーブルの上には、マティロウサの元から借り受けたあの旧い羊紙皮が広げられており、四隅には重し代わりの黒玉が置かれていた。五十行以上もの古の文字がその枯れ葉色の面を飾っている。それに目をやりながら、サリナスは静かに考え込んでいる様子である。
サフィラが言った通り、サリナスはその古文書の解読にいささか手古摺っていた。
今まで目にしたどんな文字ともそれは違っていた。また、どんな文字にも似ているような気もした。
文字の上に古の魔法が幾重にも掛かっていて、元あった形を全く違うものに変化させている。その魔法を正しい方法で、正しい順に読み解いていかないと、詩の真の意味は得られないのだ。
ましてや、それが五十行以上もある中で、一行ごとに魔法を変えてあるとなれば、捗らないのも無理はない、というものである。
サリナスは、それでも根気よく、半ば楽しみながらその魔法解きに取り組んでいた。未だほんの数行しか読めてはいなかったが。
「『天と土を分かつ』……待てよ、次はどう続くんだ?それとも、これが後の言葉を受けているのか。
だとしたら意味がつながらんぞ。順序を間違えたかな」
やはり余り捗っていないようである。
何やら頻に独り言ちて紙面と分厚い魔道書を見比べては低い声で呪文を唱えている。
ふと、表が少し騒がしくなったのにサリナスは気付いた。
人々の騒がしげな声に混じって、聞き覚えのある澄んだ声がサリナスの耳に届いた。
「おめでとうございます、サフィラ様」
「ご成婚おめでとうございます、サフィラ様」
「……ありがとう、皆」
どうやらサフィラが久方振りに街へ下りて来たらしい。
サリナスは王女を迎えるべく椅子から立ち上がった。
「本当におめでとうございます」
「おめでとうございます、サフィラ様。どうぞお幸せに」
「……いやいや、ありがとう」
晴やかに祝いを述べる民人の声に比べて、それに対するサフィラの返事はいささか元気がないようにサリナスには聞こえた。
まあ、気持ちは分かるが。
サリナスがくすりと笑って入り口のドアを開けると同時に、口を真一文字に結んだサフィラが早足で中へ入ってきた。
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