強いて言えば、あの女はいつも退屈していた。
『あたし、つまらないわ』
それがカレッジ時代からの麻与香のお決まりの台詞だった。
そして、それは恐らく本心でもあったのだ。
結婚という手段で、
麻与香は彼女の半身とも言える退屈から抜け出そうとしたのかもしれない。
彼女の 『つまらないわ』 に笥村聖は相当振り回されたことだろう。
かつての J のように。
そして結果的に、ハコムラ・コンツェルンの総帥は麻与香に掴まった。
彼女の蠱惑の瞳と形の良い唇、思わせ振りな視線の糸の中に
あっという間に絡め取られてしまった、というわけだ。
この国を動かす立役者も、所詮は一介の男だったということか。
笥村聖が聖人君子であれ、とは思わないが、J にとってはいささか興醒めな話である。
ここまで考えて、ようやく J は本来の依頼内容を思い出した。
いけない、いけない。
いつの間にか、というより、最初から脱線している。
探らなくてはいけないのは、笥村聖のことであり、
麻与香と聖の結婚秘話についてではない。
高そうな大理石の灰皿に吸殻が数本積み上げられた頃、
もう一度 J は部屋の中を見回した。
考え事をするだけなら J のオフィスよりも環境が向いている。
静かだし、何しろ、あの煩わしい諛左がいない。
しかし、ミヨシは千代子の代わりにコーヒーを持ってきてはくれないだろう。
頼めば、別だろうが。
そろそろ戻るか、と J は心地よいソファの引力から離れた。
ふと暖炉の上に目をやると、地味な写真立てが立てられているのに J は気が付いた。
歩み寄って手に取り、しげしげと眺める。
世間の人間が 『笥村聖』 に抱いているイメージはどんなだろうか。
極度のマスコミ嫌いの男だが、時折は人々の目に姿を見せることもある。
TVモニターで詭弁に近い演説をぶちかましている姿。
尊大な表情を満面に貼り付けて、
一般人には手の届かないオーダーメイドのスーツを着こなす姿。
厳めしく正面を睨みながらデイリーペーパーの紙面を飾っている姿。
そこには 『自分たちとは別世界の人間』 というイメージが常に付きまとっている。
しかし、今 J が目にした暖炉の上の写真は、
世間が勝手に被せている 『笥村聖』 のイメージを少なからず裏切ることになりそうだった。
そこに写っているのは、晴れやかで柔和な表情をした中年男だった。
この世で一番の富と権力を持つ男には相応しくない表情の。
男の隣には妖しく微笑む、見覚えのある女。
それは、世をときめく笥村夫妻のごくプライベートな写真だった。
フレームを外して中の写真を取り出し、その日付を見る。
どうやら結婚した直後に写したものらしい。
どこから見ても幸せそうなカップルにしか見えない。年は離れすぎているが。
J はまたもやウンザリした思いで写真を元に戻した。
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