阿南はもう一度頭を振って、定位置である玄関口手前の脇に身を落ち着けた。
女のことは、ひとまず要注意人物として記憶に止めておくだけにしよう。
いろいろな意味で余り深く関わりたくはない。
何という名前だった?
確か、『フウノ』 とか。
思いがけず、すんなりその名を思い出した自分自身に
一瞬、阿南は違和感を覚えたが、あえて気にかけないように努めた。
それでもやはり、先刻目にした女の顔が阿南の心に浮かび上がる。
その残像はしばらくの間、阿南の中から消えそうになかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「フウノが来たんですって?」
その日の夕方、笥村麻与香は家に戻るなり、傍らに控えるミヨシに尋ねた。
「言ってくれれば、あたしも家に戻ったのに」
「申し訳ございません」
麻与香のコートを脱がせながら、穏やかに目を細めてミヨシが頭を下げる。
「シバタ様とのお茶会のご予定と伺っておりましたので、
先様の御宅に連絡を入れるのも失礼かと存じまして」
「構わないわよ。あんなバカげた連中とバカげた話をして時間を潰すより
フウノの嫌がる顔を見ていた方が何倍も良かったわ」
「次からは、そのようにいたします」
「そうして頂戴」
颯爽とした足取りでダイニングルームへ向かった麻与香は
ミヨシが引いた椅子の一つに優雅な動作で腰かけた。
タイミングよく、使用人の一人がティーセットを持って現われる。
カップに注がれる紅茶の湯気を見つめながら、麻与香は再びミヨシに尋ねた。
「で、どうだったの? フウノは何か分かった様子だった?」
「いえ、さほどは」
「まあ、そうでしょうね」
麻与香はくすりと笑った。
J が嫌っている、いつもの酷薄な微笑。
紅く艶やかな唇が形の良い弧を描く。
「始まったばかりだもの。そんな簡単に解決してもらっては、こっちがつまんないわ」
「ただ」 ミヨシが控えめな口調で切り出した。
「『あれ』 には、お気づきになられましたが」
「……ああ、『あれ』 ね」
「はい。お借りしたい、とのことでしたのでお渡しいたしましたが、よろしかったでしょうか」
「構わないわ。まあ、あれだけ堂々と置いておいたんだから
気づいたからって 『さすが』 というわけではないけど、
もう少し手の込んだ意味アリゲなものにしておけばよかったかしら……」
麻与香は独り言のように呟く。
言うまでもない、『あれ』 とは例のカレンダーのことである。
部屋にそぐわない違和感に目をつけた J がそれを持ち帰ったのはミヨシの言葉通りだが、
麻与香にとっては、J の行動は予想内の出来事であるらしい。
「大したヒントにはならないかもしれないけどね。
ふふ、あの子の機嫌の悪そうな顔が目に浮かぶわ」
微笑む麻与香の表情には、愛する夫の行方を案じる妻の嘆きは相変わらず見られない。
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