阿南は、ふと頭をめぐらせて、背後に視線を送った。
そこには、ハコムラ・コンツェルンを象徴する大邸宅がそびえている。
見る者に前時代的な印象を抱かせる巨大な構えの扉。
それは、阿南を押し潰すかのように存在感を誇示している。
さすがにニホンで一番名を知られている男だけあり、
不穏な理由で笥村聖の屋敷に忍び込もうとする人間は決して少なくなかった。
誘拐目的、企業スパイ、テロ、ストーカー、狂信的な信奉者……
あらゆる可能性が考えられる中、
今まで大きな事件が持ち上がらなかったのは、ひとえに優秀な警護力があったからであろう。
阿南自身が危険を察知して活躍したことも、2度や3度ではない。
しかし、その鉄壁の警備の一端を担う阿南にとって、
雇い主や世間の評価の高さは、さほど自らの精神的な快感にはつながらない。
むしろ、阿南の心は自嘲に似た感情に満ちている。
毎日毎日、自分はこの尊大な扉の前で番犬となっているわけだ。
怪しい者に唸って吠えて噛み付いて、報酬という名の餌をもらっている。
そんな自らの日々を思い、そして在りし日と今を比べることによって、
阿南の心は、やはり倦んでいくのだ。
阿南の心にくすぶっている感情は、
盛りを過ぎた老人が抱くような過ぎ去った日の充実感を懐かしむ感傷に似ている。
世界が向かう方向が変わりつつあるのなら、自分もそれに合わせていく方が利口なのだ。
あの黒髪のニホン人が言っていたように。
人の生死が世界を動かす、と本気で信じていたあの頃、
時代の雰囲気に支配されていたあの頃の自分の方が、恐らくは異常なのだ。
しかし。
頭で考えて理解できることと、自分自身の感情とは必ずしも一致しない。
むしろ背反することの方が多い。
世間と折り合いをつけて生きていくことは阿南にもできる。
だが、心の底には湧き上がる寂寞とした感情はどうにもならない。
それに気付かない振りを続けていくのは、阿南にとって大きな苦痛だった。
阿南は再び目を背後の屋敷へと向けた。
現在、この屋敷の中に笥村聖はいない。
聖の年若い妻・笥村麻与香によると、
『主人はプライベートでしばらくニホンを離れているの。当分帰ってこないわ』
とのことであった。
麻与香の言葉を聞いて、阿南の上司に当たる壮年手前の警備主任が、
驚いたように尋ねたのを阿南は他人事のように見ていたものだ。
『……護衛もつけずに、ですか? 自分は何も聞いていませんが』
『プライベートだって言ったでしょ。
あなた達みたいにデカい男が貼り付いていたら、逆に目立ってしまうじゃないの』
『しかし』
尚も言い募る警備主任とは裏腹に、
麻与香は退屈な会話を打ち切るように手を振ると、背を向けて歩み去った。
警備主任は、その後ろ姿をしばらく見ていたが、
やがて何事もなかったように部下達をいつもの警備配置に送り込んだ。
しかし、阿南は、主任が小さく舌打ちしたのを聞き逃さなかった。
権力者の気紛れに振り回されるのは今に始まったことではないが、
阿南には主任の心情がよく理解できた。
結局それ以来、神殿を守るガーディアンの彫像さながら、
一日中、主不在の屋敷の前で、訪れる人間相手に誰何を繰り返している阿南である。
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