あの男は正気を失っていた。どんよりとした目がそれを物語っていた。
あの男は衰弱しきっていた。すぐに息を引き取った。
そして男は、薄汚れた皮袋を握り締めていた。その皮袋の中には。
そう、『あれ』 が入っていた。
「……」
あの哀れな男について覚えている限りの記憶を次々に頭の中に思い浮かべたサフィラは、黙らざるを得なかった。
シヴィは、あの男の錯乱の原因が 『あれ』 にあると言っているのだ。
容易なことではないか、という気持ちが自分の中で後ずさりしていくのが分かる。
分かったかな、という表情を浮かべてシヴィがサフィラを見る。
「あの老人は、お前様の元へ水晶を運ぶために選ばれた人間じゃ。『老人』 と言うても、恐らくまだ40代ぐらいの年頃じゃったであろう。それがあのように末期の姿でわしらの前に現れたのは、ゆめゆめ事を軽々しく考えるな、という教訓になるのではないかな。あの老人には気の毒じゃが」
「つまり」 サフィラは唾を飲んだ。「私も、ああなると?」
「それは分からん」 シヴィは深く息を吐いた。
「あの男はただの 『運び手』。お前様とは水晶に関わる度合いがちと違う。お前様は、水晶にとって目的の地となる最果てまで荷を運ぶために選ばれた、いわば 『背負い手』 じゃ」
「背負い手……」 その言葉に圧し掛かる重く暗い陰りがサフィラの心を鬱にする。
「背負うのはただ一つの水晶だけではない、ということか」
遠い時代、伝説が生まれた太古の昔から続く千年もの歳月が、今サフィラの両肩に爪を立てて食い込んでくる。サフィラは疲れたため息をついた。
「恐らく、今このときにも、他の七つの水晶が各々の背負い手を求めておるじゃろう」
シヴィはさらに続けた。
「いや、お前様のように、既に幾人かが選ばれておるかもしれぬな。最終的に七と一つの水晶は、七と一人の背負い手によって、かの地に集うことになるのじゃ」
サフィラは合点がいった、というふうに頷いた。
「その背負い手の存在について語られている話こそが、あなたがさっき言っていた 『伝えられなかった』 部分なのだな」
「そうじゃ。かの魔の者の復活においては、この内容を伝えられたのはわしらのような魔法に従事する者の数人だけじゃ。しかも、口伝のみでな。いずれにしても、背負い手は水晶の意志によって選ばれる。そして一度選ばれてしまったら」
シヴィは隣の部屋へと続く扉に目をやった。
「逃れることはできぬ。たとえ背負い手がどんなに水晶を遠ざけようとしても、たとえ地に埋め、湖の底に沈めたとしても、水晶は必ず背負い手の元へ戻るのじゃよ」
「逃れられるのは、目的を果たしたときだけ、か」
サフィラが呟いた。他人事めいた口調になるのは、他人事であって欲しいと望むサフィラの正直な気持ちの現われなのだろう。
「何故、私なんだろう」
話の結末は分かったものの、サフィラにはまだ根本的な疑問があった。
「世の中に人はたくさんいるのに、何故、私が選ばれたのか、それが分からない。だって、あなたでも良かった筈だろう? それにマティロウサでも」
「あたしらのような魔女や魔法使いは」
語りの大半をシヴィに任せていたマティロウサは、サフィラに問われて口を開く。
「この古の伝説について直接関わることが出来ないんだよ。そう定められている」
「そんなこと、誰が定めたんだ?」
少し苛立ってサフィラが尋ねた。災いを被るのは人間、と誰が決めたのか。
「誰でもない。口伝とともに禁忌として共に伝えられているんだよ。そもそも、あたしたちはあの水晶を直接触れることも持ち歩くことも出来ないんだ」
「え?」
「魔力を吸い取られちまうのさ」 マティロウサの口調は忌々しげだった。
「そうなれば、水晶に力をくれてやることになるからね。隣の部屋にある水晶も、その爺様が触れないように注意しながら、皮袋から木箱に直接移したものなんだよ」
「第一、水晶は決して魔法の従属者を背負い手には選ばんのじゃ」
マティロウサの後をシヴィが引き継いだ。
「水晶の中に巣食っておるのは、かの魔の者の残照だけではない。わしらから魔力を得れば、もう一方にも力を与えることになるからの」
「もう一方……」 サフィラは少し考えた。「成程、勇士達か」
「そうじゃ。せっかく捉えておる者達の力をわざわざ増してやるほど、魔の者は寛大ではない」
善き者と悪しき者が同居する小さな球体。
あんな小さいものが、自分達を良いように振り回そうとしている。
サフィラは腹立たしさを覚えると同時に、一筋縄ではいかない複雑さと厄介さをひしひしと感じずにはいられなかった。
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