サフィラは口を閉ざしたままだった。
マティロウサが語った言葉は、サフィラの予想を遥かに超え、重く苦いものだった。否、そんな単純な言葉では表現できない重圧がサフィラの心の中で逆巻いた。
サフィラは、自分が知るすべての人々の顔を次々と思い起こした。
王と王妃、乳姉妹でもある二人の侍女、老いた侍従長、多くの衛兵や召使達、そして善良な城下の人々、親友でもある魔道騎士、親しい魔道仲間、授け名の魔女……。
唐突に、運び手となって朽ちた男の姿がサフィラの脳裏に浮かぶ。正体を失った哀れな姿が、親しき人々と重なり、その不吉な連想はサフィラを心の底から戦慄させた。
この魔女は、何ということを最後の最後に切り出してくれたのか。
自分ひとりの運命であるならば、どうにもできる。災いは自分にしか振り掛からないのだから。
しかし、マティロウサの言葉によって事情が変わった。
平和で穏やかなヴェサニールの人々の頭上に水晶の悪意が広がる。
これはサフィラにとって耐え難い考えだった。
「……まるで逃れられない罠に嵌ったような気分だな」 サフィラは力なく呟いた。
「むしろ、脅迫だ」
マティロウサは答えない。自分が語った言葉によって打ちのめされた目の前の幼い魔道騎士を、ただ見つめていた。
その沈黙に、サフィラは否応なしに状況を受け入れるしかないことを悟った。
勝手に運命を背負わされ、やるか否かを自分で決めることもできず、かと言って、思い悩んで留まることも許されない。
サフィラの目の前には、遥か先を目指して伸びる一本の道しかないのだ。他に選べる道はない。
そして足元の地面はサフィラの背後から音を立てて崩れ、崖のようにサフィラを追い立てる。
先に進まなければ、サフィラも共に墜ちてしまう。
サフィラは両手で顔を覆った。
頭の中で、いつかサリナスに言った言葉を思い出す。
『負わされた責任から逃れるつもりはない。』
今思えば、皮肉な言葉だ。
王女という運命以外に、このような役が回ってこようとは思ってもいなかった。
今となっては前言を撤回して、突然振って沸いた 『背負い手』 とやらの責任から逃れられる術があるならば、ぜひ逃れたい、という心境だった。
だが、ヴェサニールが。
ヴェサニールの人々が。
それを思うと、サフィラの心が萎える。
「マティロウサ」 サフィラは魔女の名を呼び、口元を歪めて微笑んだ。
「他にも隠してることがあるんなら、今のうちに教えてくれないか?」
自分の話し方に痛烈な皮肉が混ざっていることをサフィラは自覚していたが、それを詫びる気にはならなかった。逆に、このくらい言っても構わないだろう、と言わんばかりにマティロウサを睨む。
老魔女は、愛弟子の不遜な態度に一瞬憤りを覚えたが、サフィラの目の中に揺らぐ沈鬱な光に気づいて叱責の言葉を飲み込んだ。
サフィラの心の痛みをマティロウサは充分理解していた。そして、マティロウサ自身も同じくらいの痛みを感じていた。告げる方と告げられる方、苦しいのはどちらも同じだが、これから先のことを見越して考えれば、サフィラが抱く重荷の方が遥かに深刻で質が悪い。
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