「……お前様に礼を言わねばならぬな」
シヴィはやわらかな瞳でサフィラを見た。
この魔法使いがもしも家族を持つ身であれば、きっとこのような眼差しで孫の姿を見つめるのだろうな、とサフィラはまったく関係ないことをふと思った。それほどにシヴィの目には慈愛の感情があふれていた。
「どのようにお前様に伝えたものか、実のところわしらは難儀しておったんじゃ。お前様を怒らせるのは分かっておったし、絶望させるのも目に見えておったからのう……」
シヴィの言葉に、サフィラの心から怒りの波がすっと引いていく。
「礼なんて」 サフィラは目を伏せた。
「あなたたちは感謝する必要もないし、謝る必要すらない……よく考えれば、何もできず、ただ伝えるだけという役回りも、結構辛いんだろうな。いろいろ言って悪かった、二人とも」
切り替えの早さはサフィラの得意とするところである。マティロウサなどから見れば、それは素直さと背中合わせのサフィラの美徳の一つであった。
そして、個人的な感情を落ち着けたサフィラには、すでに生来の冷静さが戻っていた。
「老シヴィ」 サフィラは老いた魔法使いに言った。
「決めたからには、迷わない。私はどうすればいい?」
決心がサフィラの意識を先へ先へと向かわせていた。
「ほうほう」 シヴィは感嘆したような声を上げた。
「そうじゃな。伝説を語るのはこれでもう充分じゃろう。これからすべきことを考えようかの」
「取りあえずは、呪われた地とやらに向かえばいいのだろう。忌々しい水晶を持って。だが、老シヴィ、私はその場所を知らないぞ」
「知っとる者なんぞ、この世にはおらんさ。だが、ふむ、確かに道案内は必要じゃな……まあ、心配せずとも良い」
シヴィは悪戯を思いついた子どもにも似た瞳を見せた。
「わしが、ついていくから」
「え?」
サフィラは思ってもいなかった老シヴィの言葉に驚いた。マティロウサも同様の表情を浮かべて老いた魔法使いを見る。シヴィは二人に見つめられて、にっと笑いながら頭をかいた。
「わしを連れて行くと楽しいぞ。何しろ、旅馴れておるから、道中いろいろ役に立つこともあろう」
「老シヴィ……一緒に来てくれるのか?」
「うむうむ、もう決めた。背負い手の重荷を担ってやることはできぬが……お前様に同行するだけなら、たとえ水晶でも口を出すまいよ」
「シヴィ、あんた……」
マティロウサにとっては、いや、サフィラにとってもそうだが、シヴィの言葉は願ってもない申し出であった。しかし、いつも勝手気ままな放浪の身を好むシヴィの性格を考えれば意外でもあり、それでいて、いま思いついたかのような言い草はいかにもシヴィらしい。
「でも、あんた、かの地への行き方を知ってるのかい? 古詩にはそこまで書いてないじゃないか」
「知らん」
あっさりと答えるシヴィに、それでどうやって連れて行くんだよっ、とマティロウサが声を荒げる。
「まあまあ、そう怒るな、魔女殿」 どうやらシヴィも元の調子を取り戻してきたようである。
「まあ、取りあえず、『谷』に向かおうかな、と思っとるんじゃが」
「『谷』……」 マティロウサが考え込んだ。「……成程ね」
「谷って……魔法使い達が集う『谷』のことか?」
サフィラが興味をそそられた様子で尋ねた。
「マティロウサがよく話してくれた、あの『谷』? そこに行くのか?」
「うむ、かの地への手掛かりは 『谷』 で見つかるじゃろう」
「『谷』 か……」
魔法使い達の住処である 『谷』 の存在は、魔道騎士となった者ならば一度ならず話に聞く、これこそ伝説の地である。しかし、魔道騎士はおろか、魔法に携わることのできない人間には行き着くことさえできない、到達不可の地でもあった。
こんな状況でありながら、サフィラは少しばかり気分が上昇してきた。憧れの『谷』へ、しかも魔法使い自らの誘いで訪れることができるとは。
「……と言うても、その前に」
シヴィはサフィラの両隣で眠っている二人に目をやった。つられてサフィラも視線を移す。
「片付けなくてはならぬ問題があるんじゃったな」
そうだった。サリナスとタウケーンの寝姿を見てサフィラは思い出した。
そもそも、マティロウサの家を不本意ながらも訪れることになったのは、サフィラが結婚当日に予定している脱走劇の話が発端となっている。それが、いつの間にか途方もない展開になり、サフィラを惑わせ、悩ませ、怒らせ、無理やり決断を強いることになった。
分からないものだ。何が起こるかなんて。
つい厭世的な気分になるのをサフィラはこらえた。ともかく、決心したのだから。
いずれにしても、式を抜け出すことに変わりはない。それをどうするか。
「それは当初お前様が予定していた通りで良いのじゃないかね?」
尋ねたサフィラに、事も無げにシヴィが言う。
「なあに、そう悪いことにはならんさ。わしも少しは手を貸そう」 シヴィの目が明るく輝く。
「……取りあえず、そこで眠っているお若いの達を起こすとするかね」
(第四章・完)
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