その日、騒ぎの発端となったのは、サフィラ王女の侍女であるトリビアの叫び声であった。
城の誰よりも早く目覚める習慣が身についているトリビアとリヴィールの二人は、いつものように未明のうちから身支度を整え、真っ先に主人の部屋へ向かった。サフィラが起き出す前に衣装や洗顔などの準備をするためである。
部屋に入ったとき、姉であるトリビアは、いつもは感じない違和感を覚えた。見慣れた筈のサフィラの部屋だが、何となくどこかいつもと違う。
トリビアが作業の手を止めて部屋の中を窺っている姿を見て、妹のリヴィールが水差しを手にしながら尋ねた。
「お姉様、どうかなさいましたの?」
「いいえ、ただ……」
曖昧に答えながら、トリビアは違和感の元を求めて室内に目を走らせた。
その視線が部屋の片隅を横切ろうとして、ふと止まる。
「あら……?」
そこは、サフィラがいつも身につけている衣装が置いてある一角であったが、今日は妙にすっきりとして見えるのがトリビアは引っかかった。
「……ないわ」
やがてトリビアは、あるべき筈の短衣やマント、ブーツが一式なくなっていることに気づいた。楽だから、という理由でサフィラが好んで着る衣装ばかりである。何よりも、いつもは無造作に壁に立てかけてあるサフィラ愛用の剣がない。
トリビアは嫌な予感がした。
「お姉様、さっきから手がお留守ですわよ」 部屋の中を行き来しながらリヴィールが言った。
「早くしないとサフィラ様がお起きになってしまうわ」
妹が少し頬をふくらませるのを無視して、トリビアはサフィラが眠っている筈の寝室へ続く扉へ向かった。取っ手に手をかけ、ゆっくりと押しやりながら中に向かってそっと呼びかける。
「サフィラ様……?」
まだ薄暗い寝室の中、返事はなく、トリビアの目に映ったのは主のいない空っぽの寝台であった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
サフィラ不在。
その知らせに、朝まだきの静けさに覆われていたヴェサニールの城は、一気に上を下への大騒ぎとなった。王女でもあり、翌日には花嫁の身となる国の唯一の後継者がいなくなったのであるから、騒動の度合いも知れるというものである。
「おらぬとは、どういうことじゃ!」
翌日迎えるべき娘の晴れ姿を夢に描いて健やかな眠りについていたヴェサニール王とその后は、突然の知らせに叩き起こされた形で王の間に姿を現わした。
「人一人が、そう簡単に消える筈がない! とにかく捜せ! 捜すのじゃ!」
「あ、あなた、もしかしたら、あの子はさらわれたのでは?」
しばし人形のように固まっていた后は、ようやく正気を取り戻し、うろたえながら言った。その言葉に王は一瞬ぎょっとした表情を見せたが、すぐに頭を振ってそれを打ち消した。
「何を言うのじゃ、后よ。我が娘ながら、あれをさらうのは至難の技じゃぞ! 大人しくさらわれたまま姿をくらますなど考えられん!」
あの口の悪いサフィラにして、この親あり、という表現が似つかわしい王の言い様である。
「それに、侍女の話では、ご衣装がすべてなくなっていたとのことでございますっ」
老いた侍従長のクェイドが王に負けじと精一杯のしわがれ声で進言する。
「これはやはり、サフィラ様御自身の意志で姿をお隠しになったのでは……」
「うぬぬぬぬ」 王は呻いた。
「サフィラのことじゃ、城のどこかにこっそりと隠れておるのかもしれん。とにかく捜すのじゃ! 小部屋から塔の先端まで、捜せるところはすべて捜せ!」
躍起になって叫ぶ王の傍らで、常ならぬ大声を張ったためにクェイドがぜいぜいと息を切らしている。そのクェイドの元へ、トリビアが慌しく駆け寄ってきた。
「侍従長様っ、これ、これが、サフィラ様の寝室にっ」
トリビアが差し出したのは、筒のように丸められた一通の手紙であった。
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